私の両親は物置部屋、秘書の両親は主賓席――そんな婚約者との結婚をやめました
私が蒼海市の桐生家に嫁ぐと決まってから、両親は早々に式用の服を揃えた。母は披露宴のマナーまで調べ、父を相手に何度も確認していた。
ところが空港に着き、迎えの車に乗ったところで、桐生家のスタッフから携帯電話を預けてほしいと言われた。重要な招待客が多いため、別邸での受付が済むまでは一時的に預かる決まりらしい。
招待客を泊める別邸に着き、玄関を入ったところで足が止まった。
両親のために用意されていたはずの席に、美晴の両親が座っていた。
二人は一か月も前から蒼海市に呼ばれていたらしく、桐生家の親族と楽しそうに写真を撮っていた。手には当然のようにスマホがある。
母がそっとスカートの裾をつまんだ。
「美緒。私たちは、どこに座ればいいの?」
広間の向こうへ目をやると、恭介が美晴のドレスの裾を直していた。
そのまま廊下の奥へ行き、御堂司に電話をかけた。
「司。私、明日の三時に結婚する」
二秒ほどして、司が答えた。
「このタイミングで電話してくるってことは、何かあった?」
ガラス扉の向こうにいる二人を見ながら答えた。
「花嫁をさらいに来て。ここから連れ出してほしい」
司が小さく笑った。
「住所送って。三時までには着く」
「遅れないで」
1
電話を切った直後、美晴がワイングラスを手に近づいてきた。
彼女は五年前から恭介のそばで働いている。私とも同じだけの付き合いがあり、仕事以外で食事をしたことも、出張先で一緒になったこともある。それでも彼女は、どんな場でも私を「水城さん」と呼んだ。
「ご両親のお部屋なんですが、私の手配漏れです。申し訳ありません。今は別邸の客室もほとんど埋まっていて、近くで空いているのは駅から少し離れたビジネスホテルくらいなんです」
父の手が、スーツケースの持ち手を強く握った。
母はすぐに笑った。
「泊まれるところがあるなら十分よ。二日だけなんだから。結婚式の準備で忙しいでしょうし、私たちのことで予定を変えなくていいから」
近くにいた別邸の責任者を呼び止めた。
「空いている部屋をもう一度確認してもらえますか。両親は遠くから来ていますし、ここに泊まれたほうが便利なので」
責任者は困ったように美晴を見た。
「この数日の宿泊や席順、送迎については、すべて白石さんに一任されています。恭介さまから、変更も白石さんを通すようにと言われておりまして」
美晴がグラスを置いた。
「今から部屋を動かすとなると、送迎や食事の人数も組み直すことになります。私のミスですから、もちろん対応します。ただ、何組かのお客様には移動をお願いすることになるかもしれません」
ちょうどそこへ恭介がやってきた。
事情を聞くと、腕時計に目を落とした。
「美緒。美晴に任せた以上、まずは今の予定で進めさせてやってくれないか。これだけ大きな行事を一人で取り仕切るのは初めてなんだ」
「今日、両親が着いたばかりなの。二人をこの別邸に泊めたいだけよ」
恭介の眉間にしわが寄った。
「言いたいことはわかる。でも、もう大勢が泊まってる。今から動かせば、全部組み直しになるだろ」
少し間を置き、こちらを見た。
「美晴が関わると、いつも必要以上に反応するよな」
桐生家の食事では、美晴の苦手なものがきちんと把握されている。
大切な取引先と会う時も、恭介はよく彼女を連れていった。初めて私を桐生家の親族に紹介した時でさえ、美晴は一緒だった。
そして今、美晴の両親は一か月も前からこの別邸に泊まっている。
それなのに、今日着いたばかりの私の両親には、駅から離れたホテルへ移ってほしいという。
「今日中に部屋を用意して」
美晴が小さく息を吸った。
「わかりました。私が組み直します。移動をお願いするお客様には、私から説明します」
恭介がこちらへ向き直った。
「もうやり直すって言ってるだろ。美緒だって新人の頃は失敗したはずだ」
少し声を落とした。
「その時、やり直す機会が欲しいって思わなかったか?」
そこまで聞いて、口を閉じた。
私は栞坂町から蒼海大学へ進み、卒業後は桐生グループ傘下の子会社から社会人生活を始めた。失敗した資料は自分で残って直したし、取引先の都合が変われば、一から準備し直して足を運んだ。
その後、本社へ異動すると、仕事でも恭介と顔を合わせる機会が増えた。
父のスーツケースを受け取った。
恭介は美晴の胸元についていた紫色のコサージュを直した。
彼のネクタイも同じ色だった。
「大事な取引先が何人か着いてる。先に挨拶しておこう。部屋のことはあとで調整する」
美晴がうなずき、隣に並んだ。
二人の背中に声をかけた。
「恭介」
振り返った。
「宿泊も席順も式の進行も、全部美晴に任せてるんでしょう? だったら明日は、花嫁まで任せてみたら?」
表情が一瞬で硬くなった。
「そういう冗談はやめろ」
スーツケースを引き寄せた。
「冗談よ」
一度、本気で別れを切り出した時も、彼は同じ顔をした。
あの日、恭介は私のマンションの下で何時間も待っていた。最後には私を抱きしめ、美晴との距離には気をつけると言った。
私が一番大切だとも言った。
私たちはよりを戻した。
翌日から、美晴はまたいつも通り彼のそばで働いていた。
その美晴が追いかけてきた。
「私の両親がここに泊まっていることが気になるなら、今からホテルへ移ってもらいます。一か月も滞在していますし、場所が変わっても困りませんから」
恭介がすぐに止めた。
「今さら移動させる必要ないだろ。裏に昔の物置部屋が残ってる。二部屋片づけてもらえばいい」
思わず顔を上げた。
けれど母はもう、別邸の責任者から鍵を受け取っていた。
「部屋があるだけで十分よ。私たちは結婚式に来ただけなんだから、どこだって同じ」
父の腕を軽く引いた。
「行きましょう。先に荷物を置いてしまいましょう」
母のスーツケースに手を伸ばすと、そっと押し戻された。
「あなたは明日、花嫁になるのよ。これくらい自分たちでやるから」
預けていた携帯電話が両親に返され、二人は責任者の後について裏手へ消えていった。
恭介がその背中を見送った。
「ほら。美緒のご両親も納得してるだろ。何でも深刻に考えすぎなんだよ」
振り返って恭介を見た。
「もう私と美晴を比べないで」
恭介が目を見開いた。
「比べてるわけじゃない。これからだって顔を合わせるんだし、うまくやってほしいだけだ。ちょっとしたことで毎回ぶつかってたら、お互い疲れるだろ」
「美晴はあなたの秘書。私は婚約者よ。同じところに並べて考える必要がある?」
私の目元に気づいたのか、恭介が頬に触れようとした。顔をそらすと、その手は宙で止まり、ゆっくり下りた。
「明日が式なんだ。今日はもう、喧嘩するのはやめよう」
昼食が始まった。
桐生家が来客用に使う食器は、揃いの有田焼だった。長いテーブルには同じ器が並んでいる。
両親の席だけ、白い量産品の食器に替えられていた。
母は気づいたようだったが、カップを少し内側へ寄せただけだった。
美晴がこちらへ来た。
「高価な器だと、ご両親もかえって気を遣うかと思って。普段使いのものに替えておきました。そのほうが気楽に召し上がれるでしょう?」
箸を置いた。
「みんなと同じものに替えて」
笑顔がわずかに固まった。
「はい。すぐ持ってきてもらいます」
スタッフを呼ぼうとしたところで、恭介に手首をつかまれた。
「食事くらい落ち着いてしよう。今ここで厨房を呼びつけたら、テーブル中の人がこっちを見る。あとで俺から替えさせるから」
「見られたっていいわ」
「美緒」
その時、父が母の皿に魚を取り分けた。
「先に食べよう。冷めるぞ」
母が小さくうなずいた。
蒼海市へ来る前、二人は何度も桐生家のしきたりを聞いてきた。父は普段気に入って着ているジャケットをやめ、母は自分の訛りまで気にしていた。
席に戻った。
昼食が終わるまで、ワイングラスには一度も手を伸ばさなかった。
夜になっても、恭介は美晴や彼女の両親と翌日の来客について確認していた。
寝る頃になってようやく部屋へ戻り、後ろから私を抱きしめた。
「昼のことはもう終わりにしよう。美晴は仕事で失敗すると、ずっと引きずるタイプなんだ。俺が少し庇ったのも、明日の式をちゃんと終わらせたかっただけだよ」
暗い天井を見上げた。
「ずっと、美晴が傷つかないか気にしてたのね」
腕の力がわずかに止まった。
身体を返した。
「空港に着いてから、うちの両親はずっと気を遣ってた。母が『私たちはどこに座ればいいの』って聞いた時、あなたは美晴と一緒にいた」
一度息を継いだ。
「食器のことだって、最初にしたのは美晴のフォローだった。今こうして戻ってきて最初に話すことも、私に彼女を理解してほしいって話」
恭介が眉間を押さえた。
「宿泊は手配ミスだし、食器だって配慮の方向を間違えただけだ。そこは俺も直させる。でも今の美緒は、美晴が何かするたびに俺が敵に回ったみたいに受け取ってる」
疲れたように息を吐いた。
「このままだと、俺たち二人とも苦しくなる」
「前は、私も同じことを自分に言ってた。あなたは彼女の能力を評価してるだけ。育てたいだけ。部下として大事にしてるだけだって」
部屋に沈黙が落ちた。
恭介が口を開きかけた時、枕元のスマホが鳴った。
父だった。
「美緒! 母さんが転んだ! 裏の廊下が真っ暗で、足を踏み外したんだ。早く来てくれ!」
ベッドから飛び出した。
裏手の廊下は、本当に何も見えないほど暗かった。
父が床にしゃがみ、母の身体を支えている。足首はすでに腫れ始めていた。
少し遅れて美晴も駆けつけた。
廊下を見るなり顔色を変えた。
「ここ、数日前まで電気設備の点検をしていたんです。今日、夜間照明を戻す予定だったのに、式の確認に追われて私が手配を落として……。すぐに人を呼びます。申し訳ありません」
気づいた時には、手が動いていた。
乾いた音が廊下に響く。
美晴が頬を押さえた。
そこへ恭介が来た。
母のほうを見るより先に、美晴の赤くなった頬へ目を向けた。
「美緒、何してるんだ!」
強く押され、身体が壁にぶつかった。肘がざらついた壁面をこすり、血がにじむ。
恭介は美晴を支え、頬を確認していた。
母を起こした。
「お父さん、車呼んで。病院に行く」
蒼海総合病院で検査を受けると、母はひどい捻挫と打撲だった。骨には異常がなかったものの、しばらく足を休ませるよう言われた。
病室では、けがをした母のほうが父をなだめていた。
ベッド脇に座り、母の服を整えた。
三十分ほどして、恭介が来た。
まず母に具合を尋ね、それから私のそばへ来た。
「お母さんも休まないといけないし、今夜のことをこれ以上大きくしたくない。美緒が焦ってたのはわかってる」
声を少し落とした。
「美晴を叩いたことは、式が終わってから話そう」
顔を上げた。
恭介はベッドへ目をやった。
「前に、お母さんは持病もあるって言ってただろ。せっかく蒼海市まで来てるんだ。明日、医師を手配して、一度きちんと診てもらおう」
「うん。ありがとう」
それを聞くと、恭介は美晴を病室へ呼んだ。
左の頬にはまだ赤い跡が残っている。
「それと、さっきのこと。停電の件は美晴の責任として対応させる。でも、叩いたことは別だ。ひと言、謝っておこう」
ゆっくり立ち上がった。
「先生の話、聞いたでしょう。あんな真っ暗な廊下で転んで、この程度で済んだのは運がよかっただけよ」
「わかってる。設備担当にも確認するし、美晴も自分のミスは認めてる。ただ、頬はまだ腫れてるんだから――」
「美晴は、誰に謝ったの?」
恭介の言葉が止まった。
ベッドを見た。
「けがをして寝てるのは母よ。あなたが病室に来てからずっと話してるのは、美晴が叩かれたことばかり」
美晴が何か言おうとした。
手を上げて制した。
「今日はもういい。母を休ませたいの」
病室のドアを開ける。
「明日は式でしょう。二人とも戻ったほうがいいよ」
恭介はしばらくこちらを見つめた。
「美緒。どうしたんだよ」
「疲れたの」
ドアを開けたまま待った。
やがて二人は病室を出ていった。
静かになると、母がこちらを見た。
「美緒。あなたは昔から、自分で決めたことは自分でやってきたでしょう」
少し迷うように言葉を切った。
「これから先も、こんなふうに暮らしていきたい?」
布団の端を整えた。
「もう決めた」
母が私の手を握った。
その手を軽く叩いた。
「明日の三時、式は予定通り始めるから」
司と約束していた。
2
翌朝、別邸では式の最終確認が進んでいた。
病院から戻ると、美晴が若い招待客たちに囲まれていた。
彼女はスマホを掲げた。
「みんな、社長が昔どうやって水城さんを口説いたのか気になってたでしょう? 少しだけ残ってるんです」
足が止まった。
次の瞬間、スマホから自分の声が流れた。
昔、恭介が私を追いかけていた頃の動画だった。
短い動画だったけれど、他人に見せていいようなものではなかった。
客間が一瞬静まり、誰かが気まずそうに笑った。
早足で近づき、美晴の手からスマホを取った。
彼女の笑みが固まった。
「ごめんなさい。昔から仲がよかったって、みんなに見せたかっただけで……。結婚式前の思い出話くらいに考えてました」
「誰からもらったの?」
一拍置いた。
「昔、社長から」
そこへ恭介が入ってきた。
空気を察したのか、すぐこちらへ来た。
「何があった?」
動画を表示した画面を見せた。
「どうしてこれが、美晴のスマホに入ってるの?」
恭介の表情がわずかに変わった。
「かなり前のものだよ。あの頃、俺はまともに誰かと付き合ったことがなくて、どう接したらいいのかわからなかった」
一度視線をそらした。
「美晴にはよく相談してた。メッセージや動画を見せたこともあったと思う」
そこで言葉を切った。
「これはさすがに駄目だ。美緒のものは全部消して。あとで俺からも話す」
「私たちのプライベートな動画まで、相談材料だったの?」
恭介は答えなかった。
美晴が近づいてきた。
「私が軽く考えすぎました。スマホは見てもらって構いません。気になるものがあれば、その場で全部消します」
端末をテーブルに戻した。
「二人でやって」
背を向けると、恭介が手を取った。
「もう一つある。今日、人前式の進行を頼んでいた人が急に来られなくなったんだ」
少し迷ってから続けた。
「美晴に司会と進行を任せようと思ってる。式の流れを一番把握してるから」
初めてのデートにも美晴はいた。
初めて桐生家の親族に挨拶した時も、彼女は隣にいた。
今度は、誓いの言葉まで彼女が読むらしい。
「いいよ。ここまでずっと彼女が進めてきたんだし、そのまま任せればいい」
恭介の表情が緩んだ。
「今日は昨日のことを考えるな。式が終わったら、ご両親と一緒に食事しよう」
額に軽く口づけた。
「午後は何も気にしなくていい。式のことだけ考えて」
彼が離れてから、司にメッセージを送った。
【三時開始】
数秒後、返事が来た。
【もう向かってる】
午後三時。
予定通り、人前式が始まった。
美晴はフォーマルなドレス姿で司会の位置に立ち、進行表を確認していた。時折、恭介と顔を寄せて短く言葉を交わしていた。
二人の呼吸は、仕事の時と同じようによく合っていた。
指輪交換の時間になり、恭介がケースを開いた。
十カラットのダイヤモンドだった。
手を差し出そうとしたところで、美晴がマイクを持った。
「やっぱり、これにしたんですね。前に社長と出張した時、お店の前を通って『きれい』って言っただけなのに。覚えていらしたんですね」
会場から柔らかな笑いが起きた。
恭介も笑ってこちらを見た。
「俺、ジュエリーはよくわからないから。美晴が、こういうのは女性なら好きだろうって言ってたんだ」
指輪を持ち上げた。
「美緒には似合うと思う」
ダイヤを見下ろした。
一年前、プロポーズされた時に伝えた。
大きな石は重いし、仕事中にも邪魔になる。
シンプルなゴールドのリングが好きだと。
あの時、恭介は「覚えておく」と笑った。
手を差し出す。
指輪はぴったりと薬指に収まり、式はそのまま進んだ。
誓いの前に、恭介がマイクを受け取った。
「少しだけ、仕事のことでも報告があります。来月から美晴を正式に社長付き秘書に昇格させます。外部対応と、桐生家の行事も一部任せる予定です」
拍手が起きた。
恭介がこちらを向いた。
「美緒も結婚したら、今までみたいに無理して働かなくていい。グループ財団の活動や、桐生家として出席する行事も増えてくる」
穏やかな口調だった。
「長期出張や接待が必要な案件は、少しずつ美晴に引き継げばいい。自分の時間も作れるだろ?」
そう言って笑った。
ブーケを握った。
子会社に入ったばかりの頃は、始発に近い電車で会社へ通った。
本社へ移ってからは自分で案件を持ち、一年の半分近くを出張先で過ごしたこともある。
胃から出血した時は、病院で点滴を受け、翌日には取引先へ向かった。その日の夜、恭介とは電話で話していた。
結婚しても、好きなら仕事を続ければいい。
以前はそう言っていた。
客席を見る。
父の席の横には杖が立てかけてある。
母の足にはまだ固定具が巻かれていて、こちらを見つめていた。
美晴が誓いの言葉を手に取った。
まず恭介を見る。
「これから先、順調な時も、苦しい時も、隣にいる妻を大切にし、ともに歩んでいくことを誓いますか?」
「誓います」
迷いのない返事だった。
次に、美晴がこちらへ向き直った。
「水城美緒さん。桐生恭介さんの妻となり、これからの人生をともに歩むことを誓いますか?」
会場が静まった。
恭介を見つめる。
彼は答えを待っていた。
数秒が過ぎると、その笑みが少しずつ消えていった。
「美緒?」
その瞬間、チャペルの扉が開いた。
後方から司の声が届いた。
「その返事、ちょっと待ってもらえる?」
3
椅子が動く音が重なり、招待客たちが入口を振り返った。
司は濃い色のスーツを着て、大きな赤いバラの花束を抱えていた。
驚いた視線を浴びながら、まっすぐ前まで歩いてくる。
壁の時計を確認した。
「三時十二分。まだ間に合ったよな」
「十二分遅刻」
「渋滞してたんだよ。『誓います』の前に着いたんだから、大目に見て」
花束を渡された。
美晴がマイクを握り直し、一歩前へ出た。
「御堂さん。今日は水城さんと桐生さんの結婚式です。これだけ大勢の方がいる前で突然入ってきたら、皆さんがどう思うか……」
一度声を整えた。
「話があるなら、せめて式が終わってからにしていただけませんか?」
司が彼女を見た。
「式を最後までやらせてから話せって? それじゃ遅いだろ」
それからこちらへ目を向けた。
「俺はその前に、こいつを連れて帰るために京央市から来たんだ」
恭介の笑顔が消えた。
そばへ来て、手をつかまれる。
「美緒。いつからこんな話をしてたのかは知らない。でも今は招待客もいる」
指先に力が入った。
「ひとまず式を終わらせよう。話はあとで、二人ですればいい」
つかまれた手を見た。
「昨日、私が司に電話したの」
力がさらに強くなった。
顔を上げる。
「ここまで来たら、また気持ちが揺らぐかもしれないと思った。だから先に頼んでおいたの」
ゆっくり手を引き抜いた。
「私が迷ったら、連れていってって」
会場が静まり返った。
「この結婚式、ここで終わりにする」
恭介がこちらを見つめた。
「本当にやめるつもりなのか? この二日間のことだけで?」
薬指の指輪に目を落とした。
「この二日間で、決めるのが早くなっただけ」
恭介の顔色が変わった。
「美緒。今は一度、落ち着こう。昨日からいろいろありすぎた」
私は何も答えなかった。
「指輪だって、仕事のことだって、嫌ならやり直せばいい」
声が少し低くなった。
「だから今日は帰らないでくれ。招待客を帰してから、二人でもう一度話そう」
司が横で聞いていた。
「さっき美緒が式をやめるって言った時は、『先に式を終わらせろ』」
恭介を見る。
「今、帰るって言ったら『残って話そう』か」
「これは俺と美緒の問題だ」
「だから俺は、こいつが自分で言うまで黙ってたんだよ」
司が横へ退いた。
「もう本人が言った。俺は連れて帰るだけ」
ウェディングドレスの裾を持ち上げた。
「美緒」
恭介が一歩近づいた。
足を止める。
目が赤くなっていた。
「五年だぞ。本当に、これで終わらせるのか?」
腕の中のバラを握った。
「この五年間、何度も同じ話をしたよ」
恭介の唇がわずかに動いた。
司のほうへ歩いた。
会場が騒がしくなった。
恭介はすぐにスタッフへ指示し、メディア関係者と大半の招待客には退出してもらった。
扉が閉まると、残ったのはごく近しい人だけだった。
彼がもう一度、私の前に立った。
「今日はここにいてくれ。結婚をやめたいなら、誓いの言葉は保留でもいい」
必死に声を抑えていた。
「でも今、御堂と一緒に出ていったら、外で何を言われる。グループにも影響が出る」
司が小さく笑った。
「まだ会社の話してるの?」
「黙れ」
恭介が睨みつけた。
「俺は美緒の婚約者だ。お前は何の立場でここにいる?」
司がこちらを見た。
「それは本人に聞いたほうがいいんじゃない?」
花束を抱え直した。
「私が呼んだ人よ。迎えに来てもらったの」
恭介の表情が固まった。
横を通り過ぎる。
司も後ろからついてきた。
チャペルの扉を開くと、廊下にいた警備スタッフが進路を塞いだ。
振り返ると、恭介が後ろから来ていた。
「今は部屋で休んでくれ。招待客を帰したら、俺が行く。そこで二人で話そう」
「通してください」
「美緒。今日はもう十分騒ぎになってる。まず落ち着かせたいんだ」
「帰るって言ってるの」
恭介は数秒黙り、その後、警備の人間へ視線を送った。
数分後、客室へ戻されていた。
扉の外から鍵がかかる音がした。
ノブを二度回したが、開かなかった。
廊下には人がいるらしく、時折足音が聞こえた。
式が始まる前、司には別邸の住所を送っていた。式の後に急に連絡が途絶えたら、警察へ連絡してほしいとも伝えてある。
スマホを取り出した。
【鍵をかけられた。警察呼んで】
そのまま自分でも110番した。
外へ出たいと伝えたのに客室へ戻され、外から施錠されたことを説明する。別邸の住所を伝えると、電話口の警察官から到着するまで室内で待つよう言われた。
ベッドの端に座り、廊下を行き来する足音を聞いていた。
やがて遠くからサイレンが近づき、階下も騒がしくなった。
空港へ向かう車の中で、司からその後の話を聞いた。
私が客室へ戻されたあと、恭介は司を客間に引き留め、いつから私と連絡を取っていたのか問い詰めたらしい。
「子供の頃から知ってるって答えたよ。美緒が俺を呼んだのは、もう別れるって決めてたからだとも言った」
その途中で美晴が入ってきたため、司は例の動画についても聞いたという。
「白石さんのスマホ、まだいろいろ残ってたみたいだぞ。メッセージとか、写真とか、昔の動画とか」
黙って聞いていると、司は続けた。
「そこで恭介もスマホを確認した。それで俺が言ったんだよ。今日だってそうだろって」
窓の外へ目を向けた。
「美緒は帰るって言った。それなのに、あんたは『落ち着け』って部屋へ戻した」
少し間を置いた。
「部屋のことも、食器のことも同じだ。美緒が何か言うたび、先に美晴さんの事情を説明する。それで、まだ理由がわからないのかって」
その直後に警察のサイレンが聞こえ、話は終わったらしい。
警察が到着し、スタッフが客室の鍵を開けた。
私は、何度も外へ出たいと伝えたこと、その上で外から施錠されたことを説明した。
スタッフも、恭介の指示で私を部屋から出さなかったと認めた。
関係者から事情を聞いたあと、私たちは警察署へ移動し、改めて話をした。
全部終わった頃には、もう深夜だった。
私と司はそのまま空港へ向かった。
飛行機が離陸すると、蒼海市の明かりが少しずつ遠ざかっていった。
十九歳の時、私はスーツケース一つでこの街へ来た。
九年後。
同じスーツケースを足元に置き、目を閉じた。
4
蒼海市から京央市までは、飛行機で三時間ほどかかった。
離陸してしばらくすると、そのまま眠ってしまった。
夢の中で、十九歳の頃に戻っていた。
栞坂町から蒼海大学へ進学し、初めて蒼海市の空港へ降りた日。
ロビーのテレビでは経済ニュースが流れていて、画面に恭介が映っていた。
当時まだ二十代前半だったのに、すでに一族の会社経営に関わり始めていた。
スーツケースを引いてテレビの下を通り過ぎた。その頃、気にしていたのは大学の寮までどうやって行くか、そして四年後、この街で仕事を見つけられるかということだけだった。
四年生の時、大学から推薦された学生代表として、企業との交流会に参加した。
そこで初めて、恭介本人に会った。
彼の周りにはずっと人がいて、名刺交換が途切れなかった。一方の私は、飲み慣れない酒を手に、企業の採用担当らしい人を探していた。
卒業が近く、仕事が必要だった。
話を聞いてくれそうな相手を見つければ、自分から声をかけた。
結局、先に近づいてきたのは恭介だった。
付き合い始めてから、彼はあの日のことを何度か話した。
「周りは似たような話ばっかりしてたのに、美緒だけずっと会社名と名札を見てたんだよ」
思い出し笑いを浮かべた。
「どれだけ就職したいんだ、この子って思って。気になって声かけた」
その交流会のあと、桐生グループ傘下の会社から内定をもらった。
大学の卒業式の日、恭介から告白された。
卒業後、予定通り入社した。
二年の間に子会社から本社へ異動し、恭介との関係も落ち着いていった。
社会人二年目、応募していた海外の大学院から修士課程の合格通知が届いた。
そこから二年間、国外で学んだ。
恭介とは遠距離になった。
修了して日本へ戻ると、同じ年にグループへ入った美晴は、社長室の秘書になっていた。
最初の頃、彼女を高く評価していた。
仕事は早いし、判断も速い。上を目指していることも隠さなかった。
二人で食事をしながら仕事の話をしたこともある。
そんな美晴に、恭介の家族へ正式に挨拶へ行く前日、呼び出された。
コーヒーが運ばれてくると、彼女はすぐ本題に入った。
「一つだけ、自分の口から言っておきたいことがあります。私、恭介さんのことが好きです。ずっと前から」
カップを両手で包んだ。
「二人が付き合ってることも知ってます。それでも、一度くらいは自分で動いてみたいんです」
彼女を見ながら答えた。
「なんとなく気づいてた。それだけを言うために呼んだわけじゃないでしょう?」
美晴は視線を落とした。
「美緒さんが海外にいた二年間、仕事でずっと隣にいたのは私です。社内にも、私と恭介さんのほうが息が合ってるって言う人はいます」
少し間を置いた。
「明日、桐生家へ挨拶に行くんですよね?」
彼女は顔を上げた。
「その時、恭介さんが私も連れていくか、見てみればいいと思います」
翌日、本当に美晴はいた。
恭介は家族に彼女を紹介し、今後は家の行事でも仕事上の補助を頼むことがあるから、先に顔を覚えてもらいたいと説明した。
帰りの車で、理由を聞いた。
「これから家の人間と仕事で関わる機会も増える。今日はみんな揃ってたから、紹介しておいただけだよ」
恭介は前を見たまま続けた。
「昨日、美晴に何か言われたからって、仕事まで同じ話にするなよ」
それから数か月の間に、美晴のことで何度か喧嘩した。
一番ひどい時には、私から別れを切り出した。
恭介はマンションまで追いかけてきた。
翌朝、玄関の前には花と贈り物が並んでいた。
仕事を休んで旅行にも連れていってくれた。
私たちはよりを戻した。
蒼海市へ戻ると、美晴はまた毎日、彼の隣で仕事をしていた。
気にすると、恭介は決まって丁寧に説明した。
「美晴は仕事ができる。今の会社に必要なタイプだし、育てる価値があると思ってる」
それから、少し困ったように笑った。
「俺が特別に面倒見てるのは仕事だけだよ。美緒だって長い付き合いだろ。もう少しわかってやってほしい」
いつからか、美晴の話をする回数は減った。
飛行機が着陸する振動で目を覚ました。
隣では司が仕事のメールを読んでいた。
起きたことに気づくと、会社の資料をスマホに送ってきた。
「京央市で海外事業の担当を探してる会社がある。経歴だけ簡単に伝えたら、一度会いたいって」
司は自分のスマホをしまった。
「俺ができるのは、ここまで。入れるかどうかは美緒次第」
資料を何ページか読む。
「ありがとう。今回は本当に借りができた」
司がこちらを見た。
「じゃあ、そのうち返して。今日はとりあえず寝ろ。仕事のことは明日からでいい」
数日後、その会社の面接を受けた。
ビルを出た頃には夕方になっていて、駅で温かいコーヒーを買った。
翌週、採用の連絡が来た。
5
京央市へ戻ってからも、司との関係は昔と変わらなかった。
高校生の頃、一度だけ真剣に告白されたことがある。
断ると数日は落ち込んでいたが、すぐ元に戻った。
今では本人のほうが笑い話にしている。
「よく考えたら、幼なじみってかなり安全なポジションだよな。恋人なら別れられるけど、子供の頃から知ってる事実は消せないし」
新しい会社にも、すぐ慣れた。
仕事内容は前の会社とよく似ていて、忙しい時は深夜まで働いた。週末に顧客からメールが来ることもある。
それでも、自分の時間をどう使うかは自分で決められた。
出張したい案件には手を挙げた。
やりたい仕事も自分で選んだ。
空いた週末は両親の家へ帰った。
父は蒼海市の話をほとんどしなかった。
母は最初こそ私の顔色をうかがっていたが、数か月もすると以前と同じように「夜更かしするな」「コーヒーを飲みすぎるな」と言うようになった。
一年が過ぎた。
その日、会社のビルを出ると、道路の向こうに恭介が立っていた。
ずいぶん痩せていた。
いつも整っていた髪は少し伸び、顎にはうっすら無精ひげが残っていた。
こちらに気づくと、すぐ近づいてきた。
「美緒。この一年、あの時のことをずっと考えてた。美晴のスマホも見たし、式の前に何があったのかも調べ直した」
恭介は視線を落とした。
「あの時は、どれも大したことじゃないと思ってた。でも今は違う」
黙って聞いた。
「美晴は会社を辞めた。社長室の体制も変えたよ」
まっすぐこちらを見る。
「前に美緒が言ってたことも、あとから一つずつ思い出した」
手首をつかまれた。
「もう一年経った。蒼海市に戻ってこないか」
声が少し震えた。
「結婚式もやり直せる。仕事だって、美緒が好きなように続ければいい」
つかまれた手を見た。
「私が出ていったのは、あの時腹を立ててたからだと思ってた?」
恭介が少し目を見開いた。
「あの数日で、いろんなことが重なっただろ。ご両親のこともあったし、美晴も続けて問題を起こした」
つかむ力が緩んだ。
「だから、時間が必要なんだと思ってた」
彼は息を吐いた。
「もっと早く来ようとも思った。でも電話にも出てくれなかったから、追いかければ余計に嫌われる気がして」
数秒待ってから答えた。
「結婚式の日、蒼海市を出る前にもう決めてたよ」
手を抜いた。
「この一年で仕事も変えたし、京央市での生活も落ち着いた。蒼海市のことを考える時間も、ずいぶん減った」
恭介は動かなかった。
しばらくして、司の名前を出した。
「御堂司のことも調べた。あれからも、二人は友人のままなんだろ?」
一度言いよどんでから、続けた。
「結婚式の日のことも、前もって打ち合わせてたんだよな?」
「うん。あの日は、迎えに来てって私から頼んだ」
恭介が顔を上げた。
「じゃあ……二人がずっと友達なら、俺たちにもまだ――」
「司のことは関係ないよ」
言葉を止めた。
「あの時、私は自分が信頼できる人に迎えを頼んだ。それだけ」
一度息を継いだ。
「その後、司は司の生活に戻った。私も京央市での生活を始めた。私たちの関係とは別の話よ」
恭介の表情が固まった。
時計を確認した。
「もう行かないと。今日は私が娘を迎えに行く日だから」
恭介がその場で固まった。
「娘?」
車の鍵を取り出した。
彼が半歩ついてきた。
「待ってくれ。蒼海市を出て一年だぞ。急に子供がいるって……」
戸惑ったようにこちらを見る。
「俺を諦めさせるために、そんなこと言う必要ないだろ」
足を止めた。
「私が子供のことで嘘をつく人間かどうかくらい、知ってるでしょう」
恭介の足が止まった。
そのまま駐車場へ向かった。
6
保育園に着くと、司がもう門の前にいた。
結菜は私を見つけるなり駆けてきた。
「ママ!」
しゃがんで受け止めた。
「走らないの。昨日も先生に言われたでしょう。廊下と入口はゆっくり歩くって」
結菜が首に抱きついた。
「だってママ遅いんだもん。司おじちゃん、ずっと待ってたよ」
後ろで司が水筒を軽く振った。
「正確には、俺が十五分早く来ただけ。その十五分を全部、美緒の遅刻に加算してる」
結菜が大きくうなずいた。
「だからママ、プリン買って」
手をつないで立ち上がった。
「昨日食べたでしょう?」
結菜が真顔で見上げる。
「昨日は昨日だよ」
司が吹き出した。
「それ言われると、反論しづらいな」
一年前、京央市へ戻って間もない頃、従姉が事故で亡くなった。
三歳の結菜が残された。
従姉が妊娠した頃から、父親とは連絡が途絶えていた。それからも一人で結菜を育てていた。
両親と一緒に必要な書類を揃え、手続きを進めた。
家庭裁判所の許可を得て、私は結菜を養女に迎えた。
初めて結菜を家へ連れてきた日、司は大きな袋を二つ抱えて玄関に立っていた。
子供用の歯ブラシ、絵本、パズル。
靴は三サイズも大きく、来年の冬に着られそうなコートまで入っていた。
結菜と手をつないだまま、袋の中をしばらく見た。
「誰に聞いて買ったの?」
司も自分の袋をのぞいた。
「店員。三歳はすぐ大きくなるって言うから、あとで使えそうなのも一緒に買った」
「だからって来年の冬物まで買う?」
「どうせそのうち着るだろ」
それから、司はしょっちゅう家に顔を出した。
結菜ともすぐ仲良くなり、いつの間にか「司おじちゃん」と呼ぶようになった。
保育園を出て、三人で駐車場へ向かった。
結菜をチャイルドシートに乗せた時、バックミラーの中に一台の車が見えた。
運転席には恭介がいた。
少し離れていて、表情までは見えなかった。
司も視線に気づいた。
「恭介だよな。行こうか?」
結菜のシートベルトを締めた。
「いいよ。見たいなら、見ればいい」
すぐ後部座席から声が飛んできた。
「ママ、プリンは?」
ドアを閉めた。
「先に晩ごはん」
「アイスは?」
助手席に座った司が振り返った。
「さっきプリンしか言ってなかっただろ。なんで一個増えてるんだよ」
結菜が小さな通園バッグを抱きしめた。
「今、食べたくなったから」
「追加申請は審査が必要です」
結菜がすぐこちらを見た。
「ママ、いいでしょ?」
エンジンをかけた。
「ごはん食べてから考えます」
後ろでは、まだ結菜と司が交渉を続けていた。
駐車スペースを出る時、もう一度だけバックミラーを見た。
恭介の車は、まだ同じ場所に停まっていた。
前方の信号が青に変わった。
視線を前へ戻し、そのまま車の流れに入った。




