十二
みぞれ混じりの雨が降る、寒い日だった。
十二月も中旬に入ると、工場もフル稼働して年末に備えるようになってくる。
その日も達郎は朝早くから忙しく立ち働いていた。
「よお、一輝君。今朝も見ていくんかい」
「はい。お願いします」
工場に姿を現した一輝を振り返り、達郎が笑顔で声をかけた。不思議なもので、容姿は全く違うのに、その笑い方は弥生によく似ている。
一輝は、暇を見つけては工場に出入りするようにしていた。
下請けの会社や工場の名称や数字としての業績は、今までも知っていた。だが、彼らがどのように働いているのかは、気に留めたこともなかったのだ。新藤商事の総従業員の数は知っていても、それが人間であることには、気付いていなかったのではないだろうか。
もうじき『休暇』も終わる。それまでに、自分が背負うものの一番の底を形作ってくれている者たちの動きを、言葉を、しっかりと記憶に留めておきたかった。
一輝は、定位置になっている、誰の邪魔にもならず、しかし、工場内を一望できる場所に陣取る。
いつもと同じように機械は動き、いつもと同じように機械の音がリズミカルに響く。
だが、唐突に。
その流れが壊された。
「うあっ」
引き絞るような達郎の呻き声が響き、その体が崩れ落ちた。
「大石さん!?」
一輝は咄嗟に駆け寄り、床でのたうつ達郎を覗き込んだ。
達郎は胸元を鷲掴みにして苦悶の表情を浮かべている。
「救急車を呼んでください! 弥生さんや睦月にも声をかけて!」
集まってきた従業員たちにそう指示を出すと、達郎に向けて声をかける。
「大石さん! 大石さん! 聞こえますか?」
一輝の声に、達郎はかろうじて肯きを返す。
「胸が、痛ぇ……」
心臓――狭心症だろうか、それとも、心筋梗塞だろうか。
万一の場合にはすぐに救命措置が取れるように、一輝は身構える。
「お父さん!」「親父!」
工場に駆け込んできた弥生は、蒼白な顔をしていた。睦月も顔を強張らせてはいるが、まだしっかりしているようだ。一輝は冷静に判断し、睦月に声をかける。
「心臓が悪いみたいだ。救急車は呼んだから、到着したら一緒に乗ってくれ。僕たちは後から追いかけるから。救急隊が来るまでの間に、携帯電話と保険証を取ってきておくんだ」
一輝の落ち着いた声音に肯いて、睦月は居宅のほうへ引き返す。
二人と同時に駆けつけていた橘が、車の手配をしているのが視界の隅に映った。
「弥生さん? お父さんは大丈夫ですよ」
今にも倒れそうな弥生に声をかけると、彼女は焦点の合わない眼差しを一輝に向けた。今まで見せたことのないその脆さに、一輝の胸が締め付けられる。
「もう救急車が来ます。意識もしっかりしていますし、大丈夫です」
そっと囁くと、弥生は幼い子どものようにコクコクと肯いた。
財布と携帯電話、保険証を持った睦月が戻ってくるのとほぼ時を同じくして、救急車のサイレンが響いてくる。
「大石さん、救急車が来ました。もうすぐです」
達郎は苦しそうに顔をひそめながらも目で反応する。
けたたましいサイレンが止まったかと思うと、すぐにストレッチャーを押した救急隊が駆け込んできた。テキパキと必要な情報を聴取し、手際よく達郎をストレッチャーに乗せると、睦月と共にあっという間に工場を出て行く。サイレンもみるみる小さくなっていき、間も無く聞こえなくなった。
工場の中には、稼動し続ける機械の音と、囁きを交わす従業員の声だけが残っている。
「今日は休みにします。僕たちは病院に向かいますので、何か判ったらこちらに電話をします。ここで待機していてください」
一輝は従業員たちに向けて、そう指示を出す。従業員たちは何をすればいいのか示されて、安堵したように動き出した。
「一輝様。間も無く車が着きます」
落ち着いた声音の橘へ目配せし、外で待つように指示をする。彼はすぐに踵を返して出て行った。
残るのは、一人だ。
「弥生さん……?」
そっと声をかける。
彼女は血の気の引いた顔のまま、小刻みに体を震わせている。
普段の弥生からは想像できないほどの取り乱しようだった。
できるだけ刺激しないように、一輝はそっと弥生の背中に手を置いた。
「さあ、病院に向かいましょう。睦月に電話をかけて、どこに向かっているのかを確かめないと。葉月君も連れて行かないとですね。橘が面倒を見てくれますから」
弥生は理解しているのかいないのか、一つ一つにコクリと首を上下させていく。背中の手に軽く力を込めると、それがきっかけになったように歩き出した。
二人を待つ車の中では、葉月を抱いた橘が待っていた。まだ朝早いためか、葉月は橘の腕の中ですやすやと眠っている。
車の中に乗り込んでから、一輝は睦月の携帯に電話する。弥生の目は、一輝の手の中の携帯電話に釘付けになっていた。数回のコールの後、睦月の声が響く。
「睦月、行き先はどこになった?」
「中央総合病院。もうすぐ着くってさ。親父も大丈夫だからって、姉ちゃんに伝えてくれよ」
「わかった」
「中央総合病院だ。出してくれ。弥生さん、お父さんは落ち着いているそうです」
一輝の言葉に、フッと弥生の全身から力が抜けたのが判った。一輝は、思わず、その体に腕をまわす。さして長くもない彼の腕の中に、弥生の体はすっぽりと入ってしまった。
――こんなに小さいのか。
引き寄せたその身体の柔らかさと細さにドキリとする。震えは、まだ止まっていなかった。
彼女を支えなければ。
そんな思いが膨らんでいく中で、一輝は、弥生のあまりの怯えように微かな疑問を抱く。
ただ父親が倒れたことに対するものにしては、強すぎではないだろうか。達郎の状態は、救急車に乗り込む直前にも意識はあったし、先ほどの睦月の電話でも大丈夫だと言っており、それほど悪くはない。恐らく、一過性の狭心症だろう。
絶望的な事態ではない。
それが理解できないほど取り乱しているわけでもないのに、何がそれほど彼女を恐れさせるのか。
そんなことを一輝が考えている間にも車は距離を稼ぎ、やがて病院の敷地内に入る。
病院の建物が近づくにつれ、弥生の身体の震えが激しさを増していく。
「弥生さん……?」
顔を覗くと、完全に血の気が引いていた。
「どうされたのですか? 具合が……?」
問うても、弥生は無言で首を振る。隣の橘が目顔で訊いてくるが、一輝にもさっぱり判らなかった。
車は病院の正面玄関に到着し、降車した一輝は弥生の手を取って院内に入ろうとする。が、その手がクン、と引かれる。
「弥生さん、行かないのですか?」
「……ない」
「え?」
小さな声を聞き逃し、一輝は問い直す。
「行けない」
それは、『行かない』ではなく、『行けない』だった。
一輝と橘は、ここにきて、ようやく、彼女の尋常ではない様子は父親が倒れたことによるものだけではないことに思い至る。
「一輝様、私は葉月様を連れて先に行きますので、落ち着いたら合流してください」
「ああ、判った」
足早に去っていく橘を見送って、一輝は近くにあるベンチに弥生を促す。彼女の消沈振りは、普段の明るさを知っているだけに、あまりに痛々しい。
ベンチに腰を下ろすと同時に、堪えきれなくなったものが溢れるように、彼女の頬をポロリと雫が零れ落ちた。その後は堰を切ったように次から次へと流れていく。
声はなく、静かに涙だけを流す泣き方に、一輝の胸が苦しくなる。この涙を止められるならば、何でもするのに――そう、強く思う。
一輝は腕を伸ばし、弥生の身体を引き寄せる。彼女はされるがままに、身体をもたれかけてきた。
柔らかな重みを受け止めて、抱き締める力が、意識せぬまま込められていく。
一輝の力が強くなるのに反比例して、弥生の身体からは力が抜けていくのが判った。
頬をくすぐる弥生の髪が、心地良い。
どれほどの時間が経った頃だろうか。
耳元で、囁くような嗚咽混じりの弥生の声が語り始める。
「お母さんが逝っちゃった時も、こんな感じだった。……急に倒れて、苦しがって……」
小さくしゃくり上げる。
「病院に着いて、お母さんは、どこかに運ばれて行って。葉月は、産まれたけど、お母さんは、帰ってこなくって。お医者さんに、呼ばれたんだけど、『手は、尽くしましたが』……って。真っ青で、動かなくって。――怖かった……!」
弥生の嗚咽を、一輝は、耳だけでなく全身で感じ取る。
その時、彼の胸の中には強い想いが込み上げてきていた。
――この人を、辛い目に合わせたくない。幸せにしたい。
そのために世界を手に入れなければならないとしたら、一輝はそうするだろう。
一輝は、弥生を護りたいと思う。
護り、支え、常に彼女が笑顔でいられるようにしたい。
それは、彼個人の中にある想いだ。
ふと、一輝は悟った。
――僕だけじゃないんだ。
彼が、一輝が統べる組織の中にも、そんな想いを抱いている者がいるのだろう。
一輝が背負っているものは、ただ利益を生み出すだけの機関ではないのだ――利益を生み出す、即ちそこに関わる皆の生活を守るということ、それが一番の根底にある。
そう理解した瞬間、唐突に、視界が拓けた気がした。
もう、『休暇』は終わりだ。
一輝にはそれが判った。
まだ広くない自分の背中よりも更に小さなそれをゆっくりと撫で、彼女が鎮まるのを待つ。
どれほどの時間が過ぎたかは、判らない。だが、いつしか弥生の身体の震えは止まっていた。
「弥生さん……? 行けますか?」
自分でも驚くほどに優しい声音で、一輝はそっと尋ねた。
しばらくの間は空いたが、直に弥生は身体を離し、顔を上げる。
「うん……大丈夫」
頬は涙で濡れそぼっており、瞳には微かな陰は残っていたが、そこには確かに彼女の笑顔があった。
四年の間、誰にも言えなかった思いを吐き出して、まだ完全に『大丈夫』になったわけではないのだろうけれど。
――弥生はしっかりと頷く。
「行けるよ。行こう」
その笑顔を受け止め、一輝は、この想いはすでに『恋』ではないのだと、知った。