一
新藤商事は、金融、エネルギー、金属、機械を柱に事業を展開しており、連結子会社まで入れた従業員数は三万を越える大企業である。
二年ほど前に、企業のトップを標的とした連続殺人が世間を賑わせた。犠牲者の数は三人――この新藤商事の総帥新藤一雄もその一人であった。
新藤商事における総帥は『神』にも等しい。
優秀な幹部を従えているとはいえ、総帥が唯一無二の『頭』であった。
まだまだ挿げ替える予定のなかったその『頭』を失ったことは、新藤商事にとって計り知れない打撃になると、経済界の誰もが思った。
しかし、当時、引退していた一雄の父一智が総帥の座に戻ると公表され、突然の訃報にも関わらず、この大企業は荒波を無事に乗り切った。
そして、それ以降も常に安定した収益を上げ続けている。
その新藤商事の本社ビル最上階に設けられた総帥執務室の中で。
一人の少年が、苛立たしげに手にしていた書類を机の上に投げ出した。
「橘! 何でこんな事になったんだ?」
その声は澄んだボーイソプラノであったが、口調は険しい。
少年は先代総帥一雄の一人息子、新藤一輝である。
現在、彼は十二歳。
その年にそぐわない筈の三つ揃えのスーツは、しかし、これ以上はないというほどに、ピタリと彼に似合っていた。身長は百五十センチそこそこと年齢相当なのだが、真っ直ぐに伸ばした背筋のためか、あるいはその身から放たれる威厳のためか、実際よりも大きく見える。漆黒の髪と同じ色の瞳は目尻が鋭く、十年いや五年後には怜悧な容貌で女性を魅了するようになるだろう。
対外的には祖父一智が新藤商事の総帥を務めていることになっているが、二年前から、実際に経営を指揮しているのは、この少年だった。正当な跡継ぎが彼しかいなかったとは言え、まだ十歳の子どもがトップに立つなど、公表すれば株価大暴落の憂き目に遭いかねないため、祖父を外部への看板に仕立てたのだ。
もちろん、経営について、祖父のサポートを必要とするときもある。だが、スキップに継ぐスキップで経営学、経済学その他五つの博士号を取得している一輝は、ほぼ完全に、この大企業を独力で取り仕切っていた。
――この事実を知っているのは、新藤商事の上層部の中でも、ほんの一握り。
そして、今、一輝からの叱責を受けている橘は、その数少ないうちの一人だった。彼は一輝が幼い頃からつけられている護衛兼秘書である。細身の身体と柔和な表情をしているが、護衛の腕も秘書としての能力もずば抜けており、一輝にとっては唯一かつ絶対の右腕だ。
その右腕に対して、今、一輝は鋭い眼差しを向けていた。
主の視線を受けて、橘は申し訳なさそうに首をすくめる。
「申し訳ありません。まさか、このご時勢に赤の他人の連帯保証人を引き受ける者がいるとは思わず……」
「言い訳はいい。それで、このニコニコ金融という明らかに胡散臭い名前の金貸しは、どういうところなんだ?」
「まあ、悪徳サラ金以外の何モノでもありません。トイチの利子で、利息制限法は完全無視ですね」
「『彼女』の家の経済状況で返済は可能か?」
一輝の問いに、橘は眉をしかめる。
「う~ん。まあ、厳しいことは厳しいでしょうけれども、可能でしょう。弁護士に相談して利息を整理してもらえば……」
「そこに考えが至るかどうか、だな」
「ええ。ご父君はかなり実直なお人柄のようですから、恐らく、全額返済なさろうとするでしょうね」
一輝は手元にあるファイルに目を落す。この二年間における、『彼女』についての報告書だ。写真には、いつのものにも屈託なく明るさに満ちた笑顔がある。
それは、なんとしても守らなければならないものだ。
「大石金型製作所はうちと取引があるな」
「ええ、まあ。子会社の下請けですが。精密機器の部品としては、定評があります。あそこ以外を新たに探すとなると、結構手間でしょうね」
橘の言葉に、一輝は思案する。
「……では、製品を評価しているから契約を切りたくない、とでも言って、借金を肩代わりしてこい。僕の私財を使ったらいい」
「了解しました――一輝様は行かれないので?」
一輝の様子を伺うような橘の眼差しに、彼は冷ややかな一瞥を返す。
「何故? 末端の些事に顔を出す大企業の総帥はいないだろう」
「……はい。では、行ってまいります」
それ以上の差し出口を控えた橘が一礼して執務室を出て行った。
彼の姿が消えると同時に、一輝の肩から力が抜ける。何枚もある大石金型製作所の娘の写真を、そっと指先で撫でた。
出会ったのは、たった一度。
その『たった一度』で向けられた笑顔は、写真のものよりも鮮やかに、今でも心の中に残っている。
あの時彼女に出会わなければ、もしかしたら、自分は今ここにいないかもしれない。
幾つかの言葉と、温かい手。
彼女から受け取ったのは、その二つ。
それだけでこんなに想いを注ぐのは、単なる刷り込みに過ぎないのかもしれない。
だとしても、この二年間の一輝を支えてきたのはその出会いであり、それ以降も追い続けてきた彼女の笑顔だった。
その笑顔を、彼自身に向けてくれたらどんなにか嬉しいことだろう。
時々、そんなことを夢想する。
だが、一輝が属する殺伐とした世界に、彼女を引きずり込む気はなかった。二人の生きる場所はあまりに違いすぎ、彼女の笑顔は、きっとここでは変わってしまうだろう。
それは一輝にとって、容認し難いことだった。
「貴女は、僕が守りますから」
ずっと、笑っていられるように。
ずっと、幸せでいてくれるように。
彼女が幸せでいてくれるならば、このまま変わらず笑っていてくれるなら、それだけで自分は満たされる。
彼はそう信じていた――その時までは。