十
弥生が一輝の祖父、一智と会ってから、一週間。
一輝からは、毎日花束が届く。
それはピンクの薔薇であったり、可愛らしいチューリップであったり、見たことのないようなフワフワした花だったり――他の人に任せず、彼自身が弥生のために選んだことが伝わってくるものばかりだった。
毎日送ってくることが前提なためか、一つ一つは小さいものばかりだ。
弥生はマメに水切りをして、できる限り長くもたせていた。最初にもらったものもまだ瑞々しいままの姿を保っている。
「姉ちゃん、また来たぜ」
そう言って睦月が持ってきたのは、黄色を基調にした、ひまわりがメインの見るだけで気分が明るくなるような花束だ。
弥生は添えられたカードを見つめる。
――あなたに会いたい。
いつも、書かれているのは一言だけ。けれど、その一言が、弥生の胸を苦しくさせる。
――もう少し、もう少し待ってね。
あれから、ずっと考えている。
考えて、考えて……この迷いから、あと一歩で抜け出せそうな気がする。
『新藤』を背負う一輝の幸せは、隙を見せず、誰からも一目置かれる『新藤商事の総帥』でいることにあるのかもしれない。
でも、『新藤』ではない、ただの一輝だったらどうだろうか。昔、短い間でもここで過ごしていた時、彼はとても楽しそうだった。
あれも一輝の幸せのかたちの一つだったに違いないと、弥生は信じている。
『新藤』一輝も、『ただの』一輝も、どちらか一方だけでなく、どちらも同じように幸せにすることが、自分にはできるのだろうか。そう、弥生は自問する。
答えは、まだ、見つからない。
*
弥生が答えを探し求めていた頃、新藤商事の執務室では、まるでヤニが切れたニコチン中毒者のように、総帥がジリジリと落ち着きをなくしていた。
弥生に逢いに行かないようにしてから、一週間。
それまでは三日と空けず、何かと理由をつけては、少なくとも顔だけは見に行っていたのだ。
「そろそろ、行ってみてもいいのではないかな……」
ぼそりと呟いた一輝に、橘がきっぱりと首を振る。
「まだです」
「五分だけでも――」
「我慢なさい」
「ちょっと覗くくらいなら――」
「駄目です。弥生様の方から会いに来られるまで、辛抱のしどころです。いずれ必ず、いらっしゃいますから」
橘は断言するが、一輝には確信が持てない。
弥生自身が「自分が辛いから」と離れていくことは、ないと思っている。
困るのは、「一輝のために」と離れていってしまうことだ。もしも彼女がそんなふうに迷っているのならば、今すぐ傍に行って抱き締め、自分がどんなに弥生を求めているかと説得するべきではないだろうか。
あの後、祖父を問い詰めてみても、あの貍じじいは全く手の内を明かさなかった。彼が何かを仕組んでいることは間違いないというのに。
いったい、一智は弥生にどんなことを吹き込んだのか。
それさえ判れば、手の打ちようがあるのだが。
日毎に増えていくため息を今日も深々と吐き、一輝はデスクに向かう。
いくら気分が沈んでいても、それと総帥としての自分とは別の話だ。
いつもどおりに職務をこなし、案件を片付けていく。むしろ、仕事に集中している方が余計なことを考えなくて済む分だけ、楽だった。
そろそろ昼休みになろうかという時、秘書から面会の希望者がいるとの連絡を受ける。
「アポイントメントは入っていなかったのですが……」
橘が首を傾げながら手帳を確かめた。
「どちらの方だ?」
一輝がインターホン越しに秘書に問うと、彼女は困ったような声で返す。
「それが……名前を仰らないのです。ただ、一輝様は会うことを望まれる、と……。……女性の方なのですが……」
そこまで聞いて、一輝の中に「もしや」という期待が溢れてくる。
――弥生かもしれない。
普段、弥生がここに出入りする時は橘が連れて上がってくるため、秘書を介したことがないのだ。秘書は弥生を知らず、弥生も何と言ってここに繋いでもらったらいいのか判らないのかもしれない。
弥生を待ち焦がれるあまりに真っ当な判断能力を欠いていた一輝は、つい、己の望むように解釈してしまった。
「ここへお通ししろ」
「一輝様、ちょっと、お待ちを」
「いい」
咄嗟に遮ろうとした橘を手で制し、一輝は秘書に指示を出す。
期待に満ち満ちて立ち上がった一輝だったが、やがて姿を現した人物を目にした途端、このビルの屋上から地下駐車場まで突き落とされたような落胆を味わった。
「園城寺さん……」
姿を見せたのは、園城寺薫子――すらりと長身で目の覚めるような美しさを誇る、だが、一輝にとっては諸悪の根源でしかない女性だ。祖父に言われて何度か食事をしたが、例のマスコミすっぱ抜きの件もあって、もう二度と会うつもりはなかった。
「一輝君、なかなか声を掛けてくださらないから、会いに来てしまったわ」
鼻から抜けるような甘ったるい声でそう言いながら、薫子は腰を優雅に振りつつ一輝に近寄って来る。
「まだ、仕事中ですので」
氷よりも遥かに冷たい声音に気付いていないのか、薫子は多くの男性が蠱惑的と受け取る笑みを浮かべる。腰に置かれた手が、くびれを強調させた。
「あら、いやだ。でも、もうすぐお昼の時間でしょう? お待ちしておりますから、ランチに行きましょうよ」
彼女が単なる新藤商事の権力に群がる女性たちの一人であるだけならば、さっさと追い返していただろう。だが、一智の肝煎りとなれば、そうはいかない。
一輝は、言葉だけは丁重に、言う。
「申し訳ありませんが、まだ当分かかります」
「じゃあ、先に食事を済ませましょう。ランチが美味しいフランス料理のお店があるのよ」
そう言いながら、薫子は、ささくれ一つない綺麗に整えられた指先で、一輝の頬をたどる。自信に満ち満ちた眼差しは、よもや自分が断られようとは、微塵も思っていないようだった。
「ほら、行きましょう」
薫子が誘うように一輝の肩に腕を絡ませる。
その瞬間。
堪えに堪えていた苛立ちが限界を超える。
「放していただけますか」
これ以上はないというほど、冷え切った声。
出会って以来、薫子には作った微笑みと礼儀正しい態度を保ってきた。
経験豊富な彼女は、自分が迫れば『思春期の男の子』など、すぐに落とせると思っていたに違いない。初っ端っから常に自信満々で、当然のように気軽に触れてきたのだ。
そうされるたびに一輝は三秒で身をかわしてきたが、さりげなくこなしてきたから薫子は避けられていると気付いていなかっただろう。
彼は今、初めてはっきりと彼女の行動が不快であることを示した。
薫子はドライアイスにでも触ってしまったかのように思わず手を放し、一歩後ずさる。
彼女に向けた一輝の眼差しからは偽りの温かさは消え去り、まるで物を見るようなものとなっていた。
「あたくし……何かお気に障るようなことをしてしまったかしら……?」
薫子は適度な媚を含ませた目で、掬い上げるように一輝を見つめる。
恐らく、数多の男どもを陥落させてきた『得意技』だったのだろう。
だが、それに応じた一輝の視線は。
「私には、あなたをつまみ食いする気はありません」
それは、『お前に本気になるつもりはない』というあからさまな意思表示だった。
「あたくしは、おじい様の……」
「祖父は関係ありません。私は、共に過ごす女性は自分で選びます――それは、あなたではない」
心持ち見開かれた薫子の目は、戸惑いを通り越して「信じられない」という思いを露わにしている。
彼女からしたら、会うたび甘い微笑を返してくれていた、もう手に入ったも同然の獲物だったのだろう。
今目の前にいる男が逢瀬を重ねてきた相手と同じ人物だとは信じられない様子だ。
一輝の、薫子に向ける視線は冷ややかだ。
普通ならば、怯むだろう。
だが、この時、薫子の身体の奥は、彼から甘い笑みを向けられていた時よりも熱くなっていたのだ。
薫子は、ふるりと身を震わせる。
――この男を落としたい。
彼女の中には、強烈な欲求が膨れ上がる。
一智からその孫を紹介された時は、『新藤商事の総帥の妻』という、生家の園城寺建設よりも遥かに大きなステイタスを手に入れられればいいと思っていた。
両手の指の数でも足りない男たちを手玉に取ってきた薫子にとって、まだまだ子どもの一輝は富と地位のおまけに過ぎなかった。穏やかで甘い男など、正直言って全く食指が動かなかったのだ。
しかし、今、一輝にこの怜悧な一面を見せられて、薫子は自分がこの男を熱くさせる場面を考えた――ぞくぞくしてくる。
「ごめんなさい。お邪魔しちゃったのね? また日を改めるわ」
「いいえ、必要ありません。もうお会いすることはありませんから」
薫子は殊勝な態度に作戦を変更してみたが、一輝は取り付く島もない。
「そんな……まだ、あまりお話もしていませんわ」
少し哀れっぽさを足す。目も潤ませて。
しかし。
「特にお話しすることはありません」
一輝の眼差しが表すもの――それは、無関心。
この男は、自分に対して何の興味も持っていないのだ。そして、これからも持つ気がない。あの甘い態度は『演技』に過ぎなかったのか。
それを悟ると、薫子の中に込み上げてきたのは激しい屈辱感だった。
男性は、すべからく自分の美しさを賞賛すべきなのに。
わなわなと身体を震わせ、柳眉を逆立てた薫子は、それでも美しい。だが、一輝の心を動かすものではないのだ。
大輪の深紅の薔薇のような薫子を前にしても、一輝の心が求めるのは小さなタンポポのような弥生だけだということを、彼女は知らない――知っても、理解できないだろう。
「さあ、仕事がありますので、お引取りいただいてよろしいでしょうか? 橘、ご案内を」
「結構よ」
声は冷ややかだが、その目が何よりも雄弁に薫子の胸中を物語っている。
薫子は険しい眼差しで一輝を睨むと、消音カーペットであるにも関わらず足音を立てそうな勢いで、部屋を出て行く。
「どうやら、独りで帰れるらしい」
澄ました顔でそう言った一輝に、橘は渋い顔を向ける。
「一輝様……あの手の女性は、もう少し扱いを慎重になさらないと……」
「願い下げだ。あの馴れ馴れしさと香水臭さには、いい加減、うんざりしていたんだ。そもそも、弥生さんとの関係がこじれてしまったのも、あの女の所為だろう。これ以上、付き合ってやる義理はない」
いかにも「清々した」と言わんばかりの一輝に、橘は諦めたように首を振る。
――ようやく厄介払いができたことに鼻歌すら出そうな一輝は、彼よりも経験豊富な橘の目に浮かんだ懸念の色には気付いていなかった。