五
「ねえ、これどういうこと?」
そう言って、学食で昼食を摂っていた弥生の前に美香が突き出した週刊誌に載っているのは、後姿の一輝と彼の腕に手をかける美女の写真だった。女性はスラリと背が高く、荒い画像からも見て取れるキリリとした美貌で、一輝とよく似合っている。
雑誌には相手の女性の顔写真も載っていた。正統派の美女で、挑むような眼差しをカメラに向けている。
――新藤商事の若き総帥、十歳年上元モデルと熱愛か!
写真に被さって、そんな扇情的な見出しがあった。
「……綺麗な人だね」
「あんた、それだけ!?」
一拍置いて、ヘラリと笑いながらの弥生の台詞に、美香は眉を逆立てる。
「え……え? ……お似合いだね?」
「そうじゃないでしょ!」
美香の逆上振りに、弥生は困惑した顔になった。
「だって、一輝君ももうすぐ十六歳になるんだよ? 好きな人がいたっておかしくないよ」
そう言いながら気もそぞろな様子で弥生の手が上がって、数日前から着けるようになったネックレスをもてあそぶ。
それをくれたのが誰なのか、美香は聞かされてはいないけれど、わざわざ確認しなくても判るというものだ。
「睦月に彼女ができたみたいで、寂しいけど……」
そう呟いて、弥生は美香から目を逸らす。
しばらく弁当の中のおかずを箸で突いていたけれど、結局どれも選ばれず仕舞いだった。
手を止めて固まっている彼女に、美香はため息をつく。
「もう……彼に同じこと言ったら、ダメだよ?」
そう言って雑誌を置くと、美香は椅子を引いて腰を下ろし、頬杖を突いて弥生を見た。
新藤一輝が弥生一筋なのは、傍から見ていると明らかだ。その彼がこの会話を聞いたら、ショックで立ち直れないに違いない。
「言わないよぉ。だって、一輝君、何も言っきてないし」
「彼の方もあんたのことお姉ちゃんだと思ってるなら、喜んで報告してくるんじゃないの?」
すがめた目で弥生を見ながら美香はそう言ってみたけれど、彼女は「あはは」と小さく笑った。
「まさかぁ。一輝君はそういう子じゃないもん」
「『子』、ねぇ」
「なに?」
「別にぃ」
あんたよりもあっちの方がオトナだよ、色々な意味で、と心の中で突っ込みを入れ、美香は横を向く。
と、ちょうどいいタイミングで学食の入り口に森口が現われた。美香が軽く手を振るとそれに気付き、近づいてくる。
「よお、加山が学食にいるなんて珍しいじゃんか」
裏を返せば、弥生がいつも独りでこの時間に学食で昼食を摂っていることを知っているということになる森口である。
美香はニヤリと笑って言う。
「残念だったわね」
「……別に、そんな……」
弥生と二人きりで過ごせるチャンスを逃したことを森口が残念がっていることは、明かだ。
敢えて指摘してやると、案の定、図星を指された森口はしどろもどろになる。が、ふと、テーブルの上に置かれた雑誌に気付くと、目を見張った。
「何だ、これ!?」
雑誌を取り上げ、彼は目を皿のようにして文面を追う。
――新藤商事の若き総帥新藤一輝氏が、十歳年上の元モデル・園城寺薫子さんと帝王ホテルのロビーで密会している場面を本社記者が撮影した。時刻は夜の九時。こんな時間にこんな場所で、二人はいったい何をしていたのか。園城寺建設令嬢である園城寺さんは元モデルでもあり――
森口は、自分がブツブツと小さな声で記事を読み上げていることに気付いていない。
チラリと弥生に目を走らせると彼女は銅像のように固まっていて、美香はまたため息をこぼした。
――まったく。『弟』に彼女ができたって、こんなにショック受けないでしょうが。
新藤一輝は弥生にぞっこんで、弥生も彼のことを特別に想っている。間違っても、弟の睦月や友人の森口とは同列にできない。
それは、明々白々な事実だ。
なのに、当の弥生はそれを認めない。
弥生との付き合いは五年になるけれど、美香が知る限り、彼女に彼氏がいたことはない。誰かを好きだと言ったこともない。
家のこともしなければならない弥生には、そんな暇がないのかもしれないけれど、単純に、そういう感情を誰かに抱くことがなかったのだろうと美香は思う。
――多分、高校の時にこいつが告ってても、付き合うとかにはならなかっただろうなぁ。
まだ雑誌にのめり込んでいる森口を横目で見上げて、胸のうちでそう呟く。
彼が弥生に惚れているのは傍から見ていて丸見えだけれど、もちろん想いを注がれている当の本人はその気持ちに気付いていない。
はっきり言って、森口は高校時代にモテていた。両手の指の数以上の女の子に告白されていたけれど、その全員に頭を下げていたことを美香は知っている。
いっそ当たって砕けてしまえば清々するだろうにと森口の尻を蹴飛ばしてみたこともあったけれど、彼は苦笑して肩をすくめただけだった。
森口の煮え切らなさと弥生の鈍さに美香は呆れながらも感心し、そして、彼には多少の同情心も抱いている。
そんな美香の心中などこれっぽっちも気付いていない森口は、ようやく記事を読み終えて、雑誌をまたテーブルに戻した。
「え、だって、こいつって……」
彼は口ごもりながら、雑誌と弥生の間で視線をウロウロさせる。
森口が言わんとしていることは美香にも判る。
「そうでしょ? そう思うでしょ?」
彼女が肩をすくめながらそう言うと、ようやく森口は少し落ち着きを取り戻した。
「まあ、所詮こんな週刊誌の書くことだからさ……」
写真はややピンボケしており、しかも一輝は後姿で表情は見えない。きっと、弥生に向けるものとは真逆のマイナス百九十六度の眼差しで、女性を見ているに違いない。
弥生が何も知らないということは、一輝にとって何の意味もないことなのだろう。あるいは、本当にでっち上げか。
一瞬、美香も森口の後押しをしようかと思ったけれど、やめた。
代わりにニッコリと笑う。
「もしかしたら、政略結婚とかだったりして?」
「え……?」
ポロリと、弥生の手から箸が落ちた。
「一輝君、十六になるんでしょ? 婚約して、十八になり次第結婚、とかさ」
――ちょっとは危機感持ちなさいよ。
美香の追い討ちに固まった弥生へ、こっそりと呟いた。
と、そこに森口のフォローが入る。
「取り敢えずさ、本人に確認してみたら?」
弥生を手に入れたいのならば、こういうチャンスをうまく使ったらいいだろうにと美香は思うけれど、多分、森口は、こんな顔をしている彼女を見ていたくないのだろう。
「ほら、週刊誌読んだんだけど……とか、メール入れてみるとか」
弥生に明るい顔を取り戻させようとする森口の努力は、涙ぐましいものだ。
けれど、弥生から返ってきたのは、口元だけの微笑だった。目も逸らされていて、いつもの、見ていると一緒に心が温かくなるような笑顔ではない。
「いやだなぁ、森口君まで。一輝君は弟みたいなものだよ? 一輝君だって、わたしにそんなこと問い詰められても、困っちゃうよ――あ、もう行かなきゃ。次の授業始まる前にちょっと用があったんだ」
弥生は終始二人から視線を外したまま、明らかに不自然なタイミングで中身が半分以上残っている弁当箱を片付け始めた。そして慌しく立ち上がると、「じゃあね」と一言残して小走りに去っていく。
「ねえ、追いかけなくていいの? うまくしたら、イケるかもよ」
「そんな、弱みに付け込むなんてできないよ」
けれど、そう言いつつも、弥生を放っておくこともできない森口なのだ。
「……ちょっと行ってくる」
そう言って、彼は食堂から出て行きつつある弥生の後を追いかけていく。
「結局、『イイ人』なんだよねぇ」
長身のその背中を見送りながら、美香は呟いた。
彼女としては、弥生さえ良ければ、どちらでも良かった。一輝も森口も弥生にベタ惚れで、どちらもそれぞれに『いい男』なのだから。
後は、弥生が選ぶだけだ。
――多分、ダメだよね。
そう思いながらも、森口が『イイ人』を脱却できるようにと、心の中でエールを送る美香だった。
*
食堂を出てすぐに、森口は左右に目を走らせた。
弥生は小柄なので、あっという間に人の中に埋もれてしまう。おまけに、小柄なくせに、足は速い。
「どこだ……?」
忙しく右、左と首を巡らせ、森口は今にも右の廊下の先を曲がりそうになっている彼女の姿を見つけ出した。
だいぶ距離があるから、大声で呼び止めるわけにもいかない。
森口は昼食時で溢れる学生たちを掻き分けるようにして、彼女の元に急ぐ。
いくら弥生の足が速いといっても身長差が三十センチもあると当然歩幅の違いも明らかで、森口はすぐに彼女に追いついた。
「大石!」
声を掛けても振り返らない。それは、彼女らしくない反応だった。
森口は弥生を追い越し、前に回る。
うつむきがちにズンズンと歩いていた弥生が彼の胸にぶつかりそうになって、多々良を踏む。少しよろけた彼女の両肩を森口はとっさに掴んで支え――その細さにドキリとしたけれど、足元がしっかりしてからも手は放さなかった。
「ちょっと、待てって」
上体を屈めて、森口は弥生の顔を覗き込むようにして目を合わせる。そこにあったのは五年という長い付き合いの中でも見たことのなかった頼りなげな眼差しで、彼は己の理性と感情の狭間でしばし戦いを繰り広げる。
森口が見る――弥生が彼に見せる表情の、九割は笑顔だ。残りの一割に拗ねたり怒ったりが入る。
けれど、どんな時だって、こんなふうに揺れる――途方に暮れた子どものような無防備な瞳を弥生が森口に見せたことは、なかった。
それだけ、あの週刊誌にダメージを受けたということなのだろう。こんなふうに彼女を傷付けた新藤一輝を、彼は拳で殴ってやりたくてたまらない。
人が行き交う休み時間の廊下にも拘らず、このまま彼女を抱き締めてしまえ、と彼の両腕は叫んでいる。慰めにかこつけて抱き締めろ、と。
理性はそんなことをしたら嫌われると諌め、感情はそんなの後で考えろと甘く囁いてくる。
苦しい、戦いだった。
結局勝利を収めたのは理性の方で、森口は数回こっそり深呼吸をしてから口を開く。
「大石、ちょっと話をしよう」
弥生は目を逸らした。
断ろうとしているなと森口は瞬時に察し、そうさせまいともう一度繰り返した。
「頼む、話をしたいんだ」
そうやって懇願する。基本的に、弥生には頼みごとを拒むことができないのだということを、森口は良く知っていた。
更に迷った末に、弥生はコクリと頷く。
「……うん」
「じゃあ、向こうに行こうか。――ここだと目立ってる」
森口の言葉で、弥生も二人が周囲の注目を集めていることに気付く。心持ち頬を赤らめ、彼が促すままに大人しく歩き出した。
弥生のつむじを見つめて歩きながら、森口は自分の五年越しの片想いにもそろそろ決着をつけるべきなのだろうと思う。
この五年、彼は弥生の『友人』として過ごしてきた。
のんびりとそうしていられたのは、彼女が他の男に恋をすることがなかったからだった。
弥生は彼女の周りにいる者を大事にする。誰を特別扱いするわけでもないのに、「ああ、自分は大事にされている」と感じさせることができるのだ。
たとえ『友人』に過ぎなくても、心地良い場所。
だから森口は、敢えてそこから離れなければならなくなるような危険は、冒さなかった。
――今までは。
弥生は、新藤一輝に特別な想いを抱いている。
それは恋か、あるいは限りなく恋に近い感情だろう。
面と向かって指摘すれば、そんなまさかと、彼女は否定するに違いない。
けれど、弥生の周囲の人間は、ほぼ全員が、彼女の中にあるその想いに勘付いている。
否定するのは本人ばかりだ。
それが本当に彼女は気付いていないからなのか、あるいは気付きたくないと思っているからなのか。
森口は、後者だと思っている。ほぼ、そう確信していた。
何故なら、彼自身がそうだからだ。
心地良いからと言って安全な場所に留まり、そこから一歩を踏み出そうとしない。
森口も弥生も、同じように変化を恐れている。
だから、彼女の背中を押そうというのならば、森口自身がはっきりさせなければいけないだろう。ぬるま湯に甘んじたままでおらずに。
中庭に出た森口と弥生は、人目につきにくい、木々の間に置かれたベンチに並んで腰掛ける。
しばらくは、二人とも無言だった。
森口はこの空気を壊してしまいたくなかったし、弥生は単純に語る言葉を持っていなかったのだ。
しかし、やがて、深呼吸をした森口が口火を切る。
「あのさ、あの記事……ショックだったんだろ?」
「え……別に? 全然、だよ?」
笑顔ではあるが、やはりいつもとは違う。五年間弥生を見続けてきて、こんな笑い方は見たことがなかった。こんな顔はさせたくない――だが、一方で、その顔をするのが自分のためだったら、と思う気持ちもどこかにあった。
「勝ち目、ないよな……」
苦笑とともに、溜息を落とす。
「森口君、どうしたの……? なんか、元気ない?」
弥生が心配そうに覗き込んできた。彼女自身が落ち込んでいた筈なのに、森口のため息を聞いた途端に、そんな色など消し去って、彼の気持ちを案じてくる。
森口が何よりも惹かれるのは、弥生のそういうところだった。そして、何よりも他人を優先してしまう彼女だから、自分が力になってやりたいと思うのだ。
「森口君?」
もう一度、弥生がその名を口にする。
自分が行動することで、彼女のその眼差し、その声を失ってしまうかもしれない。森口はそう思ったが、覚悟を決めて最初の一歩を踏み出した。
両腕を伸ばし、彼女を包み、引き寄せる。
初めて抱き締める弥生の身体は、小さく、細く、そして柔らかい。
「……森口君?」
腕の中からいぶかしげな声はあがるが、もがいて逃げ出そうとはしていない。森口はもう少し力を込めた。
「あのさ、俺……初めて会った時から、大石のことが好きなんだ」
「……え?」
少し間が抜けた声も愛おしい。
ほんの少し力を増してもう一度その身体の甘さを味わって、森口は腕を離した。
きょとんと見上げてくる顔は、驚いてはいる――しかし、男に抱き締められたというのに、丸い頬を染めてはいない。
「今、どう感じた?」
「今って……今?」
「そう」
考え込むように、弥生の眉が寄る。
「……驚いた」
「それだけ?」
「え……あ、うん……」
――結構、アピールしていたつもりだったのにな……。
あまりに予想通りの答えに――予想はしていたのに、やはりがっくりと力が抜ける。
「森口君?」
うなだれた森口の腕に、オロオロと弥生が手をかける。
――その温かさに胸が詰まるけれども。
森口は、意を決して言葉を継ぐ。
「じゃあ、さ。同じことをあいつに――新藤一輝にされたら、どう?」
「一輝君、に……?」
「そう」
一瞬にして、彼女の頬が染まっていく。
「やだ、ちょっと待って」
――ああ、見事に玉砕したな。
狼狽えながら真っ赤になった頬を隠そうとする弥生に、森口は苦笑する。一輝に対する弥生の感情を表すのに、これほどまでに雄弁な答えはない。
「その反応で、『どうでもいい』とか『弟だ』っていうのは、かなり無理があるよ」
まだ、諦めるまでには時間がかかるだろうけれど、言うべきことを言って、森口は自分の中で一つの区切りがついたことを実感する。
「あいつと、ちゃんと話してみなよ。大石さんが、何を感じているのか、どうしたいのか。確かに、俺たちよりも随分年下だけどさ、頼りにはなるんだろ?」
勢いをつけて、立ち上がる。
「あいつの気持ちも、決め付けてやるなよ。あいつがどうしたいのか、何を考えているのか、ちゃんと訊いてさ。多少時間がかかってもいいから、考えて。大石さんの、人のことを優先するところは凄くいいと思うけど、自分の事も、もう少し優先順位、上げてもいいよ」
「森口君……」
「急に変なこと言って、ゴメンな。でも、高一の時から好きだったっていうのは、ホントだから」
不意に胸に熱いものがこみ上げてきて、森口は急いで踵を返す。
「じゃあな」
「あ……森口君、ありがとう! また明日ね!」
歩き出した森口の背に、弥生の声が届く。
感謝の言葉を選ぶところに、ああ、彼女だな、と思った。「また」と言ってくれるところも。
彼は肩越しに手を振って返したが、振り返ることはしなかった。