十一
「行ってきまぁす」「行ってくらぁ」
葉月と睦月の元気な声が玄関で響く。
「行ってらっしゃい。あ、ちょっと待って、睦月、お弁当!」
つっかけサンダルを履いて、弥生は大声を上げながら睦月を追いかける。
毎朝繰り返される、平凡な、朝の風景。
平凡だけれども、弥生にとっては幸せな、風景。
帰ってきた家族に「ただいま」と言われて、「お帰りなさい」と応える。
夕食の席ではその日あったことを話し合って、笑い声を上げる。
――これが幸せでは、いけないの?
あれから、何度も考えたことをまた考える。
――一輝君にとっての幸せのカタチは、どんなもの?
一輝に最も近い一智は、会社のために生きることが彼の幸せだと言った。
弥生にとっての幸せは、家族を家で休ませ、また元気に送り出せることだ。
――この二つは、一緒には成り立たないものなの?
弥生が幸せだと思うことは、一輝にとってはどうでもいいことなのだろうか。
切実に、知りたいと思った――一輝にとっての幸せを。
――一輝君は、どうして欲しい? どうしたら、一輝君はずっと笑っていられるの?
一智に現実を突きつけられたあの日から、もう十日が経った。
その間、毎日花束は届けられている。
これほど長い間、一輝の顔も見ず、声も聞かずに過ごすのは、弥生が彼と出会って以来初めてだった。
「逢いたいな」
ポツリと呟くと、その想いが胸から溢れてくる。
逢って、その先どうしたいかは、まだわからない。
とにかく、声を聴きたい。
逢って――あの優しい笑顔を見たい。
「逢いに、行こう」
声にすると、もう、居ても立ってもいられなくなる。
弥生は、携帯電話を握り締めた。
*
電話を受けている橘が、笑顔になる。
一輝は、何をそんなに喜んでいるのかといぶかしみながら、彼が電話を終えるのを待った。それほどかからずに橘は電話を切ると、主人に向けてニッコリと笑いかける。
「朗報ですよ」
「どんな?」
一輝は投げやりに促した。
正直言って、今の彼にはどんないい話でもどうでもいいことだった――弥生のことを除いては。
もう二週間近く弥生から遠ざかっていて、欲求不満も限界にきている。
彼女に逢いたくてたまらない。
一輝は苛々と人差し指の先でトントンと机の上を叩いた。
もう、動いている彼女を見られるだけでもいい。
ここいらで少しガス抜きをしないと、いざ彼女に逢った時に自分が何をしてしまうかわからないほどだった。
一輝は己の未熟さに苦いため息を吐き出す。こんなにも忍耐力のない人間だったとは、初めて知った。
「おや、あまり興味がおありではないようで」
気もそぞろな一輝に、ニヤニヤと、橘が人の悪い笑顔になる。
「だから、何なんだ?」
「だから、朗報です――弥生様がいらっしゃいますよ」
「何!?」
思わず、一輝は立ち上がる。しかし、来るというだけでは、どんな結論になったのかが判らない。
「他には、何と?」
「他に、ですか? さあ、ただ、今日、一輝様にお会いになりたいとだけ……」
ようやく逢えるという嬉しさが、一輝の中でむくむくとこみ上げてくる不安と入れ替わっていく。
――もしかしたら、もう逢わないつもりなのかも……。
一輝はどさりと椅子に戻った。
もしも弥生が彼のことを諦めることに決めたのなら。
――無理だ。
一輝の咽喉から呻き声が漏れる。
とてもではないが、そんなことは受け入れられない。
だが、物腰の柔らかな弥生の意外なほどの頑固さを、一輝は知っていた。
特にそれが一輝の幸せを考えて決めたことであれば、彼がどう言い含めようとしても決して聴き入れはしないだろう。
新藤商事総帥としての一輝は、常に自信に満ち溢れている。迷いや不安などとは無縁だった。しかし、弥生のこととなると、絶対に大丈夫だという確信が持てない。
「何時に来てくださる、と?」
「業務が終わる十八時にお願いします、とお伝えしましたが」
今は朝の八時――まだ半日近くもあるのか、と一輝は落胆を隠せない。
それからの十時間を鋏で切り取って捨ててしまえるものならば、一輝はそうしただろう。
その日の一輝の仕事に対する熱意は、いつにもまして、周囲の者を驚嘆させたのだった。
*
その視線は、終始、大学生とは思えない容姿のその娘のことを追いかけていた。絡みつくようなそれは、彼女の一挙手一投足を観察する。
視線の主――園城寺薫子は、本当にその娘が目当ての人物なのだろうかといぶかしむ。しかし、雇った男からの報告では、確かに新藤一輝は何かと都合をつけてはその娘に会いに行っていたということだし、ここ二週間ほどは、直接会うことはないものの、連日花を贈っているとなっている。
女として、自分があんな子どものような娘に負けたとは思えない。しかし、新藤一輝にとって、何がしかのウェイトを占めていることには間違いはないのだろう。
新藤一輝から屈辱的な対応をされてから、一週間。
薫子は躍起になってあの少年の弱点を探した。依頼した探偵事務所は、両手の指でもまだ足りない。しかし、それだけしても、役に立つような報告を持ち帰ったのは一社のみ――見つけられた『隙』はあの大石弥生という娘だけだった。
ごくごく平凡な娘。見てくれも、生活も。
大分前に母親を亡くし、この娘が母親代わりをしているようだが、全然不幸そうではない。貧相な大石家からはいつも笑い声が聞こえてくる。
その笑い声を聞くと、薫子の胸に何かチリチリと焼けるような感覚が滲み出てきたが、それが何なのかは解らなかった――解りたくもなかった。
娘が男女の友達らしき二人組みに声を掛けられて振り向き、笑顔になったのが見えた。心から嬉しそうなその笑顔が、無性に気に障る。
何の取り柄もないくせに、一輝に関心を向けられて、あんなに――。
薫子は爪の先を噛み切った。
彼女は、生まれてこの方『苦労』というものをしたことがない。
新藤商事程ではないが、園城寺建設はそれなりの規模の企業で、物心ついた頃から欲しいと思ったものは何でも与えられてきた。ただ一言、父親に「欲しい」と言えば、それだけで簡単に手に入ったのだ。薫子が自身の魅力に気付いてからは、ねだる相手は父親から彼女に群がる男たちに変わったが、同じように望みは叶えられた。
それなのに。
自分は、あんなふうに笑ったことがあるだろうか。
今も、娘は満面の笑みを友人二人に振り撒いている。
あの弥生という娘が、どれほどの役割を果たしてくれるものなのか。
もしかしたら、一輝にとって、何の影響も与えないのかもしれない。
それでもいい、と薫子は思った。
あの娘が、二度とあんな笑顔を浮かべられないようにしてやれるなら、それはそれで胸がスッとするに違いない。
そして、また次を探せばいい。
物を見るように自分を見たあの少年の表情を、ほんの少しでも動かすことができるならそれでよかった。
計画は立てた――後は実行に移すのみ。
薫子は、獲物を狙う猫のように、チロリと唇を舐めた。