[緋き群青の世界]編
[評議世界・1 side.A]
夢見る旅人が、決して辿り着けぬ地…。
カルボモンドで出来た神経が、無限の演算要求を送り続ける。
女神を象った有機の像が、無限の演算結果を弾き出し続ける。
そこは異質な空間だった。
無より零れ落ちし闇の使徒たち。
彼らに言わせれば、そこは“いと尊き場所”である。
ふと、闇が蠢いた。
「さあ、始めよう」
紡がれた言葉。
宣言は、一度。
呼応は、無限。
そして世界は、震え出す…。
「赤色の空…青色の大地…
人ならざる者…人たり得ぬ者…」
[緋き群青の世界・1]
「お、気がついた」
すぐ目の前に、子供の顔。
「ママーーー!! 兄ちゃんが起きたーー!!」
ドタドタドタドタ…
子供の顔は離れ、代わりに、ちょっと遠くに白い壁。
いや、壁じゃない。天井だ。
ベッドから上半身を起こした。
…ここはどこだろう…?
「まあ、もう起き上がっても大丈夫なの?」
見知らぬおばさんが、子供を連れ、心配そうな面立ちで、こちらにやってくる。
ちょうど、お母さんくらいの、おばさん…。
…そうだ、僕のお母さんは…もう…。
「お、おい! どうしたのさ、兄ちゃん!?」
子供が僕を気遣ってくれるけど。嗚咽は止まらない。
そうだ。村は燃えた。
みんな、死んでしまったんだ…。
…なのに、なんで僕は…?
「…なんで、僕だけ、生きて…生きて…?」
しゃくり上げながら、なんとかそう口にした。
「事情は分からないけれど…」
おばさんは、いろいろと教えてくれた。
草原に倒れている僕を、息子のエネルが発見したから、家へ連れてきたこと。
全身にやけどを負った僕を看病してくれたこと。
僕は丸一日、目が覚めなかったこと。
「最初は死んでるかと思ったんだ」
僕を発見してくれたエネルは、倒れている僕の状態をそう語った。
「よく無事だったわ…。…ああ、もう大丈夫?」
「はい…突然すみませんでした…」
泣くだけ泣いて、少しだけ、すっきりした。
「…ところで、ここ、どこなんですか?」
「ここ? ここはね、マナレイカが暮らす街、シャルル・マナレイカよ」
まるで心当たりがなかった。
[緋き群青の世界・2]
僕が暮らしていた村の名前は、“緑萄の村”だ。
そしてたしか、国の名前は“開風の国”…。
「…じゃあ、この国の名前は?」
「国? …国って…何?」
「何っ、て…。国は国で…」
「残念だけど、知らないわねぇ、そんな言葉は…」
からかっているようには見えない。
本当に知らないんだ。
頭の中が真っ白になった。
じゃあ、僕が倒れていたのは…どこ?
村…があった場所…じゃない、って…こと…?
「気分悪そうだぞ、兄ちゃん…」
エネルが僕の顔を覗き込む。
「もしかして、記憶喪失かしら…」
そうだったらどんなにいいか。
あの、悪夢のような光景は…、一生、脳裏から離れてくれそうにない。
「もし歩けるようなら、散歩でもどうかしら? なにか思い出すかもしれないわ」
体と相談したところ、歩くには問題ないように思える。
「…はい、そうしてみます」
今の僕にできることは、たぶん、それくらいだ。
「じゃ、おいらも付いてくよ」
僕よりも小さいのに、僕を支えようと、気遣って。
それほど、今の僕は弱って見えるんだと思う。
「ありがとう」
お礼を言い切る前に、エネルはドアまで駆けていった。
「こっちだぞ! …ええと」
「セルク。よろしく、エネル」
「ああ、よろしくな! セルク兄ちゃん!」
弟がいたら、こんな感じなのかもしれなかった。
[緋き群青の世界・3]
村が燃えている。
あの残酷な光景が、再び目に飛び込んできた。
でも違った。
なにも、燃えてなんかいなかった。
夕焼けにしては赤すぎるほど赤い空が、家々を紅く染めていた。
こんな空は、見たことがなかった。
「なんか思い出したのか?」
「…いや、なんでもない」
上がりっぱなしの顔。エネルに応えて、下へ戻す。
…ッ!
地面が、青い。
湖よりも、青空よりも、ずっと青い。
そこでようやく、僕は、自身が置かれてる現状に気がついた。
ここは、違う。
僕のいた世界じゃない。
異世界だ。
「…セルク兄ちゃん?」
「なんでもない…なんでもないんだ…」
赤と青の暴力が、僕の、なけなしの理性を破壊しようとしている。
…僕はいったい、どうしてしまったんだ…?
[緋き群青の世界・4]
「ここが、セルク兄ちゃんが倒れてたとこだよ」
エネルが指さしたところは、青い草原のどこか。
近くには青い岩が点在している。遠くには青い山が見える。
少し視線を上にやれば、赤い空、赤い雲。
その対比が、なんだかとても綺麗に見えた。
「どうだ? なんか思い出したか?」
いつの間にか、記憶喪失者ということにされてしまってる。
「残念ながら、なにも…」
「そっか…」
突如吹いた風が、髪を揺らす。
風見丘に吹く緑風と、やっぱり、違う気がする。
バサッ
目の前を、なにが、横切った…?
「あ、ハスラウカだ」
「やあ、マナレイカの少年。こんなところでどうしたんだい?」
「ちょっとなー」
彼…と言っていいのだろうか。
エネルがハスラウカと呼んだあの生き物は、間違いなく、言葉をしゃべっている。
なのに、人ではない。
腕の代わりに、鳥のような翼。
かぎ爪の付いた足は、人間のそれと比べれば、半分の長さもない。
口がついてるべきところには、大きなクチバシが…。
「そちらの彼は?」
「記憶喪失なんだってさ」
「それは難儀だ。我々に手伝えることがあれば、なんでも言ってくれ」
「うーん…今はわかんないや」
エネルとハスラウカは、ごく普通に会話している。
僕は…目の前の現実を、現実だと言い聞かせるので精一杯だ。
…ここは、異世界。
何が起きても、不思議じゃない。
[緋き群青の世界・5]
「ハスラウカをご存知ない…ですって?」
おばさんは、たいそう驚いていた。
ハスラウカとは個人名ではなく、種族名。
この世界には、おばさんやエネルのような姿形の“マナレイカ”と、マナレイカに鳥を掛け合わせたような姿形の“ハスラウカ”の、二種類の人間がいるのだという。
僕は、この世界においては、マナレイカとして見られているんだろう。
「記憶、戻るといいわね」
戻る記憶なんて、そもそもないけれど。
「どうしたら記憶が戻るんだろうな」
エネルが頭を捻ってる。ごめん、無意味なんだ、それ。
…ともかく。
なんでかは分からないけど、なにはともあれ僕は、この世界に来てしまった。
お母さんも、ルッツァも、長老も、みんないない…燃え尽きた元の世界に、執着はない…。
だったら、覚悟を決めなくちゃいけない。
「すみません、訊いても良いですか」
もっとこの世界のことを知ろう。
「ハスラウカの人たちに会いたいんですけど、どこへ行けば会えますか」
“マナレイカ”として生きていくために。
[緋き群青の世界・6]
断崖絶壁を見上げて、エネルが言った。
「ここが、シャルル・ハスラウカさ」
岩壁には多数の穴が開いていた。
その穴から、ちらほら、ハスラウカが飛び立つ姿が見える。
…一人のハスラウカが、こっちにやって来た。
「おやおや、マナレイカのお二人さん。シャルル・ハスラウカに何のご用で?」
「僕、記憶喪失なんですけど…」
もう記憶喪失ってことにした。なにかと都合が良さそうだし。
「この世界のことさえ、まるで覚えてないんです」
「なんと…それはお可哀想に…」
「マナレイカの人から、いろいろ聞かせてもらいました。なので今度は、ハスラウカの皆さんに、お話を伺いたくて」
「ええ、ええ、もちろん構いませんよ。是非、あなたのお役に立たせて下さい」
掴んで下さい、と、短い足を差し出すハスラウカ。
…それって、つまり…?
「ほら、セルク兄ちゃん」
エネルが急かす。
…ええい、ままだ!
「しっかり掴まってて下さいね」
ぶわっ
青い大地が、遠くなった。
僕たちは今…
「飛んでる…!」
「ヤハハハ! 気持ちいいー!」
もし、この手を放したら…って思うと、素直に笑えない。
「はは、ははは…」
漏れるのは引き攣った笑いだった。
ハスラウカは飛ぶ、飛ぶ、岩壁へ。
岩壁の穴は、住居。シャルル・ハスラウカに、僕たちは…。
[緋き群青の世界・7]
その後、僕たちは、シャルル・ハスラウカで一晩過ごさせてもらうことになった。
ハスラウカの生活を間近で見られる良い機会だ。
「ハスラウカって、みんなスッゲー良いヤツらなんだぜ。おいらたちマナレイカなんかよりも、ずっと!」
エネルは、憧れを込めて、そう語る。
僕も同意見だ。
見ず知らずの僕たちに、こんなにまで親切にしてくれてる。
それに、高潔さが滲み出る優美な外見にも、憧れてしまう。
心が綺麗で、姿も綺麗…。劣等感を覚えるというか、なんというか…。
「いえいえ、もったいないお言葉です。あなた方マナレイカに比べれば我々など…」
町長を名乗るハスラウカが謙遜する。社交辞令のような嫌らしさは感じない。
「なんでさー! ハスラウカって空飛べるし! おいらたちマナレイカよりずっと凄ぇよ!」
「確かにあなた方は空を飛べないかもしれない。しかし、その二本の腕で、どれほど優れた道具を創れるか」
マナレイカのエネルは主張する。
マナレイカは強欲な上に、空を飛ぶことも出来ないから、優しさと翼を備えたハスラウカに到底及ばない、と。
ハスラウカは主張する。
ハスラウカは向上心が乏しいし、何かを創ることも苦手だから、賢く器用なマナレイカとは比べものにもならない、と。
どちらも自身の種族を貶める発言の応酬で、一向に主張を譲るつもりがない。
…そろそろ止めた方が良いのかな。
「まぁもっとも、明日には」
「こんな体とは、おさらばできるんだけどな」
ハスラウカとエネルが、口を揃えて言った。
…明日には…おさらば…?
…“体”と…?
[緋き群青の世界・8]
赤い空は、すっかり黒く染まっていた。
岩壁の住居穴からは、藍色に染まった大地を一望できる。
この世界の夜だ。
「ねえ、エネル」
「なんだい、セルク兄ちゃん」
どちらが空か、見分けが付かない地平線を、二人で座って眺めつつ。
「明日、何があるの?」
“体とおさらば”…気になって仕方ないから。
「そうなんだよ!! スッゲーのがあるんだよ!!」
ずいっ、と、顔を近づけて、目を輝かせながら。
エネルは、本当に嬉しそうに、明日のことを教えてくれた。
明日は、五十年に一度起こる、皆既日食の日。
その時に、とある儀式をすると、マナレイカはハスラウカに、ハスラウカはマナレイカになれると言う。
どちらも、自分の種族に執着はない。マナレイカはハスラウカに、ハスラウカはマナレイカになりたがっている。
だからこの日は、多くの人たちが儀式を行う。
理想の種族に、なるために。
「おいら、ハスラウカになりたい」
真剣な眼差しだった。
「セルク兄ちゃんはどうだ? ハスラウカ、なりたいか?」
「…そうだなー…」
何の因果か、この異世界に来てしまった。
まだ気持ちの整理は付かないけど…
新しい世界と共に、新しい姿になるのは、悪くないかもしれない。
「なってもいいかも…」
「ああ、良いと思うぞ!」
エネルはニカッと笑った。
「ヤハハハ! セルク兄ちゃんもハスラウカになるのかぁ! お揃いだな!」
「…うん、そうだね」
なると決めたわけじゃないんだけど…
…エネルの笑顔を見ていると、ならなきゃいけないように思えてくる。
…いや、大事な弟分だ。
この笑顔のために、なろう。
気高き、空飛ぶ種族、ハスラウカに…。
「じゃあ、これ。やるよ」
渡されたのは、正方形の布きれ。
「これ、何?」
「ハンカチ。儀式に使うんだってさ」
どうやって使うのか見当も付かないけど…。きっと大事な物なんだろう。
「ありがとう。…でも、エネルも必要なんじゃない?」
「ああ、おいらはいいよ。耐えられそうだから」
…“耐えられそう”?
…何に?
月の色は、黄色だった。
[緋き群青の世界・9]
翌日。
よく晴れた赤空に、赤い太陽が輝いている。
運命の刻限を目前にして、マナレイカもハスラウカも、落ち着き無く。
それにしても…こんなに一杯、種族を変えたい人がいるなんて…。
空を覆うような数のハスラウカは、一体、何人?
大地を埋め尽くすような数のマナレイカも、一体、何人?
ここにいる全員が儀式をするわけじゃないそうだ。
エネルのお母さんも、エネルを見守りに、この場に来てるし。
「私みたいな年にもなると、儀式は乗り越えられないからねぇ…」
おばさんは残念そうに言う。
若い頃だったら、おばさんもハスラウカになりたかった、ということだろうか。
いや、それよりも、若くないと乗り越えられない儀式って…なんだろう。
周囲には、斧を持ったマナレイカが大勢居た。
…妙に、血生臭さを感じる…。
それに比べ、空のハスラウカはなにも持っていない。そもそも腕がないから、何も持ちようが無いけど…。
ともかく、異様な光景だった。
「…始まるッ!」
エネルが叫んだ。
周りからもざわめきが起こる。
太陽が、隠れ始めたから。
「いよいよだ…」
みんな、空を見ていた。
祈るように、待ちわびるように。
世界が、暗闇に閉ざされた。
儀式は、始まった。
[緋き群青の世界・10]
突然、雨が降り出した。
嫌に温かい雨粒が、頬を濡らした。
赤い空からは、赤い雨が降るらしい。
僕は、たった今起きたことを、そう解釈した。
…嘘だ。本当はわかってる。
ただ、認めたくないだけ…。
ハスラウカが、落ちていく。
翼を引きちぎられ、止め処なく…。
翼を引きちぎっていたのは、ハスラウカだった。
雨は、血の雨。
赤い空から零れ落ちるように、それは降り注いだ。
マナレイカが、うめき声を上げている。
あちらこちらで、半分ほどになった足を抱えて。
足を切り落としていたのは、マナレイカだった。
土は、血の泥濘。
青い大地から湧き出すように、それは走り回った。
降る赤、湧く赤、止め処なく。
世界が真っ赤に染まってく。
…どうして?
「こうすれば、なれるんだ…。ハスラウカに」
エネルが、近付いてくる。
斧を持って、僕に向かって…。
「だから、ほら」
エネルの足は、まだ半分じゃない。
「おいらの足、これで」
…“まだ”。
「切り落としてよ」
[緋き群青の世界・11]
それはまるで、夢の中の出来事だった。
「ねえ、早く」
赤と青の世界が、赤で塗りつぶされていく。
ハスラウカのクチバシは、翼を引きちぎって。
マナレイカの斧は、足を切り落として。
赤と青の世界は、赤で塗りつぶされていく。
「…できないよ」
「ねえ、早く」
「できないよッ!!」
兄と慕ってくれる弟がいる。
たとえ血が繋がっていなくても。
それを…その弟の足を…誰がッ!
「仕方ないわね」
おばさんが、エネルから斧を取り上げた。
…躊躇いなく、弧を描き…
「ぁッ…ぁあああ…ッッ!」
エネルの足も、半分になった。
「あ…ありがと、ママ」
「ほら、ハンカチを噛んで。痛いでしょう?」
「ハンカチなら、セルク、兄ちゃんに、あげた、よ」
「あら、セルク君も儀式を?」
「うん、そう、だよ」
おばさんが、こっちを向く。
血濡れの斧が、鈍く光った。
「歯を食いしばって。ハンカチを噛めば、だいぶマシって話よ?」
こんな世界が、存在するのか。
こんな世界に、僕はいるのか。
「…嫌です」
「どうして?」
「…間違ってる…!」
「セルク、兄ちゃん、ハスラウカに、なりた、くないの?」
「そういう問題じゃない…ッ!」
「おいら、嬉し、いぞ…ハスラウカに、なれ、るんだもんな、ヤハ、ハハハハ…」
「足を、切ってもか!?」
「そう、だ」
誰もがみんな、狂っていた。
…いや、狂ってるのは、僕一人…?
もう、なにもわからない。
わかりたくもない…。
真っ赤な世界。
暗い闇に、塗りつぶされて。
[評議世界・1 side.B]
「評議を始めよう」
虚無に声が響いた。
有り得ない?
いいや、有り得ない。
ここは評議世界。
あらゆる下位概念は、評議の前に無力だ。
「対象世界は」
夢見る旅人が歩んだ軌跡。
「緋き群青の世界」
鳥人は人に憧れ、人は鳥人に憧れる。
鳥人は翼を引き千切り、人は足を切り落とす。
緋色の空から赤が零れ落ち、群青の大地から赤が溢れ出て、世界は赤く染まった。
人ならざる者。人たり得ぬ者。
己が存在を否定するモノたちの世界に、存在意義は…。
「消去」
そして、その通りになった。