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戦争小説 真っ赤な空、真っ赤な川、東京大空襲

作者: 虫松
掲載日:2026/08/25

挿絵(By みてみん)

僕は小学一年生だった。


名前は松田大輔。


七歳。


あの頃の僕にとって、世界で一番怖いものは、戦争でも、アメリカの飛行機でもなかった。


父ちゃんだった。


父ちゃんの名前は、松田虎男、大正生まれ。


名前の通り、虎みたいな男だった。


いや、虎というより熊だった。


腕は丸太のように太く、胸板は分厚い。


自動車整備工場で働く父ちゃんの手は、いつも油で真っ黒だった。


大きなスパナを片手で振り回し、重いタイヤを軽々と持ち上げる。


僕は本気で、


「父ちゃんは日本で一番強い男なんじゃないか」


と思っていた。


だけど。


酒が入ると、その強さは怖さに変わった。


夜。


玄関が乱暴に開く。


「帰ったぞ!」


その声だけで、家の空気が変わった。


母ちゃん――規子は黙る。


姉ちゃんたちも黙る。


僕も布団の中で息を殺す。


父ちゃんは酒に酔うと怒鳴った。


ちゃぶ台を叩いた。


ときには女の人に手を上げることもあった。


母ちゃんが父ちゃんの前に立つ。


「虎男さん、もうやめて」


次の瞬間。


大きな腕が動く。


僕は目を閉じた。


怖かった。


本当に怖かった。


戦争よりも。


空襲警報よりも。


父ちゃんの足音の方が怖かった。


■■■


僕には、ずっと年上の兄や姉がいた。


長男の肇兄ちゃん。


次男の祐二兄ちゃん。


芳江姉ちゃん。


良子姉ちゃん。


美津子姉ちゃん。


そして末っ子が僕だった。


肇兄ちゃんは、もういない。


二十歳の時、バイク事故で死んだ。


家の柱には、肇兄ちゃんの写真が飾られていた。


笑っている写真だった。


僕は兄ちゃんのことをほとんど覚えていない。


それでも父ちゃんは、酒を飲むと、ときどき写真の前に座った。


何も言わない。


ただ長い時間、写真を見ていた。


そして小さく、


「肇……」


と呟いた。


そんな時だけ、熊みたいな父ちゃんが、小さく見えた。


■■■


母ちゃんは軍需工場で働いていた。


毎朝まだ暗いうちに家を出る。


帰ってくる頃には、顔が煤で汚れていた。


「母ちゃん、何作ってんの?」


僕が聞くと、母ちゃんは笑った。


「国を守るものよ」


その意味はわからなかった。


ただ、母ちゃんの手が日に日に荒れていくことだけはわかった。


近所には律子という女の子がいた。


僕より少し年上だった。


空襲警報が鳴るたび、僕の手を握ってくれた。


「大輔、怖い?」


「怖くない」


僕は必ずそう答えた。


本当は怖かった。


だから僕も、律子の手を強く握った。


■■■


三月九日の夜。


風が強かった。


父ちゃんは珍しく酒を飲んでいなかった。


工場から帰ってくると、空を見上げていた。


「嫌な風だな」


その一言を、僕は今でも覚えている。


夜が更けた。


僕は布団に入った。


そして――


サイレンが鳴った。


ウウウウウウウウ――。


空襲警報。


いつものことだと思った。


何度も聞いた音だった。


けれど、その夜は違った。


やがて空から、


ゴオオオオオオオオ――


という音が聞こえてきた。


一機ではない。


二機でもない。


空そのものが唸っていた。


父ちゃんが外へ飛び出した。


次の瞬間。


空が光った。


ドォォォン!!


家が揺れた。


僕は布団から転げ落ちた。


「大輔!」


母ちゃんが叫ぶ。


さらに、


ドン!


ドン!


ドドドドドドドドン!!


爆弾の雨だった。


いや。


あとで知った。


あれは焼夷弾だった。


空から降ってきたのは、火だった。


屋根に突き刺さり、


道に落ち、


家に落ち、


そして東京を燃やしていった。


「逃げるぞ!」


父ちゃんが叫んだ。


その声は、酒に酔った時とは違った。


僕は母ちゃんの手を握った。


母ちゃんの反対側には律子がいた。


どこではぐれたのか、律子の家族の姿はなかった。


「大輔、律子ちゃんを離すな!」


「うん!」


僕たちは走った。


■■■


町が燃えていた。


見慣れた八百屋が燃えていた。


銭湯が燃えていた。


学校の方向も赤かった。


空は夜なのに真っ赤だった。


火が風に乗って飛んでくる。


人が走る。


泣く。


叫ぶ。


転ぶ。


「川へ行け!」


誰かが叫んだ。


大勢の人間が同じ方向へ走っていた。


僕も走った。


律子の手を握って。


母ちゃんの手を握って。


だけど煙で何も見えない。


息ができない。


目が痛い。


「母ちゃん!」


「大輔! ここよ!」


その時だった。


ゴォォォォッ!!


横の家が炎に包まれた。


熱風が僕を吹き飛ばした。


手が離れた。


「母ちゃん!」


「律子!」


僕は地面に倒れた。


人の足が僕の横を通っていく。


踏まれる。


押される。


泣いても声が出ない。


その時。


巨大な手が僕の襟首を掴んだ。


父ちゃんだった。


「立て!!」


僕を片腕で抱き上げる。


もう片方の腕で律子を抱える。


母ちゃんも後ろから走ってきた。


炎の中。


熊みたいな父ちゃんが走る。


人を押しのけ、


倒れた木材を持ち上げ、


僕たちを前へ進ませる。


「父ちゃん!」


「喋るな! 息を残せ!」


あんなに怖かった父ちゃんの背中が。


その夜だけは。


世界で一番頼もしかった。


■■■


ようやく川へ着いた。


けれど。


そこにも安全な場所なんてなかった。


川岸は、人で埋まっていた。


そして水の中にも。


黒いものが浮かんでいた。


最初、木だと思った。


違った。


人だった。


一人。


二人。


十人。


百人。


数えられないほど。


川一面に人が浮かんでいた。


僕は母ちゃんの着物を掴んだ。


「母ちゃん……」


母ちゃんは僕の顔を胸に押しつけた。


「見るんじゃない」


律子が震えていた。


僕は律子の手を握った。


今度こそ、離さないと思った。


空からまた爆撃機の音が聞こえる。


火の粉が降る。


町が燃える。


水面が赤く光っている。


まるで川そのものが燃えているようだった。


父ちゃんは僕たちの前に立った。


大きな背中で。


飛んでくる火の粉から、僕たちを隠すように。


■■■


どれくらい経ったのかわからない。


永遠みたいな夜だった。


やがて空が少し白くなった。


朝だった。


東京は変わっていた。


家がない。


道がない。


町がない。


煙だけが立っている。


父ちゃんの整備工場も焼けた。


僕たちの家も焼けた。


母ちゃんは立ち尽くしていた。


律子は泣いていた。


父ちゃんは、何も言わなかった。


焼け跡の中に座り込む。


いつもなら怒鳴る男が。


泣きもしない。


ただ、真っ黒になった東京を見ていた。


やがて父ちゃんが言った。


「大輔」


「なに?」


「生きろ」


それだけだった。


■■■


僕は子供だった。


戦争がなぜ始まったのか。


誰が正しくて、誰が間違っているのか。


何もわからなかった。


ただ覚えている。


燃える東京。


爆弾の雨。


川を覆った人々。


母ちゃんの手。


震える律子の手。


そして。


僕を抱えて炎の中を走った、父ちゃんの太い腕。


松田虎男。


酒を飲めば暴れた。


家族を怖がらせた。


どうしようもない男だった。


だから僕は、父ちゃんを立派な人だったとは言えない。


英雄だったとも言えない。


それでも。


昭和二十年三月十日の朝。


焼け野原の東京で。


父ちゃんは確かに僕たちを生かした。


人間というものは、不思議だ。


怖い人間の中にも、優しさがある。


優しい人間の中にも、弱さがある。


戦争は、そんなものまで全部まとめて焼いてしまう。


それから何十年経っても。


三月の夜に強い風が吹くと、


僕は七歳に戻る。


律子の小さな手の感触を思い出す。


母ちゃんの声を思い出す。


そして、炎の向こうを走る、


熊のように大きな父ちゃんの背中を思い出す。


東京が燃えた夜。


僕たちは、生き残った。


ただ、それだけのことが、


あの戦争の時代には、奇跡だった。

漫画版をジャンプラにて公開中

https://rookie.shonenjump.com/series/TWpXKpYa08M/TWpXKpYbA-Y

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