十二
――いったいぜんたい、何がどうなってこんなことになっているのだろう。
ふかふかのソファの背もたれにうずまりそうなほどしっかりと背中を押しつけた弥生の頭の中には、その台詞が少なくとももう五回はよぎっていた。
目の前に立っているのは、圧倒されるような長身の美女――園城寺薫子だ。
週刊誌で一輝と一緒に写っていた女性のはずだけれども、当然のことながら、弥生と薫子の間に接点は一つもない。
きれいだけれどもとても怖い眼差しで見下ろされ、弥生はこの女性にこんなふうに見られる理由を、混乱する頭で懸命に考えた。
けれども、弥生に答えが見つけられる筈もない。彼女にとって、『逆恨み』という言葉はフィクションの中にしか存在しないものだったから。
「あ……の?」
何とか事態を打開しようと、弥生は恐る恐る薫子に声をかける。
冷たい眼差しがスッと一層冷ややかになり、それきり彼女は口を閉じた。
――ほんとに、なんなんだろう?
弥生は首にかけているネックレスを指で手繰り、蝶の形のチャームを握り締める。
ここに至るまでの経緯は、あれよあれよという間のことだった。
大学が終わり、一度家に帰って夕食の支度をした。電子レンジで温めるだけの状態まで整えて、もう一度自分の気持ちを確かめてから、一輝のもとへ向かうために家を出た。
電話で話した橘は迎えを手配すると言ってくれたけれど、弥生は断った――その方が、気持ちが落ち着くだろうと思ったからだ。
バスと電車を乗り継いで、新藤商事本社の最寄り駅で降りて。
一輝が待つビルを見上げて深呼吸をしたところで、後ろから声をかけられた。
振り向いた先にいたのが、この女性で。
いぶかしむ間も無く、サッと近寄ってきた車の中に引っ張り込まれて――一輝のことで話があると言われた。
そう言われると無下にもできず、約束があるから、と一輝に連絡を入れるために携帯電話を取り出したら奪われ、電源も切られてしまった。
そうして今、このホテルの一室に、園城寺薫子と二人きりでいる羽目になっている。
――一輝君、待ってるのに……
チラリと時計に目を走らせると、約束の時間をもう三十分以上過ぎていた。きっと、彼は心配していることだろう。
いつまでもこうしているわけにもいかない。
意を決し、もう一度、弥生は薫子に声をかけた。
「あの、それで……?」
じっとりと、獲物を呑み込もうとする蛇のような、薫子の眼差し。
不意に、彼女が笑みを浮かべた――が、その笑みは見てホッとするようなものではない。
「あなた、新藤一輝とどんな関係なの?」
「え……? 一輝君?」
「そう、新藤一輝。彼って、素敵よね。十五歳なのに、物凄い財産を持っていて、クールで……素敵だわ」
弥生には、この女性がいったい何を言いたいのかが判らない。一輝を褒めている台詞なのに、目は冷ややかで――そこに潜むのは怒りだろうか?
「あたくしはね、彼と結婚する筈だったのよ。彼のおじい様が紹介してくださって。彼を落とせたら、あたくしを新藤家に入れてもいいとおっしゃったのよ」
「一輝君のことを……好きなんですか?」
おずおずとそう問いかけると、薫子は呆れたような笑みをを浮かべる。
「好き? そんなこと、どうでもよかったわ。新藤家の財産がどれほどあるのか、知らないの? あれのためなら、何だってするわよ」
「……財産」
弥生はその言葉を呟く。
チャームを握る手に、自然と力がこもった。
高価ではない、けれど、一輝が一生懸命に選んでくれた、ネックレス。
ありがとうと言うと、彼はとても幸せそうに微笑んでくれた。
キュッと唇を噛んだ弥生には目もくれず、それなのに、と薫子は憎々しげに吐き捨てる。
「あの坊や、あたくしのことを馬鹿にして! 腹が立ったから、ちょっと虐めてあげようかなって、思ったの」
うふん、と鼻を鳴らして笑うさまは蠱惑的なのに、目の中にチラつく光と口からこぼれている台詞の内容はそこはかとなく物騒だ。
獲物をなぶるような薫子の態度は、いつもの弥生なら怖気づいてしまったかもしれない。
けれど、今の弥生の中では怯えよりも怒りの方が強かった。
「一輝君とお付き合いしたのは、お金のためだったの……?」
弥生のその問いに、薫子が目を丸くする。
「当たり前じゃない。そりゃ、彼自身も素敵だけれど、もっと素敵なのは彼が持っているモノよ?」
「……結婚したら、一輝君を幸せにしてた?」
「幸せ! 当然よ。男はみんな、あたくしで幸せになるわよ? この身体で」
「からだ……?」
「そう、もう、天国のようだって、みんな言うわ」
何だか、微妙に会話が食い違う。
「それって、『からだ』のことだけなの?」
「そうよ。男と女の間にあるのは、それが一番でしょ。彼はあたくしの身体で楽しめる。あたくしは彼のお金で楽しめる。ほら、お互い幸せじゃない」
――それが本当に、一輝君にとって幸せなの?
弥生は自問し、首を振る。とてもそうは思えなかった。
「違う、違うよ。それは『幸せ』なんかじゃないと思う」
「まあ、何が? あなた、シたこともないんでしょ? てんで、ガキ臭いもの。どんなに男が悦ぶか、知らないくせに。一輝クンだって、同じよ」
「でも……そんなの、全然幸せそうじゃない。あなただって……」
「うるさいわね!」
言い募る弥生に、蕩けるような顔をしていた薫子が、豹変する。そのあまりに唐突な変貌に、思わず弥生は息を呑んだ。ギラギラとした目が向けられて、今すぐにこの場から逃げ出さなければ、何かが起こると直感した。けれど、立ち上がりかけた弥生の腕を、薫子がしっかと掴む。
痛いほどにソファに押し付けられて、思わず弥生は息を呑んだ。
薫子の顔が近付き、鼻先が触れ合いそうになる。
「あんたに何が解るのよ……いいわ、もう。最初は、アイツに仕返ししてやりたいだけだったけど、あんたもムカつくもの。滅茶苦茶になっちゃえばいいのよ」
「え……?」
弥生は薫子が何を言っているのか解らず、おろおろと見上げるだけだ。薫子はそんな彼女を引きずって歩き出すと、続き部屋へのドアを開ける。
その先は寝室で、クイーンサイズのベッドが置かれており、中には三人の男が思い思いに座っていた。
「ほら、この子よ。好きにして」
そう言いながら、薫子は投げ出すようにして弥生を放す。
よろけて膝を突いた弥生を、ゆっくりと立ち上がった男たちが取り囲んだ。明らかによくない雰囲気に、弥生は逃げ道を探すが、三人がほぼ等分に立っている間をすり抜けるのは難しそうだった。
「へえ、ちっちゃいな。でもふにふにしてそうじゃん」
「あ、俺は小さい方がいいや」
「抑え込みやすいけどな、俺はもうちょっと……」
男たちは好き勝手な言い様だ。見下ろしてくるあからさまな捕食者の目付きに、弥生は自分がネズミにでもなったような気がしてくる。
不意に、彼らのうちの一人が手を伸ばし、弥生の腰を鷲掴みにする。
「ほそーい。かるーい」
茶化すように言いながら彼女をヒョイと持ち上げると、男はそのままベッドの上に放り投げた。
「……っ!」
思わず目を閉じ、再び開けた時、弥生の視界は覆いかぶさる男で塞がれていた。
「ほら、おとなーしくしてたら、気持ちよくさせてやるからさ。暴れると、痛いよう?」
男が何をしようとしているのか解らないほど、弥生も無知ではない。自分に向けて男の手が伸ばされた時、弥生は声にならない声で、たった一人の名前を呼ぶ。
――一輝君!
何故、その名前が出たのかは判らなかった。
けれども、弥生が助けを求めて呼んだのは、その名前だけだった。
それに応じるように。
「君たち、その人から離れてもらえるかな」
この上なく穏やかでいて、聞く者の心を凍りつかせる声が、部屋に響き渡った。