狂戦の女帝
瘴気が渦を巻き、空気が軋んだ。
嫉妬の獣姫・ジェラシアが完全な“獣王”へと姿を変えた瞬間、森そのものが震えたかのようだった。
爪が大地を裂き、樹々が悲鳴を上げる。
六人の冒険者は、今までとは比べものにならない殺気と圧に晒されていた。
「くそっ……さっきまでとは、まるで別人だ!」
イグニスが舌打ちし、矢を番える。しかし、矢はジェラシアの毛皮に触れた瞬間、弾かれ、無力に地へと落ちた。
「これが“嫉妬の獣姫”の本性か……!」
ヒルダが剣を握り直し、臨戦の姿勢を取る。だが、黄金の双眸がこちらを見据えた瞬間、全員の背筋に氷の刃が走った。
「命を賭けろと言ったはずだ――その覚悟、見せてみろッ!!」
咆哮と共に、ジェラシアが一歩踏み込んだ。
その一歩で地面が陥没し、衝撃が森を駆け抜ける。
――速い。
視線が追いつくより早く、獣王の拳がバッシュの腹部にめり込んでいた。
「……がはっ――」
背骨が軋み、双剣が手から滑り落ちる。次の瞬間、地面に叩きつけられたバッシュの体は、地割れの中に沈み込み――動かなくなった。
「バッシュ!!」
ソラールが叫び、槍を突き出す。しかし、それはジェラシアの爪に容易く弾かれ、空を裂くだけに終わる。
「来い……貴様も同じ場所へ送ってやる!!」
巨腕が振り上げられる。空気が震える。
「|獣神天壊拳〈じゅうしんてんかいけん〉!!」
それは拳ではなかった。
山が落ちてきたような、圧倒的な質量の暴力だった。
ソラールは回避の体勢すら取れず、拳をまともに受けて宙を舞った。槍が粉砕し、骨が砕け、巨木を突き破って――そのまま静かに崩れ落ちる。
「そ、ソラール……っ! 嘘だろ……!」
イグニスの声が震える。仲間の息が、もう感じられなかった。
二人の命が一瞬で奪われたことで、戦況は完全に崩壊した。
「ははっ……どうした? 震えて声も出ないか?」
ジェラシアは嗤い、血に濡れた爪を舐める。
「その程度の覚悟で奈落に踏み込んだなら、今すぐ死ね」
「くっ……撤退だ! 今のままじゃ勝てない!」
ジーナが叫ぶ。
「なに言ってんだ、まだ!」
イグニスが反論しかけるが、ヒルダが腕を掴んだ。
「今は死ぬだけだ! ここで倒れたら、バッシュとソラールの死が無駄になる!」
ジェラシアが動いた。再び、爪が閃き、死が迫る。
その時だった。
ズゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……!
大地が鳴動し、森が裂けた。次の瞬間、白銀の閃光が闇を切り裂き、ジェラシアの腕を叩き落とす。
「なっ!?」
衝撃で数歩後退したジェラシアの視線の先に、それは立っていた。
月光を纏ったような純白の毛並み。巨大な角を戴き、金剛石のような双眸を宿す獣。
第七層を守護する聖獣・白王。
「……貴様、なぜここに……!」
ジェラシアが牙を剥く。
白王は何も言わなかった。ただ、圧倒的な威圧と殺気だけで、獣王の動きを封じていた。
その眼差しは、“縄張りを乱す者”への明確な敵意そのものだった。
「行け、今のうちに!」
ヒルダが叫ぶ。
「くそ……っ!」
イグニスが走り出す。
「生き延びて、必ず戻る……!」
ジーナも歯を噛み締め、後を追う。
三人は瘴気の森を駆け抜け、深淵の奥へと姿を消した。だが、ただ一人。グレンだけが、その場から動かなかった。
「行け。俺はここに残る」
「なに言ってるの、グレン! 今は撤退が――」
ジーナの叫びに、グレンは背中越しに答えた。
「仲間の仇を討たずに、背中を向けられるほど、俺は器用じゃない」
大剣が、唸りを上げて抜かれる。その眼には、怒りと、決意と、死の覚悟が宿っていた。
「ジェラシア……この命を懸けて、お前を斬る!」
白王とジェラシア、そしてグレン。
三つの存在が、濃密な殺気をぶつけ合い、夜の森が息を潜める。
「いいだろう……せいぜい足掻け。次に死ぬのは貴様だ!」
獣王の咆哮が再び轟き、大地が割れ、樹々が弾け飛ぶ。閃光と爪撃、白の巨躯と黒の猛撃、そして一人の人間の剣閃が交錯する。
――その戦いの結末を、誰も知らない。
ジーナたちは深き森の奥へと逃れた。
背後では、仲間の命と誇りを懸けた戦いが続いている。失われた命。交わした覚悟。そして残された者たちの決意。
「……私は、まだ“弱い”のね」
その目に宿っていたのは、涙ではなく、狂気だった。
ーーーー
《八年後》
【奈落の辺境・訓練所】
ジェラシアとの戦いで、ジーナはまた仲間を失った。あの時、心の奥で何かが音を立てて崩れ落ち、それと同時に別の何かが生まれた。
もう二度と、誰も失わせはしない。
それだけを胸に刻み、彼女は生きてきた。
朝も夜も、雨の日も、骨が軋むほどの重圧がかかる奈落の辺境でも、ただひたすらに剣を振るい、拳を打ち込んだ。魔力で強化した剣は山を割り、魔力で固めた拳は岩を砕き、息を吐くたびに空気が唸りを上げた。
「ひっ……ひぃ、またあの人や……」
「近づくな。目ぇ合わすな。見たら殺されるぞ……」
訓練場の遠巻きに立つ若い冒険者たちが、声を潜める。もはやジーナは英雄でも伝説でもなかった。
人が踏み込んではならぬ領域へと、足を踏み入れた存在…
『狂戦の女帝』。
人々はそう呼び、恐れ、敬遠した。
彼女は気にも留めなかった。恐怖も、孤独も、血の滲むような日々の代償も、すべては一つの目的のためにある。
もう二度と、失わないために。
仲間の悲鳴、血飛沫、笑い声、すべてが背中を押してくる。
振り上げた大剣が雷鳴のように空を裂き、轟音と共に大地へ叩きつけられた。
砂煙が巻き上がり、数メートル先の訓練台が粉々に砕け散る。
「……まだだ。まだ足りん」
荒く息を吐きながら、ジーナは己に言い聞かせる。
血管が浮き上がった腕を見下ろし、砕けた指を無造作に握り締める。
――ペシミスティ。ジェラシア。
――あの二人にすら屈した、この弱さ。
それが残っている限り、彼女に休息の二文字は存在しなかった。
ただ、年に数度、キキモラ村の教会で甥のクロスに会う日だけは違った。その日だけは剣を置き、血塗られた手でパンを焼き、優しい声で「よく来たな」と微笑む。
それはジーナという女が、まだ“人”である証だった。
だが、ジーナはまだ知らなかった。この村を、奈落の瘴気が蝕み始めていた事を…
キャラクター紹介 No.6
【イグニス=イッシュバーン】
冷静な判断と鋭い弓の腕で戦況を読み、仲間を支える戦術家。
機転と洞察力に長け、どんな局面でも最善の一手を導き出す。
一方で重度のギャンブル依存症という一面を持ち、報酬を賭場で溶かす常習犯でもある。
それでも、危機の際には必ず矢を放ち、仲間を守る信念を貫く。




