戦争小説 真っ赤な空、真っ赤な川、東京大空襲
僕は小学一年生だった。
名前は松田大輔。
七歳。
あの頃の僕にとって、世界で一番怖いものは、戦争でも、アメリカの飛行機でもなかった。
父ちゃんだった。
父ちゃんの名前は、松田虎男、大正生まれ。
名前の通り、虎みたいな男だった。
いや、虎というより熊だった。
腕は丸太のように太く、胸板は分厚い。
自動車整備工場で働く父ちゃんの手は、いつも油で真っ黒だった。
大きなスパナを片手で振り回し、重いタイヤを軽々と持ち上げる。
僕は本気で、
「父ちゃんは日本で一番強い男なんじゃないか」
と思っていた。
だけど。
酒が入ると、その強さは怖さに変わった。
夜。
玄関が乱暴に開く。
「帰ったぞ!」
その声だけで、家の空気が変わった。
母ちゃん――規子は黙る。
姉ちゃんたちも黙る。
僕も布団の中で息を殺す。
父ちゃんは酒に酔うと怒鳴った。
ちゃぶ台を叩いた。
ときには女の人に手を上げることもあった。
母ちゃんが父ちゃんの前に立つ。
「虎男さん、もうやめて」
次の瞬間。
大きな腕が動く。
僕は目を閉じた。
怖かった。
本当に怖かった。
戦争よりも。
空襲警報よりも。
父ちゃんの足音の方が怖かった。
■■■
僕には、ずっと年上の兄や姉がいた。
長男の肇兄ちゃん。
次男の祐二兄ちゃん。
芳江姉ちゃん。
良子姉ちゃん。
美津子姉ちゃん。
そして末っ子が僕だった。
肇兄ちゃんは、もういない。
二十歳の時、バイク事故で死んだ。
家の柱には、肇兄ちゃんの写真が飾られていた。
笑っている写真だった。
僕は兄ちゃんのことをほとんど覚えていない。
それでも父ちゃんは、酒を飲むと、ときどき写真の前に座った。
何も言わない。
ただ長い時間、写真を見ていた。
そして小さく、
「肇……」
と呟いた。
そんな時だけ、熊みたいな父ちゃんが、小さく見えた。
■■■
母ちゃんは軍需工場で働いていた。
毎朝まだ暗いうちに家を出る。
帰ってくる頃には、顔が煤で汚れていた。
「母ちゃん、何作ってんの?」
僕が聞くと、母ちゃんは笑った。
「国を守るものよ」
その意味はわからなかった。
ただ、母ちゃんの手が日に日に荒れていくことだけはわかった。
近所には律子という女の子がいた。
僕より少し年上だった。
空襲警報が鳴るたび、僕の手を握ってくれた。
「大輔、怖い?」
「怖くない」
僕は必ずそう答えた。
本当は怖かった。
だから僕も、律子の手を強く握った。
■■■
三月九日の夜。
風が強かった。
父ちゃんは珍しく酒を飲んでいなかった。
工場から帰ってくると、空を見上げていた。
「嫌な風だな」
その一言を、僕は今でも覚えている。
夜が更けた。
僕は布団に入った。
そして――
サイレンが鳴った。
ウウウウウウウウ――。
空襲警報。
いつものことだと思った。
何度も聞いた音だった。
けれど、その夜は違った。
やがて空から、
ゴオオオオオオオオ――
という音が聞こえてきた。
一機ではない。
二機でもない。
空そのものが唸っていた。
父ちゃんが外へ飛び出した。
次の瞬間。
空が光った。
ドォォォン!!
家が揺れた。
僕は布団から転げ落ちた。
「大輔!」
母ちゃんが叫ぶ。
さらに、
ドン!
ドン!
ドドドドドドドドン!!
爆弾の雨だった。
いや。
あとで知った。
あれは焼夷弾だった。
空から降ってきたのは、火だった。
屋根に突き刺さり、
道に落ち、
家に落ち、
そして東京を燃やしていった。
「逃げるぞ!」
父ちゃんが叫んだ。
その声は、酒に酔った時とは違った。
僕は母ちゃんの手を握った。
母ちゃんの反対側には律子がいた。
どこではぐれたのか、律子の家族の姿はなかった。
「大輔、律子ちゃんを離すな!」
「うん!」
僕たちは走った。
■■■
町が燃えていた。
見慣れた八百屋が燃えていた。
銭湯が燃えていた。
学校の方向も赤かった。
空は夜なのに真っ赤だった。
火が風に乗って飛んでくる。
人が走る。
泣く。
叫ぶ。
転ぶ。
「川へ行け!」
誰かが叫んだ。
大勢の人間が同じ方向へ走っていた。
僕も走った。
律子の手を握って。
母ちゃんの手を握って。
だけど煙で何も見えない。
息ができない。
目が痛い。
「母ちゃん!」
「大輔! ここよ!」
その時だった。
ゴォォォォッ!!
横の家が炎に包まれた。
熱風が僕を吹き飛ばした。
手が離れた。
「母ちゃん!」
「律子!」
僕は地面に倒れた。
人の足が僕の横を通っていく。
踏まれる。
押される。
泣いても声が出ない。
その時。
巨大な手が僕の襟首を掴んだ。
父ちゃんだった。
「立て!!」
僕を片腕で抱き上げる。
もう片方の腕で律子を抱える。
母ちゃんも後ろから走ってきた。
炎の中。
熊みたいな父ちゃんが走る。
人を押しのけ、
倒れた木材を持ち上げ、
僕たちを前へ進ませる。
「父ちゃん!」
「喋るな! 息を残せ!」
あんなに怖かった父ちゃんの背中が。
その夜だけは。
世界で一番頼もしかった。
■■■
ようやく川へ着いた。
けれど。
そこにも安全な場所なんてなかった。
川岸は、人で埋まっていた。
そして水の中にも。
黒いものが浮かんでいた。
最初、木だと思った。
違った。
人だった。
一人。
二人。
十人。
百人。
数えられないほど。
川一面に人が浮かんでいた。
僕は母ちゃんの着物を掴んだ。
「母ちゃん……」
母ちゃんは僕の顔を胸に押しつけた。
「見るんじゃない」
律子が震えていた。
僕は律子の手を握った。
今度こそ、離さないと思った。
空からまた爆撃機の音が聞こえる。
火の粉が降る。
町が燃える。
水面が赤く光っている。
まるで川そのものが燃えているようだった。
父ちゃんは僕たちの前に立った。
大きな背中で。
飛んでくる火の粉から、僕たちを隠すように。
■■■
どれくらい経ったのかわからない。
永遠みたいな夜だった。
やがて空が少し白くなった。
朝だった。
東京は変わっていた。
家がない。
道がない。
町がない。
煙だけが立っている。
父ちゃんの整備工場も焼けた。
僕たちの家も焼けた。
母ちゃんは立ち尽くしていた。
律子は泣いていた。
父ちゃんは、何も言わなかった。
焼け跡の中に座り込む。
いつもなら怒鳴る男が。
泣きもしない。
ただ、真っ黒になった東京を見ていた。
やがて父ちゃんが言った。
「大輔」
「なに?」
「生きろ」
それだけだった。
■■■
僕は子供だった。
戦争がなぜ始まったのか。
誰が正しくて、誰が間違っているのか。
何もわからなかった。
ただ覚えている。
燃える東京。
爆弾の雨。
川を覆った人々。
母ちゃんの手。
震える律子の手。
そして。
僕を抱えて炎の中を走った、父ちゃんの太い腕。
松田虎男。
酒を飲めば暴れた。
家族を怖がらせた。
どうしようもない男だった。
だから僕は、父ちゃんを立派な人だったとは言えない。
英雄だったとも言えない。
それでも。
昭和二十年三月十日の朝。
焼け野原の東京で。
父ちゃんは確かに僕たちを生かした。
人間というものは、不思議だ。
怖い人間の中にも、優しさがある。
優しい人間の中にも、弱さがある。
戦争は、そんなものまで全部まとめて焼いてしまう。
それから何十年経っても。
三月の夜に強い風が吹くと、
僕は七歳に戻る。
律子の小さな手の感触を思い出す。
母ちゃんの声を思い出す。
そして、炎の向こうを走る、
熊のように大きな父ちゃんの背中を思い出す。
東京が燃えた夜。
僕たちは、生き残った。
ただ、それだけのことが、
あの戦争の時代には、奇跡だった。
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