エピローグ
「それでは、皆さんお世話になりました」
一輝は、大石金型製作所の従業員も含んだ一同の前で頭を下げる。
達郎が家に戻ってから二日過ぎた夜、夕食を終えた席で、一輝はおよそ二ヶ月間の滞在について礼を述べた。
『休暇』を終え、彼が本来のいるべき場所に戻る日が来たのだ。
弥生はせめて二学期が終わるまではいたらどうかと勧めてきたが、一輝は断った。
本気で引き止めにかかっている弥生に彼の後ろ髪は引きちぎられそうに引かれたが、やるべきこと、やりたいことが見えたからには居ても立ってもいられなくなってしまったのだ。
唐突な別れに、小学校を去る時には、涙に暮れる女子たちが教室の外にも列を作っていたとかいないとか。
名残惜しげに、一輝の両手を弥生がギュッと握る。
「残念だけど、仕方がないよね。でも、また、いつでも遊びに来てね」
「ええ、是非。さし当たって、クリスマスあたりに伺ってもいいでしょうか」
つまり、一週間後だ。
「いいよ。ケーキ焼いて待ってるから」
嬉しそうに笑う弥生の後方でしょっぱい顔をしている達郎が視界の隅に入ったが、一輝は敢えて気付いていないことにした。
「楽しみです」
社交辞令ではない、心の底からの言葉だ。
それが伝わったのか、弥生の笑顔が大きくなる。
この数ヶ月で一輝の背は伸び、やや弥生のことを見下ろす目線になっている。
――この人は、僕が一生をかけて護り、慈しみ、求めていくべき人だ。
彼女の笑顔を目にするたびに込み上げてくる想いを、もう否定する気はない。
晴れやかな思いで一輝が微笑むと、何故か弥生が目を丸くした。その隙をついて、彼は彼女のふっくらと丸みを帯びた頬に顔を寄せる。
「ああ……! もがっ」
弥生の背後で何やら声が上がったが、それ以上の抗議は阻止されたようだ。
一輝の唇に、温もりを感じる。
ふわりと柔らかな彼女の頬はマシュマロのようで、多分、舌で触れれば本当に甘さを伝えてくるのだろう。
実際にそうしてみたい衝動に駆られたけれど、彼は何とか自制心を振り絞って己を押しとどめた。
一輝が身体を離すと、大きく見開かれた弥生の目がパチリと瞬きされ、次いで見る見るうちにその頬が真っ赤になっていく。
「……え?」
今彼がしでかしたことに弥生は絶句し、固まっている。
一輝は指先で真っ赤に染まった彼女の頬の熱を確かめた。
熱い。
くすりと笑って、彼は手を下ろす。
「じゃあ、また」
「え……え、っと……?」
弥生は、まだ、事態をよく呑み込めていないらしい。
酸欠の金魚のようにはくはくと口を開け閉めするその様があまりに可愛らしく、思わずクスクスと笑みを漏らしながら一輝はベンツに乗り込んだ。
静かに走り出した車の中で、一輝が橘に問う。
「弥生さんのあの反応は、どう思う? いけそうだろう?」
いまだかつて見たことのない主人の楽しそうな様子に、橘は喜びと驚きが入り混じった――明らかに驚きの方が勝った眼差しで、頷く。
「ええ、まあ、少なくとも、『弟』にキスされてもあんな反応はしませんよね……」
そう言えば、と、祖父の一智も、一輝の祖母と出会うまではかなりその筋でブイブイいわせた人だったと風の噂に聞いたことを、橘は思い出していた。そして、たった一人を見つけてからは、一切脇目は振らずにその人のみにまっしぐらであったとも。
――隔世遺伝だったのか……。
生真面目な顔を保ちつつ、内心で深々と頷いている橘には気付かず、一輝は別れ際の弥生を思い出してまた小さな笑いを漏らす。
「これは、ひとたまりもないですね……」
主人の有能さを十二分に知っている橘の呟きは、小さすぎて一輝の耳には届ききらなかった。
「何か言ったか?」
「いえ、別に。まあ、一輝様が弥生様を幸せになされば、万事問題なしですよね」
「もちろん、するさ」
そこには迷いも不安もなくて。
――一智様、策が当たり過ぎですよ。
見事なまでに吹っ切れた主人を横目に橘が胸の内でそう囁いたことを、一輝は知らない。
彼には、拓けた未来の先にある明確なゴールしか、見えていなかったから。