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独り部屋に残ると、一気に寝室は静けさを取り戻す。危うく、もう一度肌がけの下にもぐりこもうとして、流石に一智は自重した。
まったく、百合はいつでも面白い。七歳も年下だというのに、まるで母親のようだ。
たいていの女性は、一智の前ではシナを作り、決して声を荒らげたりはしない。
彼が何を言っても、あでやかに微笑んで「ええ、そうね、一智さん」。
そういう女性も嫌いではないが、正直言って、誰も彼も同じに見える。危うく名前を間違えそうになったことは、何度もあった。
だが、百合だけは、誰とも違う――誰とも、間違えようがない。
一智はベッドから下りて、彼女が置いていった着替えを手に取った。百合が丹念にアイロンをかけたシャツは、皺一つない。
その完璧さが彼女の潔癖ぶりを表しているようで、彼は小さな笑みを漏らす。
下着すら着けていないのは、確かに昨晩は面倒になったから、というのもあるのだが、時々、百合のあの反応を見たくなるから、という理由も混じっている。彼の裸――と言っても、せいぜい腹くらいまでだが――を見て顔を赤くする女性は、百合ぐらいなものだ。露出狂の気はないが、ついついやってしまう。
今日も、こちらを向いている時には視線を逸らしているし、背中を向けていても、真っ赤に染まった耳が丸見えだった。
クスクスと笑いながら、一智はシャツに腕を通す。
気が重い役員会に出なければいけない朝は、このくらいの楽しみがあってもいいだろう。
一智は大学卒業後に二年間ほど身分を隠して下請け会社で働かされた後、二十四歳から専務という役職に就けられた。だが、実績もない、血筋だけの若造についてくる者がいたら、それこそ驚きだろうし、胡散臭い。
名ばかりの専務という役柄は、はっきり言って、いてもいなくても同じだ。会議に出たところで、所詮、三代目の若造の言うことなど、誰も耳を傾けたりはしない。役員たちが喧々諤々とやりあうところに、ただ座っているだけだ。サボったとしても、誰も気にしやしない。
――そんなことに、何の意味があるというのか。
着替え終わってひげを剃り、髪を整える。
仕上がれば、見てくれだけは立派な、会社役員だ。
大きく息をつき、一智は寝室を後にする。
食堂では、一智の食事とともに、秘書の水谷真司がコーヒーを飲みながら待っていた。
社会人にしては長めな髪の一智に対して水谷は短く刈り込んでおり、いかにも『日本人』という容姿は生真面目を具現化したようだ。そういうところは、百合に通じる部分があるかもしれない――彼女にある可愛らしさは、彼には欠片もないが。
「おはようございます、一智様」
立ち上がり、きっちりと頭を下げる。かれこれ七年の付き合いになるが、毎回こうだ。多分、分度器で測ったら腰の曲がり具合はキッチリ四十五度に違いない。
「よ、待った?」
まるでデートの待ち合わせのような言い方に、水谷の眉がピクリと動く。
「二時間三十分ほど」
「あ、そう。悪かったな」
すぐに怒りを顕わにする百合と違って、水谷は滅多に表情を変えることがない。だが、秘かにイラッとしているのは、間違いないだろう。これはこれで、面白いのだ。
「俺はこれから朝飯だけど、一緒に昼飯食っとく?」
「いえ……結構です」
ニヤニヤと笑っている一智に対して、どう思っているのか。
無表情のまま、水谷が書類を差し出した。
「こちらが、本日の会議の資料です」
「ふうん」
スクランブルエッグをつつきながら、パラパラとめくっていく。
「――これって、ちょっと変じゃね?」
気になったところをチョコチョコと確認する合間に、時々百合が現れて給仕をする。
ふと、一智は彼女の手に目を留めた。
「あ、百合、ちょっと……」
「はい?」
動きを止めた彼女の右手を取り、小指の外側の辺りをペロリと舐める。
「――!!」
「ケチャップ付いてた」
手を放すと、百合はバッと両手を背中に隠してしまった。その顔はまさに茹でダコだ。
「ッ! ――おっしゃってくだされば、自分で拭きます!」
殆ど叫ぶようにそう言うと、百合は小走りで食堂を出て行ってしまう。さながらライオンから逃げ出す仔ウサギのように。
大声で笑う一智に、流石に水谷が咎めるような視線を向けた。
「おからかいになり過ぎでは……?」
「まあまあ。これでちょっとはやる気が出てきたよ」
そう言って、一智はトンと書類をまとめる。最後に百合が注いでいったコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。
「じゃあ、行くか」
*
キッチンに駆け込んだ百合は、流しに直行すると勢いよく手を洗う――冷たい水で流しても、まだ温かな感触が残っていた。
洗い物をしていた母の瑞江が、きょとんと百合を見つめている。
「どうしたんだい?」
「……一智様のイタズラよ」
「またかい? あの方も、子どもっぽいから……」
あれが子どもっぽい悪戯なのか、そうでないのか……。いずれにしても、百合のことを妹か、最悪母親としか見ていないからこその行動だろう。
どんな気持ちがあったら、『女性』にあんな嫌がらせができるというのか。
手が痛くなるほど流水をかけ、ようやく、百合の気が済んでくる。
全身から怒りを発散させている娘に、瑞江がおずおずと声をかけた。
「でも、お前にはホントに感謝してるんだよ? あの方付きのメイドが一年以上も続いているなんて、凄いことなんだから」
一月ともたずにコロコロと代わっていた頃を思い出したのか、瑞江が溜息をつく。
百合がメイドになってから、取り敢えず、どんなに遅くなってもちゃんと毎晩帰ってくるようになったし、出席しなければならない会議に遅刻することもなくなったから、と母は数え上げていく。
だが、しかし。
百合としては、そんなこと褒められているようでは、社会人としてダメすぎるだろうと思うのだ。
「あのね、お母さんは甘やかしすぎなのよ、『お坊ちゃん』を。やれば、ちゃんとできるんですから」
もっとビシビシしごいて、三十歳までには毎朝必ず九時に出勤するようにさせるのが、目下のところの百合の目標になっている。
「早いところ奥様を見つけてくだされば、もう少し落ち着くんだろうけどねぇ」
再び洗い物に戻った瑞江が、手を動かしながらそうぼやく。
女性との関係は相変らず派手で、とっかえひっかえどころか、時々、同時に複数と付き合っているような節がある。それを百合が諌めたら、「公認だから」とシレッと返された。
女性が浮気を認めているなんて、百合には到底理解できない感覚だ。自分だったら、別に金持ちでも格好よくなくてもいいから、自分だけを見つめてくれる人がいい。そして、質素でも幸せな家庭を築くのだ。
平凡だけれども、温かくて幸せで安定した家庭。
父親を早くに亡くした百合には、それが何よりの夢だった。
母の瑞江も結局父のことが忘れられずに、再婚せずに今まで来ている。何度か親しくなりかけた男性はいたけれど、結局父に勝る人はいなかったのだ、と。
百合も、そうやって、たった一人の相手を見つけたかった。
――こんな生活だと、その出会いもないんだけど……。
一智のわがままに振り回されて、早一年強。住み込みで、屋敷の外に出ることも滅多にないため、出会いというものが欠片もなかった。
百合はまだ二十歳だが、この調子で行けば、もう二十歳、と言った方がいいのかもしれない。
「あぁ、結婚したいな……」
ポツリと呟いた百合に、心配そうに瑞江が尋ねる。
「結婚しても、坊ちゃまの面倒見てくれる?」
――いくら大事な母の頼みでも、正直言って、ゴメンだった。
どうぞツッコんでください。セクハラ野郎です。
もう、ダメ男です。