十
一輝が大石家で過ごすようになってから、およそ一ヶ月が過ぎた。
何かと群がってくる女子たちや、遠巻きにしながらチョコチョコとちょっかいをかけてくる男子たちの扱いにも慣れてきている。
最初のうちは戸惑ったものの、新藤商事の富にへつらう狸ジジイ共とは違って行動原理に裏がない彼らの扱いは、コツさえつかんでしまえば簡単なものだった。今ではむしろ、彼らをいなすのが楽しく感じられるようにすらなっている。
そうやってさまざまなことに慣れてくると、色々と余裕が出てきた。
余裕ができると、時間もできるものだ。
しかし今は『休暇中』なので、一輝は新藤商事総帥の仕事ができない。
いつもは一日十五時間その座にあったわけで、それを奪われたらどれほど時間を持て余すことになるだろうかと思っていたが、彼は意外にタイトな日々を送っていた。
まず、食事の手伝いだ。
食器を並べたり、ごくごく簡単な盛り付けをさせてもらったりするのがせいぜいだったが、葉月と並んで弥生にあれこれ指示されるのは、楽しかった。
「美味しそうに見えるかどうかっていうのは、消化にすっごく大事なことなんだからね!」
そんなふうに言いながら、彼女は一輝の魚の切り身の置き方にダメ出しをしたりする。
食事が終われば、睦月に勉強を教えてやるという一大仕事が待っている。
勉強の内容自体は一輝にとって難しいものではないのだが、教えるとなると別の話だった。
何しろ、何故、睦月がそれを理解できないのかが、理解できないのだから。
「お前の教え方、全ッ然解かんねぇよ!」
一輝としては一から懇切丁寧に教えているつもりなのに、睦月はシャープペンシルを放り投げてそんなふうに言い出すのだ。見かねた橘が口を挟んでくることも、しばしばだった。
そんなルーチンワークに、ここのところ、睦月の自主トレーニングに付き合うという項目が加わっている。
睦月は毎日、クラブ活動の他に、近所の運動場まで片道二キロのランニングをし、着いた先で五十メートルダッシュを三十セット、腕立て伏せと腹筋、背筋を五十回、その後また二キロのランニングで家に帰るというトレーニングを欠かさず行っている。
一輝はこれとフルに同じ事をするのは無理なので、行きと帰りのランニングだけ付き合っていた。
「なあ、睦月」
出会った頃とは全く違う打ち解けた口調で、一輝は腕立て伏せをしている睦月に声をかける。『普通の小学生男児の話し方』も板についたものだ。
「ああ?」
睦月は、腕は止めずに顔だけ一輝のほうに向けてきた。
「睦月は、サッカー選手になりたいんだろう?」
「ああ。なるぜ」
迷いのない断言が返ってくる。
「……もう、決定なのか。――なれなかったら、どうする?」
「まだ一回もチャレンジしてねえのに、できない時のことなんか考えらんねえよ」
「失敗した時のことは考えていないのか?」
「当たり前。そんなこと考えてたら、できるもんもできねぇよ」
一輝には、それこそできない芸当である。
常に、うまくいかない時のために次善の策を考えておくことが、経営には必須のことだ。自分の計画がうまくいくことに確信を持っているが、それでも、必ず最悪の結果を頭の隅に置きつつ行動する。背水の陣など、考えられない。
この考え方の違いは、睦月がまだ小学生故だろうか。
まだ、真剣に将来のことなど考える必要が無いから、夢や希望だけで行動できるのだろうか。
一輝はサクサクと腕立て伏せをこなし、次いで腹筋に移った睦月を眺めながらそんなふうに思った。
と、不意に、睦月の動きが止まる。
まだ十九回の筈だ。
「睦月?」
声をかけると、彼は立てた膝の上に腕を置いて、一輝の方に顔を向けた。
そうして、ニッと笑う。
「なんかなぁ、もしダメでも、姉ちゃんが『大丈夫』って言ってくれるからなぁ」
「弥生さんが?」
「ああ。姉ちゃんの『大丈夫』ってやつは、根拠なんかないんだけど、大丈夫な気にさせてくれるんだよな。あれ聞くと、よし、また次頑張るぞって気になるっていうか……そう、やる気が出てくるんだ」
何となく照れ臭そうな顔になると、睦月はまた腹筋を始める。
その動きを何となく目で追いながら、それはそうかもしれない、と一輝も思った。実際に、彼女の『大丈夫』で彼もここまで来たのだから。
弥生の声には、何か魔法じみたモノがあるのではないかと、思ってしまう。
一輝は意味のある言葉をしゃべるようになって以来、そんな絵空事を信じたことがなかったが、弥生といると何もかもがこれまでの彼の世界と違い過ぎるのだ。
彼女の傍にいるのは、あまりに心地良い。
けれど、いつか必ず、別れの時やってくるのだ。
その場面が頭に浮かび、一輝は我知らず身震いした。
笑顔で別れを告げられるかどうか、自信がない。
自信がないということ自体が初めてのことで、不安だ。
いや、父が亡くなって新藤商事を継ぐことになった時にも気持ちが揺らいだが、今彼が抱いている不安は、あれよりも強かった。
時折、一輝は祖父のことを恨めしく思う。
こんなふうに、弥生に近付く機会を彼に与えたことに対して。
けれど、余計なことをしやがって、とも思えないのだ。
ぐるぐると自分の思考の中に入り込んでいたから、一輝は睦月の言葉に反応しそびれた。
「え?」
何か言われたことは気付いたが、その内容を聞き逃してしまう。
眉をひそめた一輝に、睦月はだからさぁ、とため息をついた。
「だからさ、姉ちゃん自身は、どうなんだと思う?」
睦月は胡坐をかいて座ると、真っ直ぐに一輝を見た。
「うちの親父、職人としては最高だと思うし、尊敬してるよ。だけど、親父としてはどうなんだろうな。家の中のことは姉ちゃん独りでやってて、何かあっても親父に相談とかはしないんだ。親父は、仕事をしててくれればいいからって」
幼い頃の葉月が夜泣きで一晩中寝なかったことや、離乳食がなかなか進まなかったこと、保育園になかなか馴染めずに何度も保育士と話し合いをしたことなどを、達郎は知らない。
睦月が反抗期の頃、学校で喧嘩をしたり備品を壊したりといった問題を起こした時も、弥生が謝りに来たのだという。
「俺も、ちょっと前までは姉ちゃんを困らせることばっかりしてたけどさ、今は少しぐらい頼ってくれてもいいと思うんだよな」
いつもニコニコしているから、辛いのかどうなのかさっぱり判らない、とぼやいた睦月はうつ伏せになって背筋を始める。
その背中を見つめながら、一輝は彼の言葉について考えた。
父親が背負った他人の債務のことは、睦月には知らされていないに違いない。だが、彼は何となく、「何かがあった」ことには気付いているのだろう。問題があっても知らされないもどかしさを覚えていても、弥生のある種のポーカーフェイスで跳ね返されて、踏み込んでいけないのだ。
弥生はいつも笑顔だ。
それを向けられると、一輝は全身が温まるような心持ちになる。
だが、確かに、彼女にだって、他の表情をすることがある筈だ。
冷静な顔の下で一輝が様々な考えを巡らせているように、笑顔の下で彼女は別の思いを抱いているのかもしれない。
弥生の笑顔の裏にあるもの――一輝も、それを知りたいと思う。
彼女が見せようとしているものだけでなく、彼女の全てを知りたいと思う。
弥生の傍にいればいるほど、ただ見ているだけでは満足できなくなってくる。
日に日に貪欲になっていく自分自身を、一輝は自覚せざるを得なかった。