四
大石家に弥生を送り届けた帰り道、一輝は、彼女と共に過ごしたわずか一時間ばかりの間に溢れんばかりになっていたスマートフォンのメールをチェックする。
報告の数々に目を走らせ、指示を求められればそれに返信を打ち込みながら、彼は今日の首尾を振り返っていた。
鮮明に脳裏に浮かぶ弥生の姿に、一輝はそっと笑みを浮かべる。
髪に触れた時、彼女が必死で何気ないふりをしようとしていたことには気付いていた。けれど、その内心が平常心とはかけ離れていることを、速まった首筋の脈が教えてくれる。
目が合ってジッと見つめれば、必ず彼女の方から目を反らす――懸命に、反らすまいと頑張ってから。
彼が何気なく触れただけでも、いつも彼女はピクリと肩を跳ねさせる。
そんなふうに、いとも簡単に心の内を晒してしまうところを、愛おしく思う。
一輝が弥生に触れる時、彼がどんなふうに思っているか、彼女は知らない。ただ、子どもがスキンシップを求めている程度にしか受け止めていないらしい。あるいは、そう思おうとしているのか。
いずれにせよ、『無邪気な』一輝の接触でそんなふうに鼓動を乱す理由は弥生の側にあるということで。
「橘、彼女はだいぶ変わってきたと思わないか?」
一輝は、薄紅色に染まった弥生の頬を思い出して忍び笑いを漏らす。
「なんで、あのひとはあんなに可愛らしいんだろうな」
あまりに可愛らしすぎて、大事に包んで慈しみたいと思っているのに、もっと強い欲求に駆られてしまいそうになる。
少し触れただけでもあれほど狼狽するのだから、抱き締めたりしたら、いったいどうなるのやら。
弥生の反応は容易に想像できて、一輝は思わずくすりと笑う。
そんな彼を、橘は同情を含んだ目でチラリと見た。といっても、その同情が向けられているのが自分ではないことは、一輝も百も承知だった。
「そうですねぇ、変わったと言えば変わったような、変わってないと言えば……」
もごもごもごと言葉尻を濁す橘はスルーして、全てのメールに目を通し終えた一輝はスマートフォンを彼に差し出した。
「弥生さんは、僕が『弟』であることに固執してはいる。頑なに、僕をその位置に置き続けようとしているわけだが、その理由も判るんだ」
「理由、ですか?」
橘が、眉をひそめてその単語を繰り返した。
一輝はふいと窓の外を見る。
「ああ、多分、僕が考えているとおりで合っていると思う」
弥生が本当に一輝を『弟』だと思っているならば、あんなふうに頬を染める筈がない。
彼を『弟』だと思っているわけではなく、『弟』であって欲しいと思っているだけなのだ。
――彼女の中に確かに息づきつつある想いには目隠しをして。
何故なら、『弟』は『安全』だからだ。
弥生が恐れていることは、ある意味安定した今の状態が壊れてしまうこと。
壊れた先でまた新しい関係が築かれるのだが、彼女はそう思えないのだろう。壊れることの方にだけ目が行ってしまっていて、一歩を踏み出すことを恐れている。
そこをどうしたらいいのかが問題なんだ、と、一輝は外の景色が流れていくさまを眺める。それは、彼が解消してやらなければならない、課題なのだ。
一輝は、弥生との関係を変えたいと願っている。
――これからも、彼女と生きていきたいと思っているから。
弥生は、一輝との関係を変えたくないと願っている。
――これからも、彼と生きていきたいと思っているから。
同じことを望んでいても、取る手段が違う限り、最終的には異なる道を進むことになってしまう。
そんなのは願い下げだった。
弥生の自分に対する気持ちは、ふとした仕草の一つ一つに滲み出ているのだ。それは、決して、『弟』に対するものなどではない。
一輝が自意識過剰なわけではない。ずっと彼女を見てきた彼には、そう断言できた。
彼女にそうする気が無くても、弥生の想いは否応なしに伝わってくる。そのちょっとしたサインを感じる度に、一輝の中では彼女を愛おしく思う気持ちが増していく。
甘い声で名前を呼ばれれば、その度に胸が締め付けられるように苦しくなる。
屈託のない彼女の笑顔を向けられれば、それを自分一人のものにしたいと思う。
ほんの少し彼女に触れると、抱き締めてしまいたくなる。
ずっと傍にいたいのにそれは叶わず、彼女の半径一キロ以内にいられる全ての男を排除したくなる。
そんな諸々に懸命に耐え、四年をかけて、一輝はここまでこぎつけた。弥生にとって、彼は彼女の鼓動を速め、頬を染めさせるような存在になったのだ。
それなのに、彼女は最後の一線を跳び越えてはくれない。跳び越えたら彼が受け止めるとは、思ってくれない。
「そこで頼ろうとしてくれないのは、本当の『弟扱い』か」
弥生と出会った頃の幼い子どもを思い出して、一輝は自嘲の笑みを浮かべる。
あの頃の彼は、彼女の温もりを求めて、ただ縋りつくだけだった。ただ、『自分』のためだけに彼女に焦がれた。
今は、そうではないと思っている。
自分よりも、彼女を幸せにしたい――それが、心からの願いだ。
ただ、「彼女を幸せにしてくれるなら、それが他の男でもいい」とは決して思えず、あくまでも「自分が彼女を幸せにしたい」のだが。
弥生は、四年の年の差をもって『姉』と『弟』のような関係としておきたいようだが、十二歳と十六歳の頃ならいざ知らず、十五歳と十九歳では肉体年齢など大きな問題ではない。
今突き当たっている『壁』の本質は、年の差などではなかった。
もっと――別のもの。
一輝が、背負っているものだ。
新藤商事という、大きな荷物。
それを捨てることは彼にはできないし、彼女も、彼がそうすることを望まないだろう。
「時折、父さんが生きていたらな、と思うよ」
一輝は、言ってもどうにもならない愚痴を、こぼす。
父というよりも厳格な師という存在だったから、彼が慕わしくて、というわけではない。
ただ、彼が生きていれば、一輝はまだ新藤商事の総帥という肩書を持たずにいられたのだ。確かに大企業の後継ぎという立場はどうにもできないが、それでも、今よりはもう少し弥生も歩み寄り易かったのではないかと思ってしまう。
しかし、そんな一輝の台詞に、控えめながら橘は異議を唱える。
「でも、坊ちゃま。そうすればそもそも弥生様とはお逢いできていなかったかもしれませんよ?」
その指摘は、正しかった。
父を亡くし、雨の中で新藤商事を継ぐことに少なからぬ戸惑いを覚えていた一輝に傘をさしかけてくれたことが、そもそもの弥生との出会いなのだ。
「……だな」
頷き、一輝は小さく笑う。
焦ってはいけないと思いつつ、ここに来て停滞してしまった弥生の気持ちが、もどかしい。
無理強いはしたくない。彼女自身の意志で一輝の世界に飛び込んできてくれるなら、自分の持てる力全てで護ってみせるのに。
一輝は、自分の人生において唯一計画通りにいかない、しかし最も重要な案件の難解さにため息をついた。
彼の人生最高の難問は取り敢えず棚上げにして、遥かに容易で現実的な課題に頭を切り替える。
「これからの予定はどうなっている?」
橘に声を掛けると彼は淀みなく答える。
「十五時からは会議が。十七時からは上條グループの上條啓一郎様との会食があります。二十時からは一智様からのご紹介で、園城寺薫子様という方とのお約束が入っておりますが……」
そこで橘は窺うように一輝を見た。
一智は一輝の祖父で、新藤商事総帥代理の座を退いてからは悠々自適の生活を楽しんでいる筈だ――裏を返せば、暇をもてあましているとも言う。現役時代は経済界でも屈指の実業家として名を馳せた人物だが、身内の一輝にとってはしばしば厄介の種にもなる。
そんな彼が孫としての一輝の為に用意することは、八割方、自身の楽しみ目的だ。はいそうですかとすんなり受け入れるのは危険極まりない。
「園城寺……? 誰だ、それは?」
眉間に皺を寄せてそう問い返すと、橘も首をかしげた。
「私も存じ上げません。一智様の個人的なお知り合いのようで……。同じ時刻に、私は一智様からのお呼び出しを受けておりまして、同席することができないのですが」
「おじい様が、お前を?」
橘を一輝から遠ざけて、となると、益々アヤシイ。
「ええ。警備はくれぐれも厳重に行うように指示しておきます」
あの、はた迷惑な遊び心満載な祖父が、何か厄介なことを計画しているのかもしれない。
一輝は、胸のうちに不穏な予感が垂れこめてくるのをヒシヒシと感じていた。