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大事なあなた  作者: トウリン
ライオンのしつけ方
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1

「ねえ、百合ゆり。あんた一智かずとも坊ちゃまのメイドをやってくれない?」

 高校を卒業したばかりの春、春日かすが百合は、母の瑞江みずえからそう声をかけられた。


 母のその言葉に、百合は眉をしかめる。

「でも、専門学校にお金振り込んじゃったでしょ? もったいないじゃない」

 いずれ母のような家政婦になるつもりの百合は四月から家政科のある専門学校に通う予定で、一年分の授業料はすでに支払い済みだった。

 臨時で掃除をするとか給仕をするとかならまだしも、個人付きのメイドなんて、片手間ではできないことだ。

 メイドは将来就こうと思っている仕事に近いわけだからバイト程度であれば構わないけれど、学校に通いながらでは本格的に働くほどの時間は作れない。


 母の願いを聞いて一智付きのメイドをするか、それとも入金済みの専門学校を諦めるか。


 新藤家の給金は結構良くて、母一人子一人の春日家はそこそこ良い暮らしをできているけれど、一年分の授業料を何の未練もなくどぶに捨てられるほど裕福でもない。


「授業料、返してくれないと思うよ?」

 暗にメイドの話を断ろうとする百合に、瑞江は片手を頬に当てて小さく首をかしげた。

「それがね、旦那様がその分出してくださるっておっしゃるのよ」

「旦那様って、一徳かずのり様?」

「ええ」

「出世払いとか後で丁稚奉公とかじゃなくて?」

「自分の方が無理を言うのだからって……」

「太っ腹」


 もっとも、新藤家にとっては、たかだか百万程度の授業料なんて些細なものなのかもしれない。

 瑞江が家政婦をしている新藤家は、数代に渡って新藤商事という結構な規模の企業を率いている。彼女がまだ百合くらいの年からその屋敷で働いているので、もう三十年近くになる筈だ。

 新藤家に対する瑞江の忠誠心は篤く、主人から乞われれば何としてでも叶えなければと思うのだろう。


 懇願する眼差しを向ける母を見返しつつ、百合は思案する。

 百合自身も時たまアルバイトがてら母の手伝いをすることがあって、元当主の一徳とは幾度か顔を合わせたことがあった。貫録のある、いかにも『大企業の偉い人』というイメージだ。

 一方、瑞江が百合にメイドをして欲しいと言っている一智とは、殆ど面識がない。何故なら、彼は滅多に屋敷にいないからだ。


「一智様のメイドなんて、いくらでもなり手がいるんじゃないの?」

 そう母には言いながら、百合は漏れ聞こえてくる一智の風評を頭の中で思い返していた。

 彼は新藤家の一人息子で新藤商事の跡取りなのだけれども、どうにも締まらない人物らしい。大学を卒業して三年になるというのに、まだ仕事に身を入れるわけでもなく、毎日ダラダラ遊び暮らしているという。


 特に困っているのが――。


「坊ちゃまは男振りが良くて、しかも財産をお持ちでしょう。もう、女性が放っておかなくて……。坊ちゃま付きにすると、みんな目の色が変わっちゃってね。この間は母親ほどの年の人にしてみたんだけど、『これ以上お傍にいられません』と辞めてしまって。根はちゃんとした方だから、坊ちゃまの方から使用人に手をお出しにはなることはないのだけど……。いつかは間違いが起きそうで。いっそお世話をする人を男性にしてしまおうかと思っても、坊ちゃまはそれはイヤだとおっしゃるし」

 瑞江は二十五歳にもなる一智を未だに『坊ちゃま』と呼ぶ。彼が小さい頃からずっと見ているから、半分自分の子どものような感覚でもあるらしい。


 溜息をついた瑞江は、しみじみと百合を眺める。

「あんたは……しっかりしているし、大丈夫だと思うんだよね」


 多分、瑞江としては『しっかりしている』という点の他に、百合の容姿も考慮に入れたのだろう。

 親の欲目を入れて五割増しで見たとしても、百合は平凡を絵に描いたような容姿をしている。

 背中の半ばまであるストレートの黒髪は艶やかだけれども色気だとか華やかさはない。いつも首の後ろで一つにくくっているのは、スルスルし過ぎているので、凝った髪型はできないからだ。

 目は少し大きめだけれども、銀縁の眼鏡をかけているのであまり目立たない。

 鼻はちょっと低め、唇は少し小さめ。


 どこからどう見ても、『普通』だ。


 体型も、どちらかというとややふっくらだが、『中肉中背』という言葉がぴったりだ。

 ――百合としても、別に男性にもてたいという気持ちは皆無なので、外見を気にしたことはなかったが。


 堅物一歩手前の真面目な性格で浮ついたところは皆無。責任感の強さと母譲りの世話好き精神で、ほぼ毎年、学級委員長に選ばれた。

 生まれてこの方十八年、男性に熱を上げたことも、男性から告白されたこともない。恋愛ものの小説や漫画は読むけれど、あくまでもあれはフィクション。自分とは全く縁がない夢物語だと思っている。

 きっと、一智が百合に手を出そうと思うことはないだろうし、百合の方から一智にのぼせ上がることもないだろうと瑞江は考えている筈だ。


「頼むよ。旦那様もほとほと困っていらしてね」

 殆ど娘を拝むようにして、瑞江が言った。


 父親は、百合がまだ三つの時に事故で亡くなった。以来、瑞江は女手一つで彼女を育て上げてくれた。百合としても母がそこまで頼むのならば、是非とも協力してあげたい。


「わかった、母さん。いつから行ったらいい?」

 ニッコリ笑って快諾した娘の手を、母親は喜びとともに握り締める。

「助かるよ! 明日からでもいいかしら? 坊ちゃまは付きっ切りで世話してあげる人がいないと、ダメで……」


 百合は内心、「どんな二十五歳だよ」と突っ込んだが、それは隠して頷いた。

「じゃあ、明日から行くよ」


 

   *



 問題の『坊ちゃま』との顔合わせでは、実際に『顔を合わせる』ということはできなかった。

 何故なら、昼過ぎに百合が新藤家を訪問した時、彼はまだベッドの中で布団をすっぽり被っていて、彼女が屋敷を引き上げる時間になってもそこから出てこなかったからだ。

 挨拶をした百合に対して、辛うじて、「よろしく」とか何とか、半分以上夢の中にいるような声でもごもごと返してきたけれど。


「有り得ない」

 思わずこぼれてしまった百合の呟きは、主には届かなかったようだ。もしかしたら、彼女と会っていること自体、彼は認識していなかったかもしれない。


 想像以上の、ダメ人間っぷり。


 百合は布団をはぎ取りベッドから蹴り出してやりたい衝動に駆られたが、彼は『主人』なのだからとグッと堪えた。

 代わりに、彼女は心に決めたのだ。

 自分が傍にいる限り、何としてでも、彼にまともな生活をさせてみせる、と。


 この時、百合は十八歳、対する一智は二十五歳。



 ――そして、一年と数ヶ月が過ぎた。



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