Episode 09 池崎正人の逆襲
*登場人物
・池崎正人
新入生。偏った遅刻癖で問題児となるが、持ち前の行動力と運動能力で活躍するようになる。負けず嫌いで男らしい性格だが察しが悪い。様々な人間関係にもまれて成長していくが。
・中川美登利
中央委員会委員長。容姿の良さと性格の特異さで彼女を慕う者は多いが恐れる者も多い。並々ならないこだわりを学校に持ち、そのために周囲を振り回す。
・一ノ瀬誠
生徒会長。美登利の幼馴染。彼女に動かされているようでいて、実はいちばん恐れられている。
・綾小路高次
風紀委員長。堅物で融通が利かないが、意外な一面を持っていたりもする?
・坂野今日子
中央委員会書記。価値観のすべてを美登利を基準に置き絶対的に従っている。洞察力に長け、容赦なく相手を攻撃したりもする。
・船岡和美
中央委員会兼放送部員。軽快なトークが得意。明るい性格だが、今日子と同じく洞察力にすぐれるゆえ人間関係に疑問を持つこともある。
・澤村祐也
文化部長。ピアノの達人。彼も幼い頃から美登利に心酔している。
・安西史弘
体育部長。際立った運動能力の持ち主で「万能の人」とあだ名される。性格は奇々怪々。
・森村拓己
正人の同級生で同じく寮生。美登利の信奉者。計算力が高く何事もそつなくこなす。
・片瀬修一
正人の同級生。総合的に能力が高く次期中央委員長と目される。マイペースで一見感情が鈍いようにも見えるが。
・小暮綾香
正人の同級生で調理部員。学年一の美少女。恋愛に積極的で入学早々に「開校始まって以来のプレイボーイ」佐伯裕二と付き合うが。
・須藤恵
綾香の親友。大人し気な様子だが計算力が高く、けっこうちゃっかりしている。
・宮前仁
美登利と誠の幼馴染。市内の不良グループをまとめる櫻花連合の総長になるため北部高校に入学した経緯を持つ。
「オープンキャンパス?」
「うん。ほとんどの大学でやってるから早めにいろいろ見ておいた方がいいって聞いて」
「ああ、それはそうかも」
「実際行ってみると気分も盛り上がるし。どうしてもそこに行きたいってなったら時間かけて頑張れるし、目標がはっきりするって」
「なるほどねえ」
「近場で日程調べてみるからみんなで行ってみない?」
「あたしはいいけど。美登利さんは?」
「うん。いいよ、いつでも言って」
作業のためジャージに着替え長い髪を手早く編みながら中川美登利は返事をする。
「坂野っちもだよね」
「お供します」
「それじゃ計画立てておくね」
部活だけでも忙しいだろうに小宮山唯子はにこにこと言う。青陵生全般にいえることだが、やはり優秀だということだ。
屋上に向かうと一年生はもう作業を始めていた。なんて優秀。
自画自賛の気持ちで美登利は機嫌よく自分も土壌の袋に手をかける。
さりげなく作業に雑じっている佐伯裕二の姿を見つけ、すとんと気分が落ちてしまった。
「先輩。またですか」
「予備校の授業まで時間あるんだよ」
「図書館とか行ったらどうですか」
「人が多いとこ嫌い」
「とりあえず、そこどいてください。土ぶちまけるんで汚れますよ。みんな気を使いますから」
そう? と佐伯に見つめられた園芸部女子は頬を真っ赤にして頷いている。無駄に顔がいいのも考えものだ。
「遅くなりました」
どやどやと助っ人の男子たちが到着したので美登利は手で追い払うようなしぐさを見せる。佐伯は肩を竦めて階段を下りていった。
入れ違いに文化部長澤村祐也がやって来る。
「ねえねえ、まだ手伝ったら駄目?」
「来週、苗の植え付けを始めるから。そしたらお願いするから」
暗に「呼ぶまで来るな」と小宮山唯子に諭されて澤村祐也もしょんぼり帰っていく。
「よし、じゃあ今日で土の準備は終わるよう頑張ろう」
園芸部部長小宮山唯子の号令に皆はおーっと気合を入れた。
「今日は頑張ったなー」
「んー」
レーキやトンボで土を均す作業は思ったより重労働で、正人はうーんと体を伸ばす。
作業で出たゴミを運びながら芸術館の前を通るとピアノの音が聞こえてきた。
「澤村先輩かな」
「聞いたことある曲」
「あるある」
笑っている拓己の横で正人は思わず口走る。
「澤村先輩って委員長のこと……」
すぐに言葉を飲み込んだのだが拓己たちには聞こえていた。
「ああ。美登利さんのことあだ名で呼ぶよね。幼馴染でもさ、一ノ瀬さんや宮前さんとはまた違う感じ」
拓己は意外にも淡々と語る。
「一ノ瀬さんなんかちょっと突き放した感じがするけど、澤村先輩は子どもの頃のままなんだな、きっと」
「子どもの頃、可愛かっただろうな。中川先輩」
ぼそっと片瀬がつぶやきを落とす。
「片瀬ってけっこう言うよね」
拓己は苦笑いする。
「可愛いに決まってるだろ。写真とか見てみたいよなあ」
写真というフレーズで正人の記憶が呼び起こされる。この頃すっかり当たり前のように委員会の活動にとっぷり漬かってしまっていたが、もとはといえば。
(おれのガキの頃の写真で脅されたせい)
久しく忘れていた怒りがぶり返してくる。
反動とでもいうべきか、正人は自制がきかなくなりそうなほどに気が高ぶってくるのを感じていた。だから。
「みんな、おつかれさま」
「今日もありがとうね」
「しばらく土を寝かせるから作業はお休みだよ。苗が届いたらまたよろしくね」
和やかに皆が言葉を交わしあっている中、唐突に、正人は反撃を繰り出してしまったのである。
「そういうけどなあ、おれだってあんたの弱みを知ってんだぜ!」
皆が一斉に正人を見る。視線が自分に集まったことで一瞬怯んだ様子を見せたものの、正人はすぐに居直ったようにぐいっと目を据えて美登利の方を見た。
「なんなの、藪から棒に。大体なにさ、私の弱みって」
「言うもんか。言うんだったら、生徒全員の前で言ってやる」
「ずいぶん物騒なこと言うじゃない」
美登利の声のトーンがわずかに下がったのを察して横から拓己が正人の腕を掴んだ。
「やめろって」
「うるさい」
正人は邪険に拓己の手を振り払う。
「おれはもう、あんたの言いなりになんかならないからな!」
正人の宣言を聞いて拓己と片瀬は顔を見合わせ、坂野今日子は顔をしかめた。
これはもう暴挙としか思えない。
「ばか言わないの。私に弱みなんかあるわけないでしょ」
「嘘つけ。おれは知ってんだ」
「なにをムキになってるのかな、この子は」
「ガキ扱いしてんじゃねえよ」
「それで、どうしてあなたが私の弱みとやらを知ってるの?」
「それは……」
応酬の流れから口を滑らせそうになった正人は慌てて唇を嚙み締めた。
「本当は知らないんでしょう」
「知ってるっつってんだろ」
「なら言ってみなさいよ」
「言わないっつってんだろ!」
正人が吼えたとき、
「あいや待たれよ、ご両人」
時代がかった台詞が投げ込まれた。皆が視線を向けると、日の丸の扇子を持った人物がそこに立っていた。
「なんの騒ぎかと思えば、廊下の向こうまで聞こえていたよ」
二年生で体育部長の安西史弘である。際立った運動能力の持ち主で『万能の人』と呼ばれるほどの人物だ。
ちなみに性格は謎。彼の思考回路を解析できる者は皆無である。
そういう性格を反映してか競技においても彼のやり方は実にでたらめで、故に彼の記録は非公式に留められている。まともな人間から言わせれば、まさに宝の持ち腐れな人物なのである。
「なによ、あんたが口出すなんて珍しい」
「ここには有望な一年がそろってていいよなあ」
拓己から片瀬へ、そして最後に正人へと視線が向けられた。
きれいに日焼けした顔の中から茶色の瞳が正人を見据える。勢い余って握り拳を握っていた正人は思わず真正面から安西を睨み返してしまった。
「はははははは」
途端に安西が笑いだす。
「きみ! きみ、いいねえ! えーと」
こめかみに人差し指をぐりぐりしながら安西は一瞬目を閉じる。
「ああ、そう池崎! 感心だねえ、きみは。売られたケンカは買わずにいられないタイプだろう」
「そうね。売られる前から買うタイプだね」
美登利がまたしみじみ言うものだから正人は余計にムカついて目を吊り上げた。
「あんたに言われる筋合いはない」
「さっきからなんなの、その態度」
「ああ、そう。それなんだけどね」
閉じた扇子でぽんと手のひらを叩きながら安西がにこにこ笑った。
「こうしたらどうだろう。いいだろうこれなら! おもしろいし楽しいし」
「だからなにさ」
「だからね、ゲームにすればいいのだよ」
「ゲーム?」
船岡和美がオウム返しに訊き返す。
「そ。ゲーム」
楽しくてたまらない。うきうきした様子で安西はばっと扇子を開いた。
「聞いたか? またおもしろいことがあるらしいぜ」
「今度は体育部長の提案だろう。こんなことしてばっかだな、この学校」
翌日の朝。同じ一年生が話しているのを聞きながら校門をくぐった小暮綾香は、
深々とため息をついて教室に上がった。
「おはよ、綾香ちゃん」
廊下で須藤恵に手招きされて立ち止まる。
「聞いた?」
「まあ、なんとなくは」
「池崎くんと中川先輩の勝負だって。なにをするんだろう」
もういっそ、一度ボコボコにされてしまえばいいのだ、池崎正人なんて。そうしたら彼の眼も醒めるかもしれない。綾香は物騒なことを考える。
イライラした気分のまま午前中の授業を終え、綾香は昼休み、購買にジュースを買いに下りていく。
中庭で正人がひとりでパンをかじっていた。
「今日は学食じゃないんだ」
話しかけると正人はうんざりして答えた。
「うるさいんだよ。どいつもこいつも今日の放課後のことばっか。森村と片瀬は早く謝れとしか言わないし」
「そんなの自分が悪いんじゃない。騒ぎばっか起こして」
「それじゃまるでおれが悪いみたいじゃんか」
まったく自覚のない正人の言葉に綾香は呆れるのを通り越して落胆した。
自覚がない。この際それこそが大問題なのだ。
花壇の縁に腰かけた正人の向かいに、膝を抱えて綾香はしゃがみこむ。
「池崎くんてほんと、中川さんに対してムキになるよね」
てっきりものすごい勢いで反論してくると思ったのに正人は黙ったままだった。
見上げると、クリームパンを口の中に押し込んでむしゃむしゃしている。
しっかりと飲み込んだ後、正人はぼそぼそ答えた。
「見返してやりたいってだけだよ」
正人はわかっていない。自分のことをわかっていない。
綾香にはわかる。いつも彼を見ているから、気づいてしまった。
正人がいつも中川美登利を気にしていることに。
図書館の中でも奥まった、大型本が並ぶ書架の脇の机に美登利はいた。頬杖をついて行儀の悪い姿勢で植物図鑑をぱらぱら見ている。
隣に腰かけ誠は訊いてみる。
「安西はなにを考えてるんだろうね?」
「こっちが訊きたい」
ため息をついて美登利はますますぐてっとなる。
「どうせ面白がってるだけだろうけど」
「助っ人オーケー、チームを組むのもありだっていうけど、池崎くんはどうするんだろうね?」
「ひとりでやるって拓己くんに宣言したって。意地っ張りだよねぇ」
感情のあまり読み取れない調子でつぶやくのは意識してなのか。
誠は自分も頬杖をついて彼女と視線を合わせる。
「それなら俺が池崎少年に付こうかな」
ちらっと瞳が瞬いて、けれど美登利はすぐにくちびるを引き結んでそれをコントロールする。
少しの間の後、口を開く。
「あんたまで? みんなして池崎くんのことばかり。どうなってるの?」
抑えても抑えきれないものが早い口調に出てしまっている。誠はくすりと笑って見せる。
「それ、ヤキモチ?」
怒らせるつもりで言ったのに。美登利はゆっくり体を起こして背もたれに寄りかかり、空を見上げながら思いもかけないことを言った。
「私が男だったら、あんなふうだったかな」
考えもしなかった。
「どうだろう、タイプが違うだろう」
「タイプが違う……」
ゆっくりおうむ返しにし、美登利は苦く微笑んだ。
「そうか。ないものねだりなんだね、結局」
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
放課後である。
「ルールは簡単」
ピロティーに集まった人々を見渡して、安西史弘は手に持った小箱を掲げて見せた。
「池崎くんが握っているネタというのを紙に書いてもらってこの中に入れてある。この箱を今から校内のある場所に隠す。それを早く見つけた方が勝ち。簡単だろう」
「宝探しゲームってわけだ」
野次馬の中から声が上がり、安西はにこっと笑った。
「そう、ゲームだよ。校内のあちこちに隠してあるヒントを辿ってこれを見つける。助っ人の介入は何人でもオーケー。出し抜くなり蹴落とすなり大いに楽しんでやってくれ。ときに……」
やや声の調子を落として安西は続けた。
「中川委員長と相討とうという者はここで名乗りを上げてくれ。参戦を認めよう」
このときばかりはまわりの観衆もしんとなった。
「いないみたいだね。それではこの玉手箱は、中川委員長か池崎くんのどちらかの手に必ず帰結するものとする。ここにいるみんなが証人だ。いいね!」
体育部長の宣言に口を差し挟む者はいなかった。
「それでは、それぞれに別の最初のヒントを渡すよ。制限時間はあえてもうけない。勝負がつくまで存分にやってくれ。以上!」
美登利と正人の手にメモが渡される。
安西が軽く手を挙げ合図した。
「開始!」
だっと正人が校内に向かって駆け出す。それにつられて野次馬たちもバラけていった。
美登利はといえば、その場に留まったまま安西に鋭い目を向けた。メモを開いたときから表情が変わっていた。
「なんの魂胆なの。これは」
美登利に渡されたメモには、池崎正人がヒントのある場所を辿って最終目的地へ至るまでの経緯があらかじめ記されてあった。
「なにって試練だよ。若者には試練が必要だろう」
「池崎正人の能力がどれだけのものか知りたい」
安西の後ろから口を出したのは剣道部主将の尾上貞敏だ。
「私を利用するつもり?」
「とんでもない。言ったはずだよ、大いに楽しんでくれってね」
このタヌキ。罵ってやりたいのはやまやまだったが。
「せいぜい高みの見物してなさい」
踵を返して歩き出しながら美登利は後ろについてきていた片瀬に指示した。
「二班に連絡。図書館に急行、図書委員と連携して池崎正人を捕獲せよ」
「はい」
友人の身を慮ってか、このときばかりは片瀬も一瞬複雑な表情を見せた。
「始まったみたいだ」
風紀委員会室の窓からピロティーの方を窺った綾小路はその場にいた委員を呼びつけた。
「ケガ人だけは出ないようにしないとな。何人か連れて巡回に行ってくれ」
「はい」
まったく、修学旅行から戻ってすぐにこの騒ぎだ。仕事をしているのは自分だけとはどういうことだ。
めずらしく愚痴っぽいことを思ってしまい綾小路はいかんいかんと眉間を押さえた。
自分も疲れているのかもしれない。こっそりと綾小路は考えた。
防音の重い扉を開いて図書館に駆け込んだ正人は、探し回るまでもなく窓ガラスに張り付けられた紙を見つけた。
取り外し、二つ折りにされたそれを開く。中には『第三実験室』の五文字。
「よし」
さっさとその場を退散しようとした正人の前に四人の男子生徒が立ちふさがった。図書委員会の一年生たちだ。
「待て、池崎。図書館にあるものはすべて図書委員会が管轄するもの」
「よって貴様の身柄を押さえさせていただく」
「なに言ってんの? おまえら」
ぽかんとしている正人に問答無用でかかってくる。
それをかわしながら正人は怒鳴った。
「図書館では静かに、だろ!」
「おまえが黙れ」
「そうだ、おとなしくしろ」
んな理不尽な。要するにこいつらは妨害工作員というわけか。
それなら、と正人は思い切り体当たりをかまして彼らの包囲の外に出た。
書籍を積んだ台車を押していた一年生の女子がびくっと正人を見る。
「ごめんな」
一言投げかけておいて正人はノブを回して扉を押し開けた。
とたん、待ち構えていた中央委員の男子たちがなだれをうってのしかかってきた。
「……っ」
とっさに正人は身を屈め、スライディングで攻撃を潜り抜けた。
そのまま目の前の階段を駆け下りる。
「くそっ」
まだ始まったばかりだというのにこれである。油断はできない片時も。
「負けるもんか」
理科実験室の並びへ向かいながら正人は大いに意気こんだ。
ものの、第三実験室から体育用具倉庫、技術室へと回る間にも同様の妨害の数々をかいくぐり、次の指定場所へと向かう頃には正人にも疲れが見え始めていた。
最短距離で目的地へ向かおうにも必ずそれを阻まれる。回り道をして見張りの少ないルートを選んでいくのだが、どうにもこれが彼のような性格の主にはまわりくどくてイライラする。
それにもまして、これから向かわねばならないのは二年一組の教室。二年生の教室というのがどうにも不安をかりたてる。
案の定、
「あー来た来た!」
正人を出迎えたのは二年のお姉様方、だった。
「来たわね、池崎くん。待ってたわよ」
「……」
「キミが欲しいのはこれでしょう?」
ひとりが手にしているのが次の場所を記したメモのようだった。
「欲しいでしょう、池崎くん」
「そりゃあ」
「わたしにキスできたら渡してあげる」
瞬間、頭の中が真っ白になった。
「な、ななな……」
「いやん、かわいいー。池崎くんたら照れちゃって」
「さあさあ、やってちょーだい」
ふざけてる。非常にふざけてる! しかしここで一体正人にどうできるというのか。
心ならずもリタイアの文字が頭に浮かんだとき、天の助けが現れた。
「こら。純真な子をからかったりしちゃ駄目だよ」
「澤村くん」
「意地悪しないで渡してあげて」
「でも」
「みどちゃんはこんなことしろとは言ってないでしょう」
どこまでも穏やかな物言いだったが、効果は抜群だった。
彼女は肩を竦めて手にしたメモを正人に渡した。そうしながら、軽く澤村の方を睨む。
「澤村くんたらこの子の味方するの?」
「とんでもない」
柔和な面差しに穏やかな微笑をたたえて澤村は答える。彼女はもう一度肩を竦めて友人らと顔を見合わせた。
澤村に促されて一緒に教室を出たところで正人は口を開いた。
「あの……」
「きみにはみんな期待してるんだよ。頑張って」
優しい目で自分を見つめる澤村に正人は驚いてなにも言えなかった。
どうして自分を助けてくれたりしたんだろう。彼の背中を見送りながら正人は首を傾げる。だって、あの人は。
正人はふるふると首を振って雑念をはらった。そんなこと気にしてる場合ではないのだ。
「次、次!」
手にしたメモを開いた正人は次の瞬間凍りついた。
『Spring Mountain』
そう記されたメモを見て正人は何度も頭をひねった。それまでのメモにあったようにどこか場所を示しているのだろうが、それがどこやら見当もつかない。
「池崎! やってるか?」
「頼むから勝ってくれるなよ。オレおまえが負ける方に牛丼大盛賭けてんだから。ま、八百長頼むまでもないか」
「うるさい」
野次を飛ばしてくる同級生たちを避け、正人は渡り廊下の端に蹲って頭を掻いた。
スプリングマウンテン。春の山。そんな場所は校内にはない。さっぱりわからない。
「うーむ」
「なにを唸っているんだい」
背後からの声に正人は死ぬほど驚いた。
いつのまにかすぐ後ろから一ノ瀬誠が彼の手元を覗き込んでいた。
(気配、しなかったぞ)
首を竦めた正人はメモを誠に差し出した。
「ふーん」
目を落として思案していた誠はすぐに苦笑しながらつぶやいた。
「あいつ、旅行気分が抜けてないな」
「……?」
「連想ゲームと中学生の社会だよ。春は方向でいえば東だ」
「東の山、ですか」
「京都の東山だよ。東山文化を代表する建造物といえば?」
正人は慌てて頭の中で教科書をめくる。
「銀閣寺、ですか?」
「造ったのは誰だい?」
「八代将軍足利義政」
「数字の八と言われればまっさきに浮かぶ場所があるだろう」
正人は「あ」と声をあげた。
「八号室!」
三年生のクラスの並びにある空き教室で、本来三年八組に割り当てられるべきところを七クラスしかないので使用されずにいるためそう呼ばれている。プレイルームとも呼ばれ、委員会やクラブで使用されたりもするが基本的には使われていない机や椅子が積み重ねられた物置的な部屋だ。
「間違いないと思うよ」
「はい」
謎が解けたことに素直に喜んだ正人だったが、またまた首を傾げてしまった。
「いいんですか?」
「なにが?」
「手助けなんてしてくれて」
誠は黙ったまま曖昧な表情で曖昧に微笑った。
こういうところがこの人のクセモノなところだと正人は思う。
疑問は残ったが、正人は礼を言ってその場を走り出した。
その姿を遠く物陰から見ていた人物がいた。安西史弘である。
「澤村といい、一ノ瀬といい」
なんだって池崎正人を手助けしたりするのか。
付き合いの長い安西は知っている。誠も澤村も表向きは穏やかな顔をして、その実他人のことなど知ったことではない非情な一面を持っている。その彼らを動かすとは。
「おもしろい」
口に出してつぶやいてみて、安西はふふ、と笑った。
「あった」
八号室の積み上げられた机の陰、後方の黒板に張り付けられたメモを見つけて正人は叫んだ。次の指定先は……。
メモを広げようとしたときおもむろに扉が開いて中央委員会の男子たちがぞろぞろ入ってきた。
「池崎!」
仁王立ちして声をあげたのは森村拓己だ。
「そこまでだ。観念しろ」
「おまえらさっきから人を犯罪者か何かみたいに」
「似たようなもんだろ。押さえろ!」
拓己たちが動く前に正人は逃げるが勝ちとばかりに教室を飛び出した。
「行ったぞ!」
背後から拓己が怒号する。
正人の進行方向、床から数十センチのところに不意に紐が張られた。足払いのつもりだ。
正人はジャンプしてそれをかわす。それだけなら簡単だった。が、
「く……っ」
着地した足を狙って何かが飛んでくる。
正人は前のめりにつんのめるようにしてなんとか避ける。
そこにはカッターナイフとコンパスが突き刺さっていた。片瀬が無言で更に新手のエモノを構える。
「……ッ」
正人は素早く階段を駆け下りていった。
「逃がしたか」
「サル並みにすばしっこいやつ」
「追いかけるか?」
拓己は首を横に振った。
「ぼくたちの役目はここまでだ」
妨害が熾烈になってきている。ゴールが近いということか。
階段を下りきり廊下の角を曲がったところで正人はひとまず息をついた。
手の中に握りこんでいたメモを開く。
『なんとかは高いところが好き』
「なんじゃこりゃ」
正人は再びため息をついた。
とりあえず高いところに行ってみるか。高いところ、屋上。
ゴールが近いと感じたことで気がはやって仕方なかった。昇降口前の廊下を走り抜けようとした正人は、だが、足を止めないわけにはいかなくなった。
「廊下を走る悪い子は誰かしら」
中央委員会書記の坂野今日子だった。いつもにもましておっとりと、正人の前に歩み出てきた今日子が手にしていたのは薙刀である。
「先輩」
ゾッと正人は後ずさった。競技用の竹製とはいえ、思い切り遠心力をつけて殴られたら吹っ飛ばされそうだ。これはとてもシャレにならない。
「美登利さんが笑っているうちは許すけれど、本気であの人を困らせるなら私はあなたを許さない。いい機会だから、言っておくね」
にっこり言い放ち、とりあえず今は、と今日子はすっと身構えた。
「少しばかり邪魔をするからそのつもりで」
立ち居振る舞いはあくまでおっとりと、今日子が薙刀をふるう。
正面突破だ。決意して正人は駆け出す。
直後、普段からは想像もつかない気合と同時に今日子が動いた。ゆるやかに孤を描いていた切先が鋭い突きに替わる。
「わ……」
かわした正人の前髪が刃風で舞った。
ヘタッと腰を落として手をついた正人の鼻先に今日子が刃部を突きつけた。
「降参しなさい。池崎くん」
「いやです」
きっぱり言い切る。今日子は厳しい口調でもう一度言った。
「降参するのよ」
「いやです!」
正人は跳ね起きると薙刀の柄の部分を思い切り引っ張った。とっさのことに今日子はバランスを崩す。
すると正人は脱兎のごとく逃げ出した。ただひたすら前へ。まことに賢明な判断といえるだろう。
ふう、と肩を落とし今日子はそれを見送った。
一方の正人である。
「こ、怖かった」
まだ心臓がばくばくいっている。
なにが怖いって別に薙刀が怖かったわけではない。あの坂野今日子が武器を振り回したことが怖かったのだ。
(あの人だけは怒らせないようにしよう)
それ以前に美登利に歯向かっていれば今日子を敵に回したも同じなのだが、その辺のことには正人は気がつかない。
とにかく、確信できたことがある。
(ゴールは近い!)
屋上への扉を勢いよく開け、正人は辺りを見渡した。
いつも作業に来ていて見慣れた光景。今は花壇に均された土が静かに眠っている。
とりたてて目につくものはない。もっと高いところ? ペントハウスの上か。
はしごのある方へ回った正人ははっとする。中川美登利がいた。
「早かったね」
「……」
「待ってたの。このまま私が勝っちゃったらつまらないもの」
あごを引いて正人はこぶしを握った。
その顔を見て美登利はくすりと笑う。
「どこかで私たちを見てる連中もそう思ってるでしょうから」
意味のわからないことを言われて正人は気を逸らしてしまう。
その隙に美登利が動いた。
まともに足払いをくらって体が倒れる。そのまま首を抑え込まれた。
「卑怯だぞ」
「ケンカにルールなんてない」
「上等じゃんか!」
正人は力任せに自分の首を掴んだ美登利の腕を引っ張った。
反動を使って跳ね起き、立ち上がりざま振りほどいた手を拳固に握る。
だが正人が踏み込む前に美登利が懐に飛び込んできた。襟元と袖をがっちり取られた。
(……ッ!)
正人はとっさに膝を曲げて腰を落とす。なんとか投げられずにすんだ。
揉み合ったままじりじり睨み合う。そのとき正人は視界の隅で捉えた光景に、勝負のことも忘れてぽかんと口を開けてしまった。
「?」
正人が自分の背後を見上げているので美登利も振り返る。
「あった、あった。あったよ」
のほほんと手を振っているのは。
「生徒会長」
呼ばわる正人の前で美登利は額を押さえた。
「卑怯者」
「おまえが言えた義理じゃなかろうが」
下りてきた誠に悪態をつく美登利の様子に正人は怪訝な顔をする。
そんな正人に誠は手にした小箱を差し出した。
「はい。君の勝ちだよ」
正人は再びぽかんと口を開ける。穏やかに笑っている誠を見、いまいまし気に腕組をしている美登利を見て、再び誠を見る。
「俺は君の助っ人だからね」
寝耳に水もいいところで俄かに信じられなかったが「さあ」と箱を差し出されて正人はそれを受け取った。
美登利はくどくど恨みがましいことを言わなかったがくちびるを引き結んで誠を睨んでいる。
正人は手の中で小箱をもてあそんだ後、それを美登利に突きつけた。
「おれ、これで勝ったなんて思いたくないです。だから、これはいらないです」
美登利は目を瞠って正人を見つめる。
「いいの?」
誠が訊く。
「はい」
「でも……」
反駁しかけた美登利の肩を誠が抑えた。その顔を見て、美登利は素直に肩を落とした。
「まったく。私の弱点なんて誰に吹き込まれたのか知らないけれど、そんなものあるわけ……」
言いながら箱を開けた美登利だったが。
「!!!!!!」
その日、池崎正人は、中央委員会委員長中川美登利が悲鳴をあげる姿という、めったにお目にかかれないシロモノを目撃した数少ない人間のひとりになった。
「勘弁して勘弁して勘弁して。早くそれやっつけてっ」
顔を青くして美登利は誠にしがみつく。
慣れた様子で彼女を宥めながら誠は足元に視線を落とした。美登利が放り出した白い箱の間から見える黒い影。
実は正人は、紙にネタの内容を記せと言われていたのだが、彼なりの遊び心で彼女の弱点そのものを入れておいたのだ。つまり、ゴム製のゴキブリを。
『あいつはなあ、ヘビだのクモだのムカデだのナメクジだのは平気なくせして、ゴキブリだけはてんでダメなんだ。あの触角と光る羽が気色悪いんだと。作りモンだとわかってもあいつ飛びのくぜ』
宮前が言うのだから間違いないのだろうが、まさか中川美登利ともあろう者にそんなか弱い面があるとも思えず、効果のほどにはそれほど期待していなかった。それなのに。
「大丈夫。おもちゃだよ」
「おもちゃだろうとなんだろうと早くどっかにやってよ」
ぎゅうううと力いっぱい抱き着かれて誠は動けない。
美登利の過剰なまでの反応に、正人はしてやったりと思うのも忘れて唖然とした。
「なるほど。勝ちを譲って勝負に勝つか。見事じゃないか」
ふむふむ、と顎を撫でる安西に尾上は憮然として反論した。
「勝敗にこだわらずしてなにが勝負か」
正人のやりようを尾上は気に入らぬようだったが、
「いやだなあ。勝ち負けにこだわる執念なんてそんなもの、そう言う君も持ち合わせてなんぞいないだろうに。人のこと言えないよ。もちろんこのボクだって。君の言うこだわりを持ってる奴が一人でもいればわが校の運動部はもう少し活発になってるだろうに、なんとまあ、勝負魂のない奴ばかりが集まってしまったものだよね」
悠々と語られて口をつぐんだ。単に、めずらしく安西がまともなことを言ったのに驚いて気を呑まれただけだったのだが。
「反対に攻撃的な連中が文科系に集まってしまってるから参るよね」
なんにしろ、扇子を開きながら安西は唇の端を吊り上げた。
「池崎正人の能力は十分見せてもらったよ」
これには尾上も無言のまま頷いた。
「しかし、中川の弱みというのはなんだろう?」
「それは知らぬが花だろう」
「終わったみたいだな」
「そうですね」
中央委員会室に顔を出した綾小路に坂野今日子はにっこり頷いた。
「ときに坂野くん。いくらなんでも校内であんなものを振り回すのは危険だろう。うちの連中が恐ろしくて止めにも入れなかったと言っていた」
「怪我はさせない自信はちゃんとありましたから」
「そうか」
「はい」
反論の余地をなくして綾小路は眼鏡のフレームを持ち上げた。
「しかし池崎少年の主張していた中川の弱点というのはなんなのか」
「さあ」
「本当だとすれば情報の出所は一目瞭然だがな」
「そうですね」
今日子はにこにこと「血を見るでしょうね」と恐ろしいことを口にした。それに対して綾小路は「自業自得だろう」とにべもなく言い捨てた。
自室のベッドで夕寝をしていた宮前の耳に騒がしく階段を上がってくる足音が聞こえた。
重たく瞼を上げたのと同時にドアがばん、と開く。宮前は「げ」と体を起こした。
「あんたって、あんたって人はああぁー!」
「お、おお、落ち着け! 俺はなにもやっとらんぞ!」
「ばっくれてんじゃないわよ。よくもバラしてくれたわねえ」
「あいつ! 言うなって念押したのに」
「言われなくたってわかるわっ。あんたしかいないでしょうがっ。この、おしゃべりがあ」
両のこめかみをぐりぐりと渾身の力できりもみされて、宮前は子どものようにわめく。
それを誠が苦笑いして見ている。もちろん助けはしなかった。