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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

来月はないよ 〜「来月から本気出す」彼氏と、泣けば許される後輩を切ったら、私の《来月》はちゃんと来た〜

作者: 世紀末覇者
掲載日:2026/03/13

コーヒーを淹れた。一人分。


恋人が残した缶ビールを片づけ、

同僚が残したミスを十五分で直し、

「来月から本気出す」という言葉を三十六回聞いた。


藤崎凛。二十九歳。社長秘書。

正しいことを正しいと言う。間違いは黙って直す。

——その「正しさ」が報われた日は、まだなかった。


これは、来るはずのない「来月」を待つのをやめた彼女が、

自分のための「来月」を手に入れるまでの話。

◇◇◇


 目覚ましの三分前に目が覚めた。六時十七分。


 リビングの明かりがつけっぱなしだった。

 翔太がソファで寝落ちしている。胸の上にパチンコ雑誌。テーブルに空の缶ビールが四本と、コンビニ弁当の空き容器。

 私——藤崎(ふじさき)(りん)——が明日の朝用に買っておいたパンは、袋ごと消えていた。


 缶を捨て、容器をまとめ、テーブルを拭いた。コーヒーを淹れた。一人分。


 大学三年の秋に付き合い始めて七年。翔太は経済学部だった。

 就職しなかったとき「やりたいことを見つけてから動く」と言った。一年目はまだ信じられた。二年目の「来月から本気出す」も、まだ笑えた。


 五年目からは、笑えなくなった。


◇◇◇


【LIME】凛 ↔ 沙織


凛:朝ごはん用のパン食べられた

沙織:……

凛:明日の、って書いて冷蔵庫に貼ってたのに

沙織:字が読めない人なのかな

凛:字は読めるよ。都合の悪い字が見えないだけ

沙織:それ読めないって言うんだよ

沙織:土曜あいてる?餃子食べよ

凛:うん


◇◇◇


 高校時代からの親友、田中沙織(さおり)からのLIMEに元気をもらいながら、満員電車に揺られた。


 出社すると、エレベーターホールで(ひいらぎ)美月(みつき)が社長と談笑していた。

 入社三ヶ月の補佐秘書。二十四歳。栗色のゆるい巻き髪に、よく通る声。誰にでも好かれる笑顔を持っていて、実際に誰にでも好かれた。


「おはようございます、凛さん!」


 社長室に入ると、昨日美月が処理したスケジュール調整が三件、すべて間違っていた。取引先名の取り違え、時間の一時間ズレ、会議室の二重予約。

 直した。十五分で。


「凛さん、すみません……私ほんとダメで」


 美月が目を潤ませる。三ヶ月間、同じミスが減らない。

 一時間後、給湯室で美月の声が聞こえた。


「凛さん、最近すごく疲れてるみたいで心配なの……プライベートでいろいろあるみたいで」


 心配。

 あなたのミスを毎朝直す十五分が疲労の原因です、とは言わなかった。


◇◇◇


 金曜日。翔太からLIMEが来た。


翔太:今月ちょっときつい 5万だけ貸して

翔太:来月から本気出すから


 何回目の「来月」だろう。三年分を積んだら三十六回になる。三十六回分の来月は、一度も来なかった。

 振り込んだ。


 夜、翌月のカード明細を確認しようとアプリを開いた。

 見覚えのない決済履歴が並んでいた。〇〇パーラー。△△パチンコセンター。□□アミューズメント。一件五千円から三万円。週に二回から三回。八ヶ月分。


 合計、百二十三万四千円。


 スマホを持つ指先が冷たくなった。


「ねえ、翔太」

「んー?」

「私のカード、使った?」


 一拍。


「……あー、ちょっとだけ。返すって」


 百二十三万が「ちょっと」。


「いい。今日はいい」


 寝室に入って鍵を閉めた。震えが止まるまで十分かかった。


◇◇◇


【LIME】凛 ↔ 沙織


凛:クレカ不正利用されてた

沙織:は?

凛:パチンコ。八ヶ月で百二十三万

沙織:凛。カード止めて。今すぐ

凛:……

沙織:整理はあとでいい。カードだけ今止めて。お願い

凛:止めた

沙織:よし

沙織:明日、餃子じゃなくていいから会おう

凛:餃子がいい

沙織:わかった。餃子にしよう


◇◇◇


 翌週。社長に呼ばれた。


「凛さん、最近無理してない? 美月さんがちょっと心配してたんだけど」


 美月の「心配」が、社長まで届いていた。


「業務に支障はありません」

「まあ、無理しないで。来月の北條通商様への提案、美月さんにメインを任せようと思ってる。凛さんはサポートで」


 四年間北條通商を担当してきた私がサポート。スケジュール調整もできない人がメイン。


「承知しました」


 でも、それしか言えなかった。


◇◇◇


 退室して、自分のPCに向かった。


 サポート役として、美月の進捗を把握する必要がある。共有フォルダのアクセス履歴を開いた。


 美月のログ。北條通商様案件フォルダ。曙システムズ様案件フォルダ。——青葉精密様の機密区分データ。


 北條通商様への提案書を作るために、青葉精密様からお預かりしている機密データを参照する理由はない。


 嫌な予感がした。


 美月のデスクに行った。


「美月さん、ちょっといい? 北條通商様向けの資料、途中まででいいから確認させてもらえる?」


「え? 大丈夫ですよ、もうほぼ完成してます!」


「共有フォルダのログなんだけど、青葉精密様の機密ファイルにアクセスした記録があって。北條通商様向けの資料に混ざっていないか確認させてほしいの」


 美月の笑顔が止まった。〇・五秒。すぐに戻った。


「あー、あれ間違えて開いちゃっただけです! データは使ってないので大丈夫ですよ」


「念のため中身を——」


「凛さん」


 美月が目を潤ませた。


「私のこと、信用してくれないんですか……? メイン任されたのに、監視されてるみたいで、つらいです」


 監視ではない。機密管理だ。


「機密データの取り扱いは、信用とは別の——」


「大丈夫です。ちゃんとやります」


 美月は自分のPCに向き直った。会話を閉じる動作だった。


◇◇◇


 翌日。社長に時間をもらった。


「北條通商様向け資料の件で、ご報告があります」


「ん?」


「美月さんが共有フォルダ上の青葉精密様の機密ファイルに複数回アクセスした履歴があります。北條通商様向けの提案書に機密データが混入するリスクがありますので、会議前に資料を確認させていただきたいのですが」


 社長が眉をひそめた。


「美月さんに聞いたよ。間違えて開いただけだって」


 先回りされていた。


「ログの頻度を見ると、偶発的とは考えにくいです。四日間で七回——」


「凛さん」


 穏やかだが、閉じた声だった。


「美月さんにメインを任せるって決めたのは俺だ。サポート役が資料の中身にまで口を出すのは、ちょっと違うんじゃないかな。美月さん、監視されてるみたいでつらいって泣いてたよ」


 涙。

 あの涙は武器だ。三ヶ月で学んだ。


「……承知しました。ただ万が一に備えて、機密データを一切含まない予備の資料を用意させてください。使わずに済むならそれが一番ですので」


「そこまで心配なら、好きにして。でも美月さんのメイン発表は変えないから」


「はい」


◇◇◇


 バックアップ資料を作り始めた。北條通商様向け。機密データを一切含まないクリーンな構成。出典すべて明記。

 使わずに済めばいい。美月がちゃんとした資料を出してくれるなら、このUSBは鞄の中で眠ったまま終わる。

 そうであってほしかった。


◇◇◇


【LIME】凛 ↔ 沙織


凛:仕事でまた揉めた

沙織:どうした

凛:同僚が取引先の機密データを触ってる。本人に確認求めたら泣かれて、上に報告したら「信頼して任せろ」で終わった

沙織:報告して却下されたなら凛のせいじゃないでしょ

凛:でも会議で事故ったら会社に損害が出る

沙織:予備の資料は作ったんでしょ?

凛:うん

沙織:本人に言った。上にも言った。予備も作った。それ以上は凛の権限の外だよ

凛:……そうだね

沙織:悩んでも変えられないことは餃子で流す。鉄則

凛:鉄則なのそれ


◇◇◇


 北條通商様との四半期提案会議。

 出席者。北條通商様からは柏木部長ほか二名。こちらからは社長と、秘書室の二名。

 美月のプレゼンが始まった。パステルカラーの配色、滑らかなアニメーション。見た目だけなら八十点。


 ——大丈夫であってくれ。


 七ページ目で、柏木部長の目が変わった。


「柊さん。このページの市場データ、出典はどちらですか」


「社内の共有データベースから——」


「これ、先月弊社が機密扱いで御社に開示した内部データですね。ロゴの透かしが残っています」


 会議室の温度が三度下がった。


「十二ページも拝見しましたが」


 柏木部長がページを送った。


「青葉精密さんの案件データが混在しています。なぜ弊社向け提案に、青葉精密さんの情報が入っているのか、ご説明いただけますか」


 美月の顔から血の気が引いた。


「ファイルを間違えて——」


「機密データの取り違えは『間違い』では済みません」


「違うんです、確認のために見ていただけで——」


「社長」


 私は声を出した。


「事前にこの可能性はご報告しておりました。機密データを含まない予備の資料を準備してあります。切り替えさせていただいてよろしいでしょうか」


 社長が頷いた。顔が白かった。


 USBを差した。スライドを切り替えた。構成は地味だが、穴はない。三十分で終わらせた。


 柏木部長が言った。


「藤崎さん。事前にリスクを把握して、報告もされていた、と」


「共有フォルダのアクセスログに不審な点がございましたので、本人への確認と上長への報告を行った上で、予備の資料を準備させていただきました」


 柏木部長の視線が社長に移った。社長は黙っていた。


「……御社の管理体制については、改めてお話しさせてください。ただ藤崎さん、あなたの判断には感謝します」


◇◇◇


 会議後。社長が美月と私を呼んだ。


「美月さん。説明を」


「あの、凛さんが最近お疲れで——」


「美月さん」


 A4を二枚差し出した。


 一枚目。共有フォルダのアクセスログ二ヶ月分。美月が青葉精密様の機密ファイルに触った日時と回数。

 二枚目。美月が社長に「凛さんが心配」と報告したメールの日付と、私が北條通商様向け資料を完成させた日付を並べたもの。


 私が成果を出すたびに、美月は「凛さんが心配」と社長の耳に入れていた。


 すべての日付が一致していた。


 社長が沈黙した。

 美月の目に涙が浮かんだ。三ヶ月前と同じ、潤んだ大きな目。


「心配してただけなの……」


 その涙が、今度は誰にも効かなかった。


 翌日、美月のデスクは空だった。即日付の退職勧奨。


 その週のうちに北條通商様の法務部から正式な申し入れ書が届いた。機密データの外部漏洩に関する損害賠償請求。宛先は会社と、柊美月個人。


◇◇◇


【LIME】凛 ↔ 沙織


凛:会議で事故った。予備資料が必要になった

沙織:やっぱりか

凛:機密データ混入してた。確認させてって言ったのに

沙織:報告も無視されて現場で爆発。社長どんな顔してた?

凛:白かった

沙織:当たり前だよ

沙織:で、今夜翔太と話すんでしょ

凛:……うん

沙織:何かあったら電話して。23時でも3時でも出る

沙織:餃子は明日


◇◇◇


 帰宅した。

 翔太はソファにいた。定位置。パチンコ雑誌。スマホゲーム。


 テーブルにA4の紙を三枚並べた。

 一枚目。クレジットカード利用明細八ヶ月分。不正利用分を黄色のマーカーで塗った。百二十三万四千円。

 二枚目。通帳のコピー。翔太が「管理するから」と持っていた通帳から、三十万円が四回に分けて引き出されていた。

 三枚目。カード会社への不正利用届出書のコピー。


「——何これ」


「百五十三万四千円。翔太が私から取った額。五万円の『貸して』も含めたらもっと行くけど、証拠がある分だけ」


「取ったって——借りてた——」


「一円も返ってない。借りたとは言わない」


「返すから。来月から本気出して——」


「来月はないよ」


 翔太の動きが止まった。


「カードは先週止めた。届け出済み。カード会社から翔太に直接連絡が行く。通帳の三十万は窃盗として警察に届ける」


「ちょ——待って——」


「荷物はまとめた。玄関にある。鍵は明日交換する」


 翔太が立ち上がった。


「凛。お前しかいないんだよ、俺には」


 七年間、何度聞いた台詞だろう。


 何度、その三文字で揺れただろう。


「そうだね」


 頷いた。


「私しかいなかったね。で、その私が出て行けって言ってる」


「凛——」


 翔太の目に涙が浮かんだ。


「来月から本気出すんでしょ。別の場所で出して」


 寝室に入って、鍵を閉めた。

 ドアの向こうで翔太が何か言っていた。二十分ほど。やがて玄関のドアが開いて、閉まった。


 静かになった。


 泣かなかった。泣くほどのものが、もう残っていなかった。


 コーヒーを淹れた。一人分。


 七年ぶりに、それが正しい数だった。


◇◇◇


【LIME】凛 ↔ 沙織


凛:追い出した

沙織:……お疲れさま

凛:翔太は泣いてた

沙織:知らんがな

凛:ほんとにね

沙織:凛は?

凛:泣いてない

沙織:泣いていいんだよ

凛:泣くほどのものがもう残ってなかった

沙織:……

沙織:明日餃子倍盛りにしよう。ビールもつけよう

沙織:七年分の乾杯しよう

凛:沙織

沙織:ん?

凛:ずっとありがとう

沙織:やめて泣くから

沙織:お礼は餃子で受け付けます

凛:了解


◇◇◇


 一ヶ月が経った。


 社長室は私一人に戻った。もともと一人で回していた。何も変わらない。


 変わったのは社長のほうだった。北條通商様の柏木部長から「今後の窓口は藤崎さんでお願いしたい」と名指しされたこと。社長が会議のたびに「凛さん、いつも助かってる」と言うようになったこと。


 四年遅い。——でも、ないよりはいい。


 美月の後日談は断片的に聞いた。北條通商様からの損害賠償請求は数百万円規模。個人資産では到底足りないらしい。業界団体にも報告が上がり、同業他社への転職は事実上不可能になった。


 翔太は実家に戻った。カード会社から督促が行き、親が全額を知った。翔太が沙織にLIMEを送ってきたらしい。「凛に謝りたい、取り次いでくれ」と。


◇◇◇


【LIME】凛 ↔ 沙織


沙織:翔太からLIME来たけどブロックした。報告

凛:ありがとう

沙織:今後も着信拒否で運用します

凛:運用って

沙織:元カレ管理ポリシーです


◇◇◇


 金曜の午後。北條通商様との月次会議を終えたところで、柏木部長に呼び止められた。


「藤崎さん。先月の件、あらためてお礼を。あのバックアップがなければ、弊社としても対応が難しかった」


「業務ですから」


「それだけじゃないと思ってます。——弊社のグループ会社で秘書室の統括ポジションを探していまして。もしご関心があれば、詳しくお話しさせていただきたいんですが」


 想定していなかった。


「条件をお聞きしてもいいですか」


「もちろん。来週あたり、食事でもしながら——」


 一拍。


「これは純粋にキャリアの話として、ですが」


「ですが?」


「食事は食事として、お誘いしたい気持ちもあります。それは別件で」


 真面目な顔で言い切って、耳だけ赤くなっていた。


「……別件のほうも、検討します」


 自分でも驚くほど自然に、言葉が出た。


◇◇◇


【LIME】凛 ↔ 沙織


凛:北條通商の柏木さんに食事誘われた

沙織:仕事?

凛:仕事の話もあるけど「別件」もあるらしい

沙織:別件!!!!

凛:耳が赤くなる人だった

沙織:最高か

沙織:行きなよ

凛:行く

沙織:でも餃子の約束は永久に有効だからね

凛:一生有効


◇◇◇


 十一月の夜風が冷たかった。マフラーを巻き直して、駅まで歩いた。


 部屋に帰った。缶ビールの空きも、パチンコ雑誌も、言い訳も、ない。


 コーヒーを淹れた。一人分。


 マグカップを両手で包んで、窓の外を見た。


 静かだった。


 来月のことは来月の私が決める。


 でも今度の「来月」は、ちゃんと来る。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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