二
春――。
東京教育大学のキャンパス内を、一人の少女が歩いている。とても小柄で、どう見ても中学生、頑張ってみても高校生なのだが、私服だ。
彼女は大石弥生、これでも十九歳の大学二年生である。
高校のときよりもほんの少し背は伸びて、現在百五十一・三センチだが、顔は全く変わらない。本人も童顔であることをいやというほど自覚しているので、化粧をしても子どものいたずらにしか見えないだろうと、下手な小細工はせず、時々色付きのリップクリームをつけるくらいだ。
「弥生!」
スタスタと、小柄な身体に似合わず颯爽と歩く弥生の後ろから、彼女を呼び止める声がかかる。振り返った先にいるのは、高校からの友人たちだった。
「美香ちゃん、森口君」
立ち止まって、彼女たちを待つ。加山美香は百六十五センチ、森口裕輔にいたっては百八十三センチもあるので、その二人を前にすると、弥生は小学生にも見える。
「弥生、今から帰り?」
「うん。美香ちゃんたちも?」
「そう。今日は二コマしかなかったから。この後、森口とカラオケ行こうっていう話になって……弥生も、どう?」
美香の誘いに、弥生は少し困った顔をする。
「あ、えっと……」
もじもじと返事を渋る彼女に、二人はすぐにピンと来たようだ。
「もしかして、あの……?」
森口の控えめな問いに、弥生はこくんと頷く。今日は、二週間前から予定が入っていたのだ。
「じゃあ、仕方がないか」
「お昼ご飯に行こうって、約束してて。校門のところまで、迎えに来てくれるの……あ、ほら」
弥生の指差した先では、若い男性が彼女に向けて手を振っていた。遠目でも見て取れる貫禄に、美香がつくづくと感心した声を出す。
「相変わらず、いい男だよねぇ。アレで十五歳とは思えないよ」
「うん、しっかりしてるよ。さすがだよね」
ニコニコと、できのいい弟を見る眼差しで笑顔になる弥生に、美香と森口は心の中で突っ込みを入れる。
――万単位の従業員を抱える大企業を束ねている男に対する評価じゃないよな。
そう、弥生を待つ人物とは、十五歳の誕生日と同時に巨大企業である新藤商事の総帥となった、新藤一輝である。実は十歳の頃から新藤商事総帥の実務を担っていたのだが、その事実を知るものは極々わずかだ。
四年前に弥生の父が連帯保証人として背負ってしまった借金を援助してもらい、それ以降、彼女と一輝は姉弟同然の付き合いをしている。高校時代からの弥生の友人である美香と森口は、彼女が一輝と親しくしていることを知っている、数少ない人物のうちに入っていた。
「まあ、ほら、彼も忙しいんでしょ? 早く行ってあげなよ」
「うん。じゃあ、また誘ってね」
バイバイ、と二人に手を振って、弥生は小走りで彼女を待つ人物の元に向かう。
その背を見送りながら、美香は言う。
「残念だったねぇ、森口」
「ほっとけ」
ボソリと一言だけ返した森口は、新藤一輝と笑顔で見合っている弥生をやるせない思いで見遣る。
高校の頃から森口が弥生にベタ惚れであることを知っている美香が、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべた。
森口としてはこまめにアプローチしているつもりなのだが、その努力はさっぱり報われていない。報われないどころか、当の弥生は森口の気持ちに気付いてすらいなかった。
多分、遠回しすぎるのだ。
「あんた、『イイ人』になっちゃってるから……。たまには、違う方向で押してみたら?」
「そんなことして、避けられたらどうするんだよ」
「男として意識してもらえてないよりマシじゃないの?」
「……」
グサリと痛いところを突かれ、森口は絶句する。
その通り、全く、ものの見事に、弥生には意識されていないのだ。だが、下手なことをして、今の彼女が彼に向けてくれる屈託のない笑顔を失いたくないのも事実である。
はあっと、大きな溜息をついた森口の背中を、美香がバンバンと叩く。
「まあ、頑張りなよ。あっちは上品な振りして、かなりの肉食系とみたけどね」
励ましているのかどうなのか判らない美香の言葉に、森口はがっくりと肩を落とした。