六
森口と別れて、弥生は帰路につく。
電車の中でも、歩いている時でも、考えた。
――わたしの気持ち……一輝君の気持ち。
自分の気持ちは、どんなものなのか。
美香が持ってきた週刊誌の写真を見た時、胸がドキンとした。
――ドキン?
違う。
こんなふうに、自分自身に対してさえも何かをごまかそうとしている自分に、弥生は思わず苦笑する。
あれはドキンではなくて、ズキン、だ。
一輝と並んで写っていた女性はすらりと背が高くて、荒い写真でも綺麗なひとだというのは一目で判った。
週刊誌の記事なんてでたらめが多いことは弥生も判っている。けれど、あの彼女ではなくても、いつか必ずあんなふうに一輝の隣に誰かが並ぶ日がやってくるということも、判り切ったことだった。
――一輝君は『特別』な人だから、一緒に生きていく人も、『特別』な人なんだよね。
のろのろと進めていた足が、止まる。
一輝と、一緒に生きていく人――いつでも、隣にいる人。
弟の睦月や葉月とも、父親の達郎とも、いつまでも一緒にいたい。美香や森口もだ。
一輝とは……?
もちろん、一緒にいたい。だって、『弟』みたいなものだもの。
そんなふうに、自分自身に言い聞かせるように弥生が胸の中で呟くと、また、あの週刊誌の写真が頭に浮かぶ。
あの女性はとても綺麗で、一輝と並んでいても遜色なかった。
なら、自分が同じように一輝の隣に立ったら、どうなるのだろう? と、弥生は自分に問いかけてみる。
想像した画の中の弥生と一輝は、まるで釣り合っていない。自分を隣に立たせたら、きっと一輝は笑いものになる。自分が指差されるのは気にならなかったけれど、あんなに頑張っている一輝が何か言われるのは、耐えられない。
それに、写真の女性は園城寺建設の一人娘とあった。園城寺建設と言えば、テレビのスポンサーやコマーシャルでも時々名前が出てきていて、弥生でも知っているくらい大きな会社だ。
一輝と結婚する人は、そういう人である必要もあるのだろう。
彼にとって、だけではなくて、彼が大事にしている会社にとっても必要な、人。
――どっちかっていうと、一輝君って、そっちの方を優先しそうだよね。
はは、と小さな笑いを、弥生は漏らす。
一輝は『好き』とか、『一緒にいたい』とか、そういうことでは動かないのじゃないかと思う。
彼は、けっして、マスコミが言うような冷たい人ではない。
けれど、冷静な人ではある。
そんな曖昧な感情よりも、理論とか、理屈とか、損得とか、常に色々な要素を考えて、最も良い行動を選ぶ。
考えてみたら、一輝が弥生たちに関わるようになったきっかけは、父が知人の借金を肩代わりする羽目になったことだったけれど、それを放っておいて父の工場が潰れてしまったら一輝の会社が困るからだった。
その後一輝が弥生の家に滞在することになったのは、彼の祖父にそうするように言われたからだ。
別に、一輝がそうしたいと思ったから、したわけじゃない。
弥生の家にいた時の彼はとても楽しそうだったけれど、最初から、彼が望んだわけじゃない。
――今、時々わたしと逢ってくれるのも、その延長なのかな。
また、胸がチクンと痛んだ。
弥生と逢っている時、いつも彼は嬉しそうに微笑んでいてくれるけれど、あんな写真を見てしまうと、彼女の中の何かが揺らいでしまう。
弥生は無意識のうちに、胸元を探る。
そこにあるのは、一輝がくれたペンダントだ――弥生に似合うと彼自身が選んでくれた、ペンダント。
――一輝君って、何考えてるんだろ。
弥生は服の中から引っ張り出したペンダントトップを見つめて、改めてそんなふうに思う。
そもそも、一輝は弥生のことをどう思っているのか。
また歩き出した彼女は、機械的に脚を繰り出しながら考える。
一輝の方から誘いがかかるくらいだから、好かれてはいる筈だ。でも、その態度は常に礼儀正しい――最近は、何か妙に触るようになってきているけれども。
友達、とはちょっと違うと思う。
母親、というには、彼の方がしっかりし過ぎている。
姉? それがいちばんぴったりくるのかもしれない。そうだ、きっと彼は、弥生のことは姉のように思ってくれているに違いない。
――ほら、やっぱり、それなら一緒にいられるじゃない。
弥生は、そう結論付ける。
それは一番正しい答えの筈なのに、何だかお腹の辺りがモヤモヤした。
――何だろな。
気付くと、家の近くまで帰り着いていた。家の中に入る前に、一度大きく深呼吸する。
何度か繰り返していると、胸の中に溜まった空気と一緒に、濁った何かも吐き出せているような、気がした。
*
「ただいま」
その声に、居間でゴロゴロしながらテレビを観ていた睦月は、そのまま肘を突いてずりずり這って廊下を覗き込んだ。
「おかえり」
かまちで靴を脱いでいる姉に、そう声をかける。
「あれ? 早いね」
顔を上げた弥生はきょとんと彼を見返してきた。
睦月にはクラブユースからの誘いもあったけれど、それを蹴って、家から通える距離にあるサッカー部の有名な高校へ推薦入学したのだ。部活の練習はかなり厳しく、いつも帰宅は夜遅くになる。弥生より先に彼が家にいることなど、ない。
まだ明るいうちに彼が家にいるのを見て、弥生が目を丸くするのも当然だ。
そう言えば伝えていなかったか、と睦月は胸の中でポンと拳を手のひらに打ち付ける。
「ああ、今日と明日は試験だから」
廊下をやってくる弥生に合わせて、睦月はよいせとばかりに腹筋を使って起き上がった。
と、居間の様子が目に入ってきて、彼はしまった、と眉をしかめる。
試験だからと言った睦月の前には、食卓の上にポテトチップス、テレビでやっているのはワイドショーと、どこをどう見ても試験中の学生ではない。すわ、お説教か、と睦月は身構えた。
しかし。
「寝転がってお菓子食べてたらダメだよ」
母親代わりを自認している筈の姉は、ぐうたらな弟の姿を前にして、心ここに有らずの様子で居間を出て行ってしまう。
おかしいな、と睦月が首を傾げたその時、派手な効果音とともに新しいワイドショーが始まった。その冒頭で司会が口にした内容と画面いっぱいに広がる写真に、目を丸くする。
「あいつに、女……? ウソだろ」
どのようにでも取れるスクープ写真と、明らかに誇張されている解説内容は信憑性が乏しかったが、こんな内容を暴露させてしまうなど、一輝らしくない。そこまで考えて、睦月は弥生の様子が変だった原因に気付く。
一気に事態を呑み込めた。
胡坐になって、ガリガリと頭を掻く。
「まったくなぁ」
一輝も、慎重にコトを進めたいのはわかるが、もう少し押してもいいのではないかと、睦月は思うのだ。彼が弥生にはっきりと意思表示していれば、こんな下らないネタなど彼女だって笑い話にできるだろう。
もっとも、傍から見ていたらもろバレな一輝の気持ちに気付かない弥生の方がどうかしているのかもしれないが。
ため息を一つ吐くと、睦月は立ち上がって姉の部屋へ向かう。
戸をノックすると、少し間が空いてから返事があった。
「なあに?」
十五歳らしからぬ大柄な身体でのっそりと部屋に入る睦月を、制服のままベッドに腰掛けた弥生が首を傾げて見上げる。こんなふうにぼんやりしているのも、彼女らしくない。
「あのさ、アイツのこと……」
一瞬、弥生の目が揺らぐ。
やっぱりそれか、と、睦月は内心ため息をついた。
「気にしてんの?」
「え、何が?」
とぼけようとした弥生の前に、胡坐をかいて座る。椅子だと彼女を見下ろす形になってしまうので、今は敢えて床にした。
「一輝と女のコト、なんかで見たんだろ?」
「……」
弥生は無言で目を逸らした。その『らしくなさ』に本人は気付いているのかどうなのか。
「アイツに訊いたらいいじゃんか。喜んで教えてくれるぜ」
睦月も、森口と同じことを口にする。弥生は硬い顔でプイ、とそっぽを向いた。
「別に、訊く必要なんか、ないよ」
「でも、気になってるんだろ?」
「なってないよ。一輝君は弟みたいなものだもの」
言い張る弥生に、睦月は呆れた眼差しを向ける。
「ホントにそう思ってんの? だったら、アイツ泣いちまうぜ? 少なくとも、俺がアイツの立場だったら、泣くわ」
本当に、心からの言葉である。惚れている女から受ける扱いで『弟』『兄』『父』『友達』のうち、どれが一番きついかと言われたら『弟』だろう。男として身も蓋もないではないか。『兄』『父』だったら頼りがいがあると取れないこともないし、『友達』だったら少なくとも他人だ。だが、『弟』ではどちらも否定される。
「俺だったら、ぜっったい、イヤだね」
大好きな弟に力いっぱい否定され、弥生は俯いた。
「睦月は、わたしの弟じゃない方がいいの?」
「俺はいいんだよ。でも、アイツはイヤがるって言ってるの」
「でも……」
口ごもる弥生に、何がこんなにも姉を躊躇わせるのだろうかと睦月は疑問に思う。
弥生が、時々、いやしょっちゅう、一輝と出かけているのは知っている。
そして、彼と過ごした後に浮かべている姉の表情には、一輝に対する彼女の気持ちが透けて見えていた。
元々、弥生はきちんと考えることはするけれども、うだうだ悩む方ではない。割と即断即決の方だ。そんな姉のこの煮え切らなさは、いったい何なのだろう。
一輝が弥生を諦めるとも思えない。他の男が手を出そうとしても、彼は徹底的に妨害するだろう。そうなれば、大事な姉は下手をするといき遅れになってしまう。
まあ、睦月としてはそれでも構わないといえば構わないのだが。
「まあさ、これを機会に、ちょっとじっくりアイツと話しをしたら? あのネタのことを知ったら、多分、すぐやってくるぜ?」
正直なところ、まだ姿を現していないことの方が睦月にとっては不思議なくらいだ。
そんなことを思ったとき、タイミングよく玄関の呼び鈴が鳴る。
「噂をすれば影、かな」
よっこらせ、と立ち上がり、睦月は部屋を出て行った。
*
残された弥生は、ジッと自分の手のひらだけを見つめていた。
――何故、皆、変えようとするのか。何故、今のままではいけないのか。
「『弟』でいいじゃない。『弟』の方が――」
――ずっと、一緒にいられるんだから。
その呟きは、声には出せない。そんなふうに考えてしまう自分を、浅ましいと弥生は思った。彼の隣に立つ勇気はないくせに、傍にいることは望む自分を。
やがて、足音が階段を上ってくる。
弥生は、部屋の戸が叩かれないことを願った。