十三
三日後には達郎の検査も一通り終了し、状態も安定したため、無事退院できることとなった。
結果として高血圧と狭心症があると診断されたのだが、その際、彼が時々――というよりしばしば、弥生の目を盗んで塩をつまみに日本酒を飲んでいたことが発覚した。
弥生の健康管理ならば完璧の筈だったのに、隠れてそんなことをされては台無しだ。
「……お父さん」
「すまん。本当に、すまん。今度からはちゃんと言うよ」
胸の前で腕を組んで睨み付けている弥生の前に、ベッドの上で土下座をしそうな勢いで、達郎が頭を下げる。諸悪の根源をやめる気はなさそうだが、こそこそされるのよりは遥かにマシだろう。
平謝りの父親に、弥生は大きなため息をついた。
「もう……。ホントに、こっそりはやめてよね。じゃあ、わたしは退院の手続きに行ってくるから、着替えとかしておいてね」
彼女が出て行くと、部屋に残ったのは達郎、睦月そして一輝の三人になる。
弥生の足音が遠ざかるのを待って、達郎が改まった様子で姿勢を正し、一輝に向けて深く頭を下げた。
「今回は、大変世話になったようで……ありがとうございます」
「いえ、病気なのですから、仕方がないことです」
微笑んでそう返した一輝に、達郎はかぶりを振った。
「俺のこともなんですが、それよりも、弥生のことです」
「弥生さん……?」
一輝が軽く首を傾げる。
達郎はチラリと睦月を見てから、視線を膝の上に置いた自分の両手に落とした。
「ええ。あいつは、母親が逝った時も泣けんかったんです。葬式の時のことは今でもよく覚えてるんですが、生まれたばかりの葉月を抱いて、この睦月を腰にしがみつかせて、でっかい目を見開いてましたわ」
そう言って、一度、手のひらで顔を撫で下ろす。睦月も黙って聞いていた。
「いっつも笑ってくれとるんですがね、やっぱり、ふとした時に目が変わるんですよ。台所に一人でいる時とかね。なのに、俺に気付くと、すぐに笑いやがるんですよ。笑わんでもいいのに」
達郎が漏らした笑いは苦笑に近かったが、そこには溢れんばかりの愛情がこもっていた。
愛情と――自嘲が。
それは、大事な娘に頼ってもらえない自分に対する不甲斐なさから来るものなのだろう。
達郎は、弥生に笑顔を向けられるよりも、泣いて気持ちを打ち明けて欲しかったのに違いない。悲しいとかつらいとか寂しいとか、言ってもらいたかったのだ。
――一輝が、そうであるように。
確かに、弥生が自分の腕の中で泣いていた時、一輝は胸が潰れそうな想いと共に、微かな喜びも感じていた。
あんな状況であったにもかかわらず、彼女を受け止めている、彼女が心を預けてくれている――そう実感して、不謹慎にも嬉しいと思ってしまった。
そして、もっともっと、弥生のことを見せて欲しいと思った。
弥生のことを、一つ残らず、全て。
一輝は、今までこれほど強く何かを欲したことがない。
次から次へと与えられるものを、ただ受け入れてきたのだ。
まるでその埋め合わせをしようとしているかのように、これまで感じた事のなかった『欲求』というものが、一気に押し寄せ、そして一点に集束している。
今、こんなにも強く何かを求めていることに、彼は怖さすら覚えていた。
だが、弥生に対する想いを、もうなかったことにはできない。
一輝は胸の底に灯った炎を消すことはできないし、消したいとも思わないのだ。
密かに拳を握り込んだ一輝には気付かず、達郎が続ける。
「あいつが母親のことを引きずっとるのは判ってたんですが、俺は何もできんかった。俺が頼りない父親だったばっかりに、頑張らせちまったんですな」
少し微笑んだ達郎の目尻には、光るものが滲んでいる。彼はもう一度、深々と頭を下げた。
「あいつを泣かせてくれて、ありがとうございました」
「大石さん……頭を上げてください」
一輝はベッドサイドに歩み寄り、達郎の肩に手を乗せる。そして、顔を上げた彼の視線を、しっかりと捕らえた。
「僕の方が、弥生さんから多くのものを受け取っているんです――初めて彼女と言葉を交わした時から、とても多くのものを」
「一輝君……」
一輝の言葉に、達郎の目が潤みを増す――その先に続く一輝の言葉も知らずに。
彼の心は、そして未来は、もう決まっていた。
一輝は背筋を伸ばし、真っ直ぐに達郎の目を見つめる。
「大石さん、いえ、お父さんには、先にお伝えしておきます」
「え?」
達郎が「何を?」と問い返す暇は無かった。
「いずれ、弥生さんをいただきにあがります」
「――……え?」
「もちろん、弥生さんの気持ちが一番、重要です。ですが、僕も力を尽くします。弥生さんさえ受け入れてくだされば、必ず幸せにします」
「ええ!?」
衝撃の告白に、達郎はポカンと目と口を開いている。
茫然自失の父親に代わって、睦月がポンと一輝の肩に手を置いた。この事態に、彼は全く動じていない。
「まあ、頑張れ。全然脈なしじゃないと思うが、何しろ、俺と同い年だしな。姉ちゃんの中じゃ、ほとんど弟扱いだぜ。俺は妨害はしないが、協力もしないぞ。お前より良さそうなのがいたら、そっちに任せるし」
「まだ、僕が結婚できる年までは六年もあるし、じっくり攻めていくしかないな」
「六年か……。背が伸びれば、ちっとは違うんじゃね? 外見も大事だからな。鍛えろよ」
「そうだな。橘に言って、ジム通いを毎日の予定に組み込むようにしよう」
真っ白になっている父親をよそに、少年たちは好き勝手なことを言う。
「あれ、お父さん、まだ着替えてないの? もう、子どもじゃないんだから、さっさと動かなきゃ」
やがて帰ってきた弥生には呆れられ、踏んだり蹴ったりの父親は情けない声を出す。
「だって、お前、一輝く……」
「さあ、弥生さん。葉月君たちも待っていますから、ここは睦月に任せて先に車に向かいましょうか」
生まれて初めて自分から欲しいと思ったものを手に入れるには、慎重かつ周到に事を進めなければ。
達郎に余計なことを言われる前に、一輝は弥生の手を取り部屋から連れ出した。
無情にも愛娘を連れ去られ、ダメージを回復できない父親はがっくりと項垂れる。そんな彼の肩に、睦月がそっと手を置いた。
「まあ、いいじゃん。まだ六年もあるんだし。あいつはかなりの優良物件だぜ?」
――何よりも、弥生を想う、その気持ちの強さが。
睦月は心の中でそう付け加える。
いつかは誰かの手に委ねなければならないのなら、一輝ならばその候補の一人にしてやってもいいだろうと思えた。
「ま、頑張れよな」
少しの悔しさも混ぜて、睦月はこの場にいない相手に呟いた。