6.どうして
あの夜会から帰ってきた日、みんなに驚かれた。
目を腫らして、ヨレた髪をそのままに帰ってきた私は、何があったか聞きたい空気を知らんぷりして、部屋に閉じこもった。その"何か"を察するのは、ソフィだけ……。
「……会えたんですね」
「うん」
「詳しくは聞きません。ですから、お嬢様が前を向くお手伝いは、させて下さい」
「あり……がとう。一番、恋をしてはいけない人に……恋したわ。もう……会いたくても、会えない――」
ポロポロ……また、止めどなく涙が溢れた。
優しく抱きしめてくれるソフィに、甘えるように……誰とも言えない恋を必死に終わらせようと泣いた。
翌日も、そのまた翌日も……一週間経っても、ちっとも心から出て行ってくれない。楽になるどころか、余計苦しくて……。
だから、美味しいパンを食べたら元気になれるかもしれない、そう思って、相変わらず良い香り溢れる街中にやってきた。美味しいものを食べて、いつもの街並みを見ながら歩いて、素敵なお花に出会えたら……それだけで救われる気がした。
"このパン、あげたんだよね……"
"柔らかい笑顔が、好きだったな……"
私は、公爵家の令嬢だから我慢だって平気なはずなのに。気付けば、あの広場まで来てしまっている。
……これで最後にするから、もう一度あのベンチに行こう。あそこに全部の思い出を置いてこよう。それで……全て忘れるんだ、って……歩き出した。
ソフィは、少し離れたところで待っててくれる。うん、一人じゃない。胸を張って帰れるように、思い出を――
「……どうして……?」
首を垂れて、顔は見えない。
だけど……猫っ毛の髪に、いつものシャツ。
ゆっくり上がる顔に、口元を押さえた。
「エリー……!」
「……どうして、ここに来たんですか?」
忘れるために、ここに来たのに。
二度と思い出さないために、ここに来たのに。
なんで、貴方がいるの?
「ごめん。どうしても、エリーに会いたくて」
「……愛称は、もう結構です」
「ずっと考えてたんだ。会って話しがしたいと……」
「どうして……既婚者だと黙って、いたんですか?」
「……言えなかった。言ったら、もう会えないと――」
「当たり前です! 何も教えてくれないから……私は、罪を犯してしまったんです……」
「少なくとも、僕は本気です」
「……っ」
「本気でエリーを――」
「止めて下さい!」
立ち上がる殿下から一歩引いた。
ちゃんと頭では、これ以上近付いちゃいけないって、分かってる。ちゃんと……分かってる。
「殿下は、何もなかった顔で王太子をしていればいいんです」
「……出来ない」
「忘れますから。殿下もどうか、忘れて下さい」
「出来ないと……言ったでしょう。エリーと話すと、息が出来る気がするんです。疲れた日々の中で見つけた、一輪の花を、大事にしたい……んだ」
……ダメだと、分かっているのに。
公爵令嬢としても、この国の一員としても――踏み越えてはいけない一線だと。
それでも。胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
それでも。彼に惹かれてしまった。
殿下の切なく逸らす視線に、胸がギュッと締め付けられる。
私だって、忘れてない。優しく包まれて、名前を呼ばれて、甘く溶けた瞬間を……確かに覚えてる。今だって、忘れるために来たはずなのに、名前を呼ばれるたびに決心が揺らぐ。
「エリー」
優しい、甘い蜜のよう。知ったら最後……知らなかった時には戻れない、まるで中毒のよう。
スーッと一筋の涙と、本音が溢れでた……。
「会いた……かった――」
伸ばされた手が、今にも触れそうな距離――
「――殿下」
突然割って入った声に、肩が揺れるほど驚いた。
「殿下、お時間です。参りましょう」
「も、もう少し……」
「なりません。これ以上は、懸命なご判断を」
「…………」
「貴女も……」と、殿下の腕を抑えながら、こちらに顔を向けた。決して冷ややかな目をしてるわけじゃない。
「帰った方が宜しいでしょう。立場をご存知なら尚のこと、どこで誰に見られるか分かりません。ご自分を守るためにも、懸命なご判断をお願いします」
「……分かりました」
一言そう言って、踵を返した。
私の名前を呼ぶ、殿下の声が聞こえたけど……振り向きもせず、ソフィの元へとまっすぐ歩いた。
ここで振り返ってたら……何か、変わったのかな――
***
「帰りましょう。仕事が山積みです」
「……せっかく会えたのに……」
「今の出来事は、見なかったことに致します」
あれは、どう見ても……痴情のもつれだ。
聞こえてきた不穏な会話、確かに彼女は『罪を犯した』と言った。それを、どこまで示すのか知る由もないが……こんな場面を妃殿下に知られれば、苦しまれるに決まっている。
ただでさえ、お子に恵まれず、周囲からの圧力に苦しんでおられるのに。
「僕は、諦めない」
「……え?」
「いや、良い。今日のところは帰ろう」
不機嫌とも違う、異様なオーラを放ちながら馬に飛び乗った。それから執務室に戻るまで、一言も話すことはなかった。
夜会の日のあの子が、広場の子と一緒なら……殿下の怪我は、彼女に関係してたかもしれない。
報告すべき事案だと理解しているのに、僕は……ただただ涙を流す二人の女性に、心が傷んだ。




