静寂の玉座
それは、静寂から始まった。
ある朝、サンライズシティの空が黒く染まった。
それは雲ではない。
それは夜でもない。
まるで、世界そのものが“奈落”に引きずり込まれたかのような、濃密な瘴気だった。
人々は初め、ただの異常気象だと笑った。
次に、神の怒りだと震えた。
だが三日目、笑いは消え、祈りも意味を失った。
人の肌はただれ、瞳は黒く濁り、理性は崩壊する。
親が子を食らい、恋人が恋人の喉笛を噛み切る。
人類は魔へと堕ちていった。
瘴気は街を飲み込み、国を呑み込み、大陸を侵食していく。
サンライズシティを中心に、世界は裏返った。
昼も夜もなく、光は滅び、空には瘴気が渦巻く。
その濃度は、かつて奈落の最深層でさえ見たことのないほどの漆黒だった。
人類が滅んで、どれほどの時が経ったのだろう。
空は沈黙し、大地は呼吸をやめ、海はまるでガラスのように凪いでいた。
生も死も、喜びも悲しみも、もはやこの星には存在しない。
この世界に意思と呼べるものは、ただひとつ。
シャスエティ。
彼女の玉座は、かつて王都があった場所に築かれていた。数千万の魂が跪き、歓喜の声を上げている。
だがその歓喜でさえ、彼女の命ずるままに動く死んだ感情にすぎなかった。
あの日、命を懸けて刃を向けた者たちは、誰一人として残っていない。
その魂は瘴気に呑まれ、肉体は眷属として再構築され、今や彼の足元に跪いている。
「…………」
シャスエティは、ただ虚空を見つめていた。すべてが手の中にある。世界は沈黙し、神でさえ彼の名を恐れて口を閉ざす。
それでも、心は満たされなかった。
かつて、戦いがあった。
剣が交わり、雷が轟き、魔法が空を染め、人間たちは無力ながらも足掻いた。
その足掻きが、愚かで愛おしかった。
だが今、彼らはもういない。
勝つ者も負ける者も、涙を流す者も、祈る者も、誰も。
この世界は、完全に「勝利」してしまった。
どれほどの時を過ごしても、退屈は濃くなる一方だった。絶望は甘美な酒でありながら、永遠に飲み続ければただの毒になる。
「……魔王様」
誰もいない玉座の間で、彼は初めて口を開いた。
声は震え、吐息は寂寞の色を帯びていた。
「あなたは……こうなることを、知っていたのですね」
飽きたのだ。
あのとき、魔王が笑いながら告げた言葉の意味が、今ようやく理解できた。善も悪も、希望も絶望も、すべてが等しくつまらない。
世界を滅ぼすことなど、何の意味もない。
「あなたは……次は何を壊すつもりですか?」
答えは返ってこない。魔王はこの様子すらも退屈凌ぎにしているのかもしれない。
シャスエティの掌の中には、ひとつの終わりだけが残された。
退屈。虚無。
――そして、完全なる孤独。
玉座の上で、シャスエティはそっと目を閉じた。
その頬を、一筋の涙が伝う。世界のすべてを支配したはずの彼が、初めて見せた人間のような表情だった。
「俺が、壊してしまった」
それは懺悔か、祈りか。
もはや確かめる術はない。
だが、その涙が地に落ちたとき、星が微かに軋む音がした。まるで、終わったはずの宇宙が「まだ先がある」と囁くかのように。
終焉の先にあるのは、虚無か、再生か。
それすらも、いまのシャスエティには分からなかった。
ただひとつだけ、確かなことがある。
この静寂は、まだ「物語の終わり」ではない。
滅びた世界について
漆黒の瘴気が地上を覆い、人類は理性を失い魔へと堕ちた。光も生命も消えた世界で、意思を持つのはシャスエティのみ。文明も文化も滅び、数千万の魂は眷属として従属する。すべてを支配し尽くした「勝利」は、同時に深い虚無と退屈をもたらした。絶望の果てに残るのは、孤独と静寂のみ。




