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大事なあなた  作者: トウリン
ライオンのしつけ方
39/83

8

 新藤一智しんどうかずともの一日は、粛々と始まる。

 今日も彼は、百合ゆりが起こしにくるよりも早くスウェットの上下に着替え、部屋を出た。


 あれから一ヶ月。


 一智は毎日、『屋敷をランニングで二十周』の日課をこなしていた。最近では、ストレッチや筋肉トレーニングまでするようになっており、元々引き締まっていた身体は、より一層均整が取れてきている。


 ――そろそろ、赦してくれてもいいんじゃないかな……。

 走りながら、一智は期待する。


 この一ヶ月間、彼は実に『イイ子』だった。百合に叱られるようなことはせず――それ故に、何か物足りない。早くいつもの調子になってきつい言葉を投げ付けて欲しいとすら思うのだが、どこか沈んだような彼女が怖くて、怒らせるようなことができないのが現状だ。

 まるで不可視のバリアがあるように、今一歩が近寄れない。

 笑ってくれとは言わないが、せめて、以前と同じような距離感を取り戻したい。

 そう思って、ふと一智の中に「本当に?」と自問する声が響く。


 ――本当に、以前と同じような関係を取り戻したいのだろうか。兄と妹のような……母と子のような。


 改めてそう問うと、自分の望むものは、それとは何かが違う気がした。


 ふと、あの日の彼女の唇の感触がよみがえる。

 これまで味わったことのない甘さと柔らかさ――彼は今でもそれをはっきりと覚えていた。

 百合に近付けないのは、その所為もあるかもしれない。

 彼女側の拒絶のオーラだけではなく、自分の行動に自信が持てないからだ。

 今度しでかしてしまったら、もう修復不可能であることは間違いない。

 その時の彼女の姿も台詞も、容易に想像できる。

 火を噴きそうな勢いで眉を吊り上げ、お仕着せのエプロンを引き剥がして一智に叩き付けて部屋を出ていく百合。


 だが。


 ――いやだ。もっと、傍に置いておきたい。もっと、触れたい。……いっそ、自分の中に包み込んでしまいたい。

 百合の姿を頭に描いた途端、そんな考えが頭をよぎり、一智は愕然として立ち止まる。


 ――俺は、今、何を考えた?

 我に返ると、手が届きかけていた何かが遠ざかっていくような感覚に襲われる。


 とても貴重で、大事な何か。


 それを手に取ることができれば、全てが変わるような気がする。しばらく立ち止まって考えてみたが、一度離れてしまったものは、もう戻っては来なかった。


 一智は、溜息をついて再び走り出す。

 そして、また、考えた――百合との関係を修復する方法を。

 十周目を走り終えたところで、救い手の存在を思い出す。


 ――瑞江みずえだ。


 百合に直接訊けないのであれば、母親の瑞江に訊けば、彼女が好むものが何なのか、教えてもらえるに違いない。

 不意に視界が明るくなって、足にも翼が生えたように感じられた。

 さっさと残る十周を走りきり、手早くシャワーを浴びるとキッチンに向かった。

 早く起きるようになって百合の行動パターンを知ったのだが、大体この時間はアイロンのかけ直しをしている。


 果たして、期待通り、キッチンは瑞江一人が切り盛りしていた。

「瑞江」

 入り口を気にしながら、一智は瑞江に声をかける。振り向いた彼女は、こんな時間にキッチンに入ってきた一智に驚いたようだ。

「どうなさったんですか? お食事を早めますか?」

 いつもの食事の時間には、まだ一時間ほどある。


「あ、いや、ちょっと、訊きたいことがあっただけだ。食事はいつもどおりでいい」

「お訊きになりたいこと?」

「ああ」

 一智はそこで少し言葉を探した。

「あの、だな。百合が好むものって、なんだ?」

「は?」

 突然、何の脈絡もない質問に、瑞江が目を丸くする。

「いや、あいつ、誕生日も祝ってやれなかったし……。何かしてやれないかな、と思って。何か好きなものとか、好きなところとか……」

 誕生日と言っても、もう三ヶ月近く前のことになる。怪訝な顔をしながらも、瑞江は律儀に答えてくれた。


「……そうですねぇ。水族館とか、好きですよ。ストレス解消なんかに、よく独りで行ったりしていたみたいです」


「水族館……」


 そんなところでいいのだろうか。

 一智が今まで付き合ってきた女たちは、高級レストランを借り切って欲しいとか、超高級ホテルの最上階から夜景が見たいとか、ボートを借り切ってクルージングをしたいとか、そんなのが多かった気がする。


 怪訝な顔をする一智に、瑞江は笑って続けた。

「水族館は、亡くなった父親がよく連れて行ってくれたんです。ほら、水中トンネルみたいになっているところとか、あるでしょう? あれが好きで、あの子ったら、もう、あんぐり口を開けていつまでも見惚れてたものです。はっきり記憶に残るような年じゃなかったはずですが、多分心の一番深いところに刻まれているんでしょうね」

 その時の様子を思い出したのか、瑞江がフフッと小さく笑った。一智の脳裏にも、目を輝かせている百合の姿が浮かぶ。確かに、高級レストランで寛ぐ彼女は全く想像できないが、水族館ではしゃぐ彼女は想像するのも簡単だ。

「わかった。ありがとう」


 明るい見通しが立ってきて気をよくした一智は、瑞江に礼を言うと、意気揚々とキッチンを出た。そのまま自室に向かうと、いつものように百合が待っている。


「お着替え、こちらに用意してます」

 淡々とした態度で差し出された服を受け取りながら、さりげない口調で一智は誘いをかける。

「百合、今度の日曜日に、水族館へ行くぞ」

「水族館? 一智様がですか? どなたか、女性と? ああ、何か会社の催しですか?」

「お前とだ」

「私?」

 何の脈絡もない誘いに、当然のことながら百合は眉をひそめながら首を傾げる。考える余裕を与えると断られそうで、一智は一気に言い切った。


「お前、誕生日プレゼントを受け取らなかったじゃないか。その代わりだよ。好きなんだろう? 水族館」

「ええ、まあ……」

「よし、決まりだ。いいな」

 さっさと断言してしまう。律儀な百合は、一度約束さえしてしまえば、断れないに違いない。

「じゃ、着替えるぞ」

 強引に約束を取り付け、さっさと部屋から追い出した。日曜日は明後日なので、仕事だなんだと百合と接触する時間を減らせば、断られることもあるまい。われながら姑息だとは思いつつ、それぐらいしか手が思いつかなかった。


 ――会社に行くのが待ち遠しいなど、彼にとって、滅多にないことであった。



   *



「水族館ですか?」

 眉を上げた水谷みずたにが、一智が放った言葉を繰り返す。

 出社途中の車の中で、一智は水谷に日曜日の計画について話したのだ。


「そう」

「あなたにしては随分まともな選択ですね」

 サラッと失礼なことを言われたはずだが、一智は気付かなかった。得意顔で、更に伝える。

「だからな、その日は貸し切りになるように手配しておいてくれ」

「……はあ?」

「だから、貸し切りに――」

「聞こえています。そんなことしたら、また彼女に叱られますよ?」

「なんで。その方が女は喜ぶだろ?」

 至極当然、という顔で断言した一智に、水谷は溜息をつく。


「とにかく、私は、貸し切りにはしないことをお薦めします。それでも、どうしてもそうされたいとおっしゃるならば、直ちに手配しますが」

 そこまで言われると、なんだか一智も自信がなくなってくる。何しろ、百合に関してはやることなすこと裏目に出ているのだ。

「……わかった。じゃあ、止めておこう」

 渋々ながら頷くと、水谷がホッとしたように見えたのは気のせいだろうか。


「だけど、本当にたかが水族館ごときであいつが喜ぶと思うか?」

 一智は疑惑半分、不安半分で、何度なく自分よりも百合と親しいように感じられる腹心にそう問いかけた。

「まあ、高級レストランでのフルコースだとか高級ホテルの最上階からの夜景とかよりは、喜ぶと思いますが?」

「……だよな」

 いつも通りの平坦な表情でそう返され、まさにその選択肢がベストだと思っていた一智は、ボソリと呟いた。


 母である瑞江と彼の秘書に過ぎない水谷が同じ見解であるということが、微妙に気に入らない。


 ――なんで、俺にはあいつのことが解からないんだ?

 百合が何を好きかとか、どんなことで笑うかとか、誰よりも良く知っていたいというのに。


「一智様、何か?」

 彼が発する不穏な空気をいち早く察した水谷が、生真面目な顔でそう訊いてくる。

「何でもない」

 見るからに何でもなくない顔をしている事には気付かず、一智はむっつりとそう答えた。


 ――今大事なのは、俺のことじゃないだろう。

 とにかく、一智は百合を喜ばせたかった――それだけだ。


 自分を叱責して、気持ちを切り替える。

 この一ヶ月、一智は『反省』し、何が百合を怒らせるのかを考えた。

 まずは生活――朝帰りもせず、起こされなくても早起きをして朝の日課もこなし、社にも通っている。

 これは及第点をもらえるだろう。

 後は、不用意に触らないことだ。今まで一智が触ったりキスしたりして怒る女はいなかったが、多分、彼女を一番怒らせているのは、これだ。

 日曜もうかつなことをしないように、重々肝に銘じておこう。

 丸々一ヶ月間怒らせていないのだから、次のステップ、即ち、百合を喜ばせるという段階に進んでもいい頃合いのはず。

 喜ばせることができたら、彼女のあのよそよそしさもなくなるに違いない。


 ――ひとり頷く主人を隣から生ぬるい眼差しで見守っている秘書に、一智は気付いていなかった。


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