七
一輝は、目の前に置かれた週刊誌を、胡乱そうな眼差しで眺めていた。
開かれたページには、甚だ不愉快な記事が載っている。
妖艶な美女に寄り添われた、一輝の写真。熱愛云々と書かれているが、それは一から十まで完全に捏造だ。
記事の内容そのものも不快だが、そもそも記事を書かれたこと――その隙を与えてしまったことが業腹だった。
週刊誌が置かれたデスクの向こう側では、橘が直角に腰を折っている。
「申し訳ありません。私があの時お傍を離れなければ……」
頭を深く下げたまま橘が謝罪するのに対して、一輝は溜息をついた。
「お前の責任じゃない。警護の者たちにも手落ちはなかった筈だ」
その時についていた護衛も優秀な面子を集めていて、周囲の警戒は怠っていなかった。
一輝は、もう一度、見たくもない写真に目を移す。
彼女――園城寺薫子とは、徹頭徹尾、礼儀正しい距離を取っていた。だが、ほんの一瞬彼女がよろけ、一輝の肩に手をかけてきたのだ。
多分、薫子が一輝に触れていた時間は、十秒もなかった。
にも拘らず、写真の中の二人はやけに親しげに見える。
まるで、恋人同士だ。
――冗談ではない。
一輝はその週刊誌を燃やしてしまいたくなる。
あからさまに媚を売ってくる薫子に、愛想笑いを浮かべることすら難しかったというのに。
写真の荒さからするとかなり遠方からの撮影に違いない。少なくとも、視認できる範囲には、カメラの存在はなかった。
つまり、写真を撮った者はその場所で一輝と彼女が会うことをあらかじめ知っており、絶妙な構図を狙えるポイントを吟味することができたということだ。
それでも、橘がいつもどおり一輝の傍についていたら、おそらくこんな写真を撮られることなどなかっただろう。
しかし、橘には一智から屋敷に顔を出すようにと言われていた。彼にそう命じられれば従わざるを得ない。一輝の傍を離れたことを責めるのは筋違いだった。
一輝と彼女を会わせ、橘を引き離し、情報をリークする。
その全てができるのは――
「あのクソじじいの仕業だな」
一輝は、普段は決して口にしないような言葉で、ぼそりと呟く。
おかしいとは思ったのだ。
確かに、薫子には園城寺建設令嬢という肩書はあるが、彼女自身には取り立てて何もない。園城寺建設という会社も、新藤商事とは規模が違う。仮にその娘と縁を結んだところで、新藤商事にたいした利はない。
ビジネス上のメリットは何もない女性の接待を命じられ、丁度その時、有能な護衛である橘は呼び出され。
しかも、通常であれば、こういった醜聞は、世に出回る前に回収される筈だ。何故かそのチェック機構も働かず、雑誌はおろか、低俗なテレビのワイドショーにまで取り上げられてしまった。
どうせ根も葉もないことなのだから、放っておけばすぐに消えていく話題だ。晒し者になったことは腹立たしいが、敢えて騒ぎ立てる必要もない。
だが、しかし。
一輝は苛々と人差し指の爪の先で机の表面を叩く。
問題なのは、弥生がこれを目にしたかどうかということだった。
せっかくジワジワ追い上げてきているというのに、こんなくだらない記事を真に受けられたら台無しになってしまう。
「おじい様は、いったい何を考えているんだと思う?」
多少は気持ちが和らいで、祖父に対して言葉を改めるだけの余裕が出てきた。
頬杖をついた一輝の問いに、橘は口ごもる。
「それは、そうですね……まあ、八割は一輝様の幸福、二割はご自分の楽しみの為、とか――」
「それは逆だろう。いや、九割は自身の楽しみの為、だな」
別に、一智に向かって声を大にして弥生への気持ちを表明してはいないが、彼が気付いていないわけがない。
孫の恋路をおもちゃにしているのだ、あの厄介な老人は。
「一智様は一輝様の幸福を一番にお考えですよ」
「それはどうだかな」
鼻で嗤って、一輝は週刊誌の写真を指先で弾く。
「彼女は、これを見たと思うか?」
問われて、橘は渋い顔になった。
「弥生さんがこういった週刊誌に手を出すとは思えませんが……」
何しろ、電車の中吊り広告にまでデカデカと書かれているのだ。
「見られた、よな」
唸るように言う。
一輝は、この記事を目にした弥生がどんな反応を示すのか想像してみた。
一、彼女はスルーする。
弥生は賢い人だから、普通なら、こんな週刊誌のネタなど真に受けることはないだろう。
二、彼女はショックを受ける。
もしも弥生が一輝のことを友人や『弟』以上の存在だと思っていれば、そういう反応を見せてくれる筈だ。
三――最悪なのは、祝福されることだろう。
弥生にとって一輝が完全に恋愛対象外であれば、間違いなくこうくる。
「一輝君、あの人綺麗だね。お付き合いしてたんだ? ちょっとさびしいけど、一輝君が幸せならわたしも嬉しいな」
――朗らかな声で、そんな台詞が頭の中にこだまする。
ここ最近の彼女の様子を見る限り、それはないと思うのだが、不安は拭えない。
――嫉妬は、してくれるだろうか。
一輝は、弥生を悲しませたり、不安に思わせたりなど、したくない。
だが、一方で、自分のために揺らぐ彼女を見てみたくもある。
弥生はいつも笑顔で、その笑顔は一輝を幸せにしてくれるのだけれども、それだけでは物足りなくなる時があるのだ。
時折、無性に泣かせたくなる。
屈託のない――誰にでも同じように見せる笑顔よりも、崩れた彼女を見たくなる。かつて彼の腕の中で見せてくれた泣き顔が、欲しくなる。
あれは、一輝だけが知っている、彼女だった。
今よりも短かった彼の腕の中で、彼女は小さく丸まって、他の者には見せない弱さを見せてくれた。
あの時、彼女を愛おしく思う気持ちが込み上げるとともに、一輝の中では大きな変化が生じた。
あの時、『新藤一輝』が生まれたのだと言っても、過言ではない。
弥生は一輝の大事な人だ。
きっと、一生に一度しか逢えない、この世にたった一人しか存在しない、特別な人。
幸せにしたいと思うし、どんなものからも護りたいと思う。
そんな人の泣き顔が見たいなど、自分は少しおかしいのかもしれないとも思うが、特に最近は、その衝動を堪えるのにそれなりの忍耐力を動員しなければならない事もしばしばあった。
「この後、時間は取れるか?」
「十六時から、どうしても外せない会議があります。十七時からであれば、何とか……」
今は十六時少し前だ――あと一時間もある。
すぐにでも弥生の元へ駆けて行きたい気持ちを押しとどめ、一輝はため息を一つ吐いて、意識を切り替えた。彼の立場で、個人的な問題を優先させるわけにはいかない。
そして一時間後、一輝はここで待ってしまったことを悔やむ事になる。