九
これ以上はないという速度で仕事を終えた一輝が大石家に着いた時、弥生は家にいなかった。
彼を迎えたのは求めていた愛しいヒトではなく、憎たらしいほどの図体に成長した睦月である。
一輝も、けっして小さくはない。十五歳で百七十センチあれば、充分の筈だ。
しかし、睦月は一輝よりも数ヶ月『年下』だというのに、彼よりも十センチ近く大きかった。元々の身長差に加えてかまちの上から見下ろされると、気分が良くない。
逢いたかった人には逢えず、睦月には何となくエラそうに見下ろされ、その上にもたらされた情報で、一輝の中には苛立ちがこみ上げてくる。
ボリボリと頭を掻きながら玄関に姿を現した弥生の弟は、姉はいないと言って眉をひそめたのだ。
「では、その迎えは、確かに新藤家からと言ったのですね?」
「ああ。ごっついベンツで来たぜ? 筆で書いた手紙を持ってきてた」
時間を訊くと、一時間ほど前のことだった。一輝はスマートフォンを取りだし画面を確かめる。
「それ、何だ?」
「秘密」
睦月が一緒になって覗き込んでくるのへ、おざなりに返事をする。
画面には地図が表示され、そこに小さなマークが点滅していた。その場所は、確かに新藤家だ。
ギリ、と一瞬奥歯を噛み締め、一輝は即座に身を翻した。
「橘、すぐに車を出せ!」
「ちょ、おい!? あれ、お前んとこの奴じゃなかったのか!?」
慌てたように追いかけてくる睦月に、一輝は振り返りもせずに返事をした。
「いや、確かに僕の家の者だ。大丈夫、弥生さんはちゃんと連れ帰る」
それだけ言うとさっさと車に乗り込み、発進させる。
「橘、うちのおじい様は、いったい何を考えているんだ?」
「……一輝様にとって、一番いい方法かと……」
怒りを漲らせている一輝を宥める口調で、橘は控えめに答えた。だが、あまり効果はない。
一輝は八つ当たり気味で橘を睨み付け、唸るように言う。
「僕にとって一番いい方法は、放っておいてくれることだ」
フォローは無駄な足掻きと悟ったらしい橘は、賢明にも口を噤む。
静まり返った車内で、一輝は声に出さずに祖父を罵り続けた。
ジリジリしている一輝とハラハラしている橘を乗せ、車は渋滞に巻き込まれることもなく軽快に走る。
新藤邸に到着すると、一輝はすぐさま弥生の元へ行こうとしたが、家の者に阻止された。
「一智様が外でお待ちになるようにとおっしゃっておりまして。お嬢様はもうじき出てこられます。お帰りの車も用意しておりますので、そちらでお待ちになってはいかがでしょうか?」
一智が現役の頃から付き従っている者で、彼の命令を推敲する為であれば命を賭すことも躊躇わないような男だ。やんわりとした物腰だが、決して引かない。
「一輝様……」
男を睨み付けている一輝に、橘がそっと声をかけてくる。
一輝は苛立ちを吐き出すように、ため息をついた。
「判った。車で待とう」
腹は立つが、仕方がない。
ドアを開け放ったままシートに座り込むと、一輝は眉間に皺を寄せたまま唸るように問う。
「おじい様は、弥生さんに何を吹き込んでいると思う?」
「そうですねぇ……一輝様がどんなに弥生様を想っていらっしゃるか、とか……?」
「そんな可愛らしいことをあの人がするわけないだろう。大体、今回のことを仕組んだ張本人だぞ? まったく、何をしたいのか……」
時間を置いて少し頭も冷え、一輝の口調はぼやき程度になってくる。そんな主人にホッとしたように肩の力を抜いた橘が、サイドミラーに映った人影に声を上げた。
「あ、一輝様、戻ってらっしゃいました!」
つられて一輝が振り返ると、こちらに向かってトボトボと歩いてくる弥生が見えた。その様子からして、祖父に何か芳しくないことを言われたのは間違いなさそうだった。
即座に車のドアを開け、彼女のもとに駆け寄る。
――何を言われたにせよ、そんなことはすぐに吹き飛ばしてみせる。
その自信が、一輝にはあった。
「弥生さん!」
そう思って、その名前を呼んだのに、振り返った弥生の眼差しに思わず足が止まってしまう。そこには、紛れもない怯えがあった――彼に対する、怯えが。
「弥生さん?」
もう一度、声を低めて名前を呼ぶ。だが、彼女はふと目を逸らしてしまう。
歩み寄り、弥生の腕を取っても、その目は一輝を見てはくれなかった。空いている手を彼女の頬に当て、その顔を覗き込む。
「弥生さん? あの人に――おじい様に、何を言われたのですか?」
そう問うと、弥生の目がふっと揺らぐ。やはり、動揺させられるようなことを言われたのだ。
「弥生さん、教えてくださらないと、解りません。以前に弥生さんがおっしゃったことですよ? 言葉にしなければ伝わらない、と」
一輝の言葉に、弥生の顔がくしゃりと歪む。
――あ、泣く。
一瞬、一輝はそう思ったが、彼女の目から零れるものは無かった――まだ。
一輝が見守る中、弥生は彼の視線から逃れるように、下を向いてしまう。
うつむいている弥生は、頑なにだんまりを通すかと思われた。
一輝は一晩中でも待つ心づもりで、ひたすら彼女を見つめ続ける。
と。
「あの……あの、ね。わたしは、家族みたいなままでいたいの。変えたくないの」
それは、一輝の問いへの答えにはなっていない。
だが、弥生のか細い声には切実な想いが込められているのがヒシヒシと伝わってきた。
ここが正念場だと、一輝は悟る。
彼女がどんな言葉を欲しがっているかは、彼も判っている。それを与えることは簡単なことだ。
しかし、弥生の望むようにしていては、一輝が望む形で彼女を手に入れることは、叶わない。
「僕は、変えていきたいです」
弥生が意味を取り違えないように、彼女の頬を両手で包み、顔を上げさせ、真っ直ぐにその目を覗き込んではっきりと伝える。びくりと細い肩が震えたが、一輝は留まらなかった。
「あなたは僕を『弟』のままにしておきたいかもしれないけれど、僕はそれでは嫌です。あなたも、本当は僕のことを『弟』なんて思っていない筈だ。僕は、一人の女性として、あなたに僕の隣に立っていて欲しい――今までも、『姉』だなんて思ったことはなかった」
一輝が言い切ると同時に、弥生の目が揺れた。そしてそこから、堪えていたものがボロボロと零れ落ちる。
彼女の涙は一輝に胸を締め付けるような苦しさをもたらしたが、ここで止めてしまえば永遠に変わらないままだ。
一輝は弥生の頬を伝う涙を親指でそっと拭い、続ける。
「あなたが何かを不安に思うなら、それを解消するのは僕の役目だ。教えてくれれば、何でもする……何でもできる」
できる限り優しく、弥生の中にしっかりと浸透するようにゆっくりと伝える。
だが、彼女から漏れてきたのは震える声だった。
「……メ、ダメ。違うの。ダメなのは、わたしなの。わたしじゃ、一輝君の隣には立てないの」
「何故?」
「わたしが、こんなだから。わたしは、わたしだから。変われないから。あの人みたく、一輝君に似合うようには、なれないよ」
『あの人』というのが誰のことを指しているのかは、すぐに判った。だが、一輝はあんな女は望んではいない。
「僕が望むのは、今のあなた自身だ。このあなた以外のあなたなど、欲しくない」
飾り気がなくて、屈託なく笑う、世界の良いところばかりを見る、弥生。
人と関わる時に駆け引きなどしない、そんなことは頭の片隅をよぎることもないだろう、弥生。
一輝の住む世界のことなど何も知らない、弥生。
そんな彼女が、唯一彼の望むひとだった。
けれど、弥生は、一輝の手の中でかぶりを振る。まるで、彼を振り払おうとしているかのように。
「でも、ダメだよ。ダメなんだよ。わたしじゃ、全然――もっと、綺麗で、オトナで、いろいろ知ってて――ちゃんと一輝君に似合う人じゃないと、ダメ……」
弥生が初めて見せる、嫉妬と劣等感。
彼女にそんなものを抱かせたくはなかった――それは紛れもなく一輝の中にある本当の気持ちだ。だが、その一方で、彼のためにそれらを覚えた弥生が、どうしようもなく愛おしくなる。
衝動的に小さく華奢な身体を引き寄せ、腕の中に閉じ込めていた。かつて抱き締めた時とは違い、その身体は自分の中にすっぽりと包み込めてしまう。彼女がしゃくりあげるたびに伝わる震えも、胸元を濡らす涙も、甘い髪の香りも、何もかもが狂おしいほど、愛おしい。
気付けば、嗚咽を漏らす彼女の小さな唇を、一輝は自分のそれで塞いでいた。
とっさに身を引きそうになった弥生の頭の後ろを片手で包み込み、もう片方の手をしっかりと華奢な腰に回す。
身じろぎ一つできないように捕らえて、ついばむように触れては離れを繰り返した。
次第に触れている時間の方が長くなり、離れている時間がなくなった。
柔らかな彼女の唇はたとえようもなく心地良くて、どんなに味わっても足りない。彼女が空気を求めた隙に口付けを深めると、華奢な全身がビクリと震えた。小さな手が、皺が付くほどに彼のスーツの袖を握り締めてくる。
一輝はまだアルコールを口にしたことはないけれど、きっと、酩酊するというのはこの感覚に限りなく近いに違いないと思った。
弥生の甘さを味わって、いったいどれだけの時間が経ったのか、いつしか彼女の嗚咽も震えも止まっていた。力を失った身体の儚い重みが一輝の腕にかかっている。
一輝は名残惜しさを押しやってどうにか唇を放し、抱きすくめたまま彼女の耳元でもう一度囁く。
「僕が欲しいものは、あなただけだ。あなた自身と、あなたの幸せが、欲しい」
その言葉とともに彼女の身体がふるりと震え、意識は失われていないことを一輝に知らせる。どうしても手放し難くてしばらく抱き締めていたが、フッと息をついて、自律する。
そのまま弥生を抱き上げ、彼女を送る為に待機していた車の後部座席に乗せた。彼女は人形のようにされるがままだが、上気した頬は、確かに血の通った女性のものだ。
状況が呑み込めていないかのように呆然としている弥生が、愛おしくてならない。
「僕は決して諦めない。四年越しの想いを甘く見ないように」
宣言するようにそう囁いて、一輝は身を屈めると、ぼうっと見上げてくる弥生の頬に口付けた。そして静かにドアを閉める。
最後ににこりと彼女に笑いかけ、車の向こう側から固唾を飲んで成り行きを見守っていた橘に歩み寄った。
*
「彼女を送ったら、迎えに来てくれ」
何か吹っ切れたように晴れ晴れとしている一輝に、橘は複雑な顔をする。
「坊ちゃま……初心者にあれは、ちょっと……」
弥生にとって、あれはきっとファーストキスだ。一輝にとって真剣そのもの、遊びでもなんでもないことは判っているが、橘はつい咎める眼差しを主人に向けてしまう。
「でも、落ち着いただろう?」
橘の言葉に、一輝は悪びれた様子もなく、そう返した。
どちらかというと、『落ち着いた』というよりは『放心した』という表現の方が正しいのではないかと橘は思ったが、口には出さなかった。頭を一つ振って、切り替える。
「では、弥生様をお返ししたらすぐに戻りますので、こちらでお待ちになっていてくださいね」
そう言い置いて、橘は後部座席に乗り込んだ。
弥生は、彼がすぐ隣に座ったことに気付いてもいない様子だ。膝の上に置いた手に視線を落としたまま、微動だにしない。
呆然としている弥生に橘は何か言おうかと思ったが、しばし迷って、もう少し彼女の中で整理がつくまでそっとしておくことにした。
「弥生様……?」
車を走らせてしばらくしてから、橘はそっと弥生に声をかける。弥生はまだ熱に浮かされたようにボウッとしている眼差しを、彼に向けた。
「お話、できますか……?」
いくらかの間は要したが、やがて弥生がコクリと頷く。
「では、ですね、一智様と――一輝様のおじい様と、どんなお話をなさいましたか?」
弥生はちらりと橘を一瞥し、また目を伏せる。膝の上の両手を、じっと見つめた。
「弥生様?」
もう一度促され、何度か躊躇った後にようやく彼女は口を開く。
「結婚は、温かい家庭よりも、会社のためにしないといけないから、一輝君のお相手には、隣に立ってお似合いの人じゃないと、って……」
「それは、見た目が、ということですか?」
怪訝な顔で橘に問われ、弥生は頷く。
「『看板』になるような人がいいって」
彼女の返事に、橘は心の底から首を捻った。
一智が女性の容姿のことで云々するなど、今まで聞いたことがない。彼自身、未だに妻――一輝の祖母には心底惚れ込んだままなのだが、その女性はごくごく平凡な外見をしていて、絶世の美女とは程遠い。
『妻』を『看板』だなどと、そんなことを耳にしたら誰よりも一智自身が一番激怒しそうなものだが。
「……おかしいな。いったい、何を考えていらっしゃるんだ、あの方は?」
眉をひそめた橘の呟きは、弥生にはよく聞き取れなかった。
「え?」
首を傾げる弥生を、橘は笑ってごまかす。一智が何を考えてそんなことを言い出したのかは、取り敢えず脇に置いておくことにした。
「いえ、何でもありません。で、それをお聞きになって、弥生様はどう思われました? 一輝様は妻にする人物を見た目で選ぶ方だと?」
「まさか! 一輝君はそんなこと気にするはずがないです!」
パッと顔を上げた弥生が、大きく頭を振る。
橘は小さく笑って、続ける。
「では、一智様のおっしゃるとおりにして、一輝様が幸せになれるとお思いですか?」
優しく問うと、弥生は一度チラリと橘を見て、またうつむいた。
「わたしには、一輝君の世界のことは、判りません。わたしは、結婚は幸せな家を作るためにするんだって、思ってました。でも、一輝君とわたしとでは、背負うものが違うから……。わたしの考える幸せと、一輝君にとっての幸せって、違うんですよね」
打ちひしがれたような弥生の横顔は、それを悲しんでいる。
その悲しみは、ただただ一輝のことを思ってのことなのか、それとも、一輝と弥生、二人の未来の無さを思ってのことなのか。
「でも、一輝様が心の底から弥生様を求めていらっしゃることは、よくお解りいただけたでしょう?」
あの行動で、どんな言葉よりも雄弁に一輝がどれほど弥生を望んでいるかは理解できたはずだ。
あれでも一輝の気持ちが伝わっていないとしたら、他に何をしても無理だろう。
一輝の意思表示はあまりに明白で、彼女に気付かないふりをしようとさせる余地は全くない。
「どうです?」
橘の言葉で先ほどのことを思い出したらしい弥生の頬が赤く染まる。
赤くなった両頬に手を当てて俯く弥生を見つめ、これは充分すぎるほど脈があると橘は確信する。
「一輝様にされたこと――お嫌でしたか?」
橘の問いに、しばらくは反応がない。が、やがて、弥生は、頬を手で包んだまま、ゆるゆると首を振った。予想はしていたが、本人からもらえた反応に、橘はホッと笑みを漏らす。
「では、一輝様のことを、考えてみてもらえませんか? 一輝様には、しばらく時間を差し上げるようにお伝えしておきますから」
「でも、一輝君のおじいさんは……」
「取り敢えず、一智様の言葉は忘れておいてください。あなたがどうしたいのか、あなたが思う一輝様の幸せがどんなものなのか――それを考えてみて欲しいのです」
「わたしから見た、一輝君にとっての幸せ……?」
橘に言われ、弥生は心許なげに繰り返した。
「そうです」
頷く橘に、弥生の眼差しに迷いが生じる。
「一輝君にとって一番大事なのは『新藤商事』だと思っていました。『新藤商事の立派な総帥』であることが、一輝君にとっての幸せだって。初めて出会った頃から、一輝君の生活の多くを占めているのはお仕事のことだったでしょう? 重い責任を背負って、いつも努力して、悩んできたもの」
「そうですね。けれど、そんな彼を支えてきたのはあなたなんですよ?」
「わたし? わたしは、何も……」
弥生は戸惑ったようにかぶりを振った。
橘は、そんな彼女をジッと見つめる。
弥生にとっての一輝との出会いは、三年前、彼女の父親の工場が閉鎖の危機に陥った時のことだ。彼女にとっては、それが初めての出会い。
けれど、一輝にとっては違う。
弥生は全く覚えていないようだが、一輝と彼女はその更に二年前に出会っており、彼の想いはその時から始まっている。
その『初めて』の出会いがなければ、一輝は今とは全く違う人生を歩んでいただろう――新藤商事の人間としては完璧な、けれど、新藤一輝としては無味乾燥なこの上なく冷たい人生を。
弥生に自覚は無くても、一輝にとって彼女は唯一の温もりであり光であった。
橘は、それを失わせたくない。
「私は、一輝様に『新藤一輝』という一人の人間としての幸福を掴んで欲しいのですよ。新藤商事のことは脇に置いて、一輝様ご自身の幸せを手に入れて欲しいのです」
それには、この小柄で平凡な女性の存在が必須なのだ。
弥生の目を真っ直ぐに覗き込み、心の底からの願いを込めて、告げた。
「一輝君自身の、幸せ……?」
ポツリと呟いた弥生に、もう橘は声をかけることなく、黙って彼女を見守っていた。