Episode 39 天使転落
本当に小さな子どもの頃は簡単だった。いちばん好きなのはお兄ちゃん、言うまでもない。次が誠ちゃん、やさしいから大好き。宮前も面白いから好き。
あとはみんな同じぐらい。社長の子ども連中は大嫌い。高田はうざい。
もちろん両親は特別だ、お父さんもお母さんも大好き。
順番を付けるのは簡単で優先順位に迷うことなんてなかった。
――ばかだなあ。おにいさんとはケッコンできないんだよ。
迷いが出始めたのはそれを知ったとき。
――それならまことちゃんとけっこんする!
言ってやりはしたけれど、後になって気がついた。お兄ちゃんが駄目なら誠ちゃん、なんてかわいそうだったかな、誠は笑っていたけれど。
『ほんとに結婚する?』
『うん』
約束したけれど、そのことがずっと心に引っかかっていた。だってやっぱりいちばん好きなのはお兄ちゃん。結婚っていちばん好きな人とするんじゃないの?
さすがにその疑問はしばらくして解けた。兄妹はどうしたって結婚したりはできない。たとえいちばん大好きでも。
そこでまた思う。結婚がいちばん好きな人とするものなら、自分がいちばん好きなのは誠なはずで、それなら、お兄ちゃんをいちばん好きっていうのはおかしいの?
――おかしいんだよ。
自分は、おかしいからわからなかった。優しい誠が無理をして態度が冷たくなっていくのが怖かった。だから楽になってほしくて言った。
――誠はお兄ちゃんとは違うよ。
間違えて傷つけた。
『僕は巽さんの代わり?』
ずっと引っかかっていたことを誠も感じていたのだ。違うよ、と重ねて言ったけど彼がわかってくれたかどうかはわからない。自分でだってわからなかったから。
お兄ちゃんはお兄ちゃんだし、お兄ちゃんとはこんなことはしない。初めてキスをしたとき心に言い聞かせた。キスするのは彼にだけ。それなのに、
――君はさ、男として兄貴が好きなんだろ。
その通りだ。兄と自分の世界に誰かが入ってくるなんてありえない、許せない。
離れてしまってからは会いたい、そればかりで心はいっぱいで。
こんなふうに思うのはお兄ちゃんにだけ。会いたい、会いたい。好きだから。こんなに好きだから。
でも、それなら誠は? 結婚しようねって言った。大好きだよって言った。
好きだよ、ちゃんと好き。代わりなんかじゃない、ちゃんと好き。なんて欲深い自分勝手な感情。
ならばなおさら、気持ちは言えない。誠は敏い。なにを言っても悟られてしまう。
どうせ自分は一つのことで頭がいっぱいになってすぐにまわりが見えなくなってしまう。なにを言ってしまうかわからない。
それならもういっそ、なにも言わずにいよう。間違えたくない、傷つけたくない。
気持ちを言うのが怖い。なにも知らないでいてほしい。
狡くていい、汚くていい。そんな自分を知られたくない、知られたくない。
その身勝手な願いがまた彼を傷つけて、遠ざけて。
それでも自分は相変わらず兄に捕らわれたままで、もうなにがいちばんかもわからない。
自分ではなにも決められず、迫ってくる現実をどうにかこうにかやりすごすだけ。
考えて決められるのはただひとつ、学校のことだけ。
――学校をつくるからね。みんなが自分のやりたいことができる学校を。楽しいよ、きっととても。
楽しかった、とても。ひとりよがりだった自分に皆が優しくて。
離れるのは寂しい。とても寂しい。
「離れたくない」
自分が声に出したのかと思った。
「先輩と離れたくない」
いけない、と思った。
「あなたが見ていてくれなきゃ駄目なんだ」
この子はまっすぐすぎて自分には対処しきれない。
「あなたのことが好きだから」
(どうしてそんなこと言うの)
言わないでほしかった。なのに彼はおかまいなしで、これまでの男たちとは違う、平気で自分の意向を無視する。
それは、計算ずくで追い詰めてくる村上達彦のやり方とはまったくの別物で、美登利にはまるで予測がつかない。
なにを言っても傷つけてしまう。わかるから美登利は一瞬体を凍りつかせた。
こういうとき、通常彼女が取る行動は二パターン。冷たい笑顔で「私は違う」と切り捨てるか、好ましく思える相手ならば黙って微笑む。
惜しいと思える人物ならば、それだけで彼女の意をくんで上手く立ち回ってくれた。
池崎正人は彼女にとっては好ましい。本当は手元に置いておきたい。でも、自分の欲深さを思い知った今は、もうそれはできない。
執着するのはやめようと決めた。手放して、身軽になると決めた。
「私は違う」
身を切る思いで言い捨てる。そしてせいぜい辛辣なことを言ってやろうと思ったのに言葉が浮かばない。冷たく笑ってやろうとしたのに頬が動かない。
そんな彼女を見つめて正人は言った。
「違わない。先輩もおれのこと好きだろ」
駄目だ。美登利は全身が脱力するのを感じた。顔を上げていることもできずに背を丸めて俯く。彼は駄目だ。
「違う、好きじゃない」
「信じない。あなたは嘘つきだから」
そうだね、彼から見たらきっとそうだ。自分では嘘か本当かなんてわからない、自分がいちばん自分を信じていない。だから言い聞かせる。
「好きじゃない」
「わかるんだ」
膝に顔を埋めたすぐそばに、彼の眼差しを感じる。
「わかるんだ、先輩はおれを好きだって」
――考えるな、感じろってことですよ。
「わかるんだ……」
驕りなんかじゃない。今も感じる。本当は優しい、彼女の気遣いを。
なにが怖いの? なにが辛いの? なにを恐れてそんなふうなの。
「私は違う」
「先輩」
「あなたと私じゃ違いすぎる!」
顔をあげた彼女の瞳は濡れていた。
「私はおかしいから、わからないからあなたを傷つける。傷つけて歪めてしまう。あなたのそういう、正直でまっすぐなところが好きなのに」
はっと正人が目を瞠る。
美登利は両手で顔を隠してまた俯いた。
「もう一度言って」
彼女は頭を振る。
「お願い」
「好き……」
正人は力づくで、でもゆっくりと彼女の手をはずさせる。
眉根を寄せて涙をこぼしながら美登利は彼を見る。
「好き」
「うん」
「でも違う、違う……」
「一ノ瀬さんがいるから?」
「そうだよ」
でもそれだけじゃない、と彼女は正人の手を振り払う。
「私は欲が深いからなんでも欲しがる。狡くて汚いから、あなたを好きだからってなにもしてあげられない。おかしくて歪んでるから必ずあなたを傷つける。誠だって……」
ぎゅっと手を握って美登利は涙を落としきる。
「小暮さんのところに戻って。あなたには彼女が合ってる」
「どうしてそんなこと言うんだ」
「私は誰かを幸せにしてあげられる女じゃない。あなたが好きだから言ってるの」
「勝手に人の幸せを決めつけるな!」
我慢できなくて正人は声を荒げた。
「他のことならなんだって従う、だけど自分の居場所は自分で決める! おれは……あなたがいなくちゃダメなんだ」
「……」
「ダメなんだ……」
日が暮れて風が冷たくなっていた。正人の手も、彼女の手も震えていた。
コートのポケットで美登利の携帯が鳴った。
「……ごめん……うん、戻るよ」
志岐琢磨のようだった。
「戻るね、さようなら」
「おれは諦めない」
もうなにを言ったらいいのかわからない。美登利は黙って背を向けた。
翌日から一週間以上も自分は寝込んでしまったらしい。自分ではよく覚えていない。
母親が言うには深夜に発熱して呻いていたらしい。夕方寒風に当たったせいだろうとは思うが、それにしたって弱すぎる。
熱でもうろうとしている間に入れ代わり立ち代わり皆が見舞いに来た。
「大丈夫ですか? 苦しいですか?」
「受験終わった後で良かったね」
泣きそうな顔の坂野今日子の隣で船岡和美は至極冷静だった。
宮前仁もやって来た。
「なに寝込んでんだよ、おまえ。弱っちくなったな」
本当だよ。相槌を打ちたかったが言葉にならなかった。
数日後には池崎正人が来た。
「坂野先輩が教えてくれて」
やっぱり泣きそうな顔をしてベッドの脇に座った。
「おれのせいだね」
「誰かのせいなんてないんだよ」
力の入らない声だが話すことができた。
「罪悪感を感じるなら、それはおれのせい」
正人が言うのに美登利は力なく笑う。
「そう言うなら先輩だってそうだ」
静かに正人は話し続ける。
「おれが先輩を好きで、それでなにをどう感じようとそれはおれのせいで、それを先輩が自分のせいみたいに言うのはおかしい」
かすかに美登利は目を見開く。
「傷ついたならそれはおれのせい。先輩の責任なんかじゃない。そんなふうにおれの恋を邪魔しようとするのは、あなたの思い上がりだ」
驚いて眉を寄せる美登利に、正人はすぐに笑って見せた。
「言いすぎました。ごめんなさい」
いつか聞いたセリフに美登利も頬をほころばせる。
「池崎くんていいよね。男の子らしくて」
「おれのこと好き?」
黙って頷く。でも、といいかけるのを正人は顔をしかめて遮った。
「なにも言わないで。あとはおれが考える。あとはおれの問題だから。だけどひとつだけ許して。そばにいていいよね?」
「考えておく」
「……狡いなあ」
目を上げて正人は室内の様子を見渡す。
「先輩の部屋って物がないね。寮の部屋みたい」
「小暮さんのお部屋は女の子らしく可愛らしいんでしょうね」
「それ、仕返し?」
「……」
彼女が疲れた様子だったから正人はそっと立ち上がった。
「帰るよ」
そこでようやく後ろの机の上に飾ってあるものに気がついた。スタンドに正人が贈ったオーナメントが下がっている。素直に嬉しい。だが、
(どうしてもうひとつあるんだ)
猛烈に気になったが美登利はうとうとしだしていて訊けなかった。
そうはいっても彼はいずれ小暮綾香の方へ戻るのだろうな。浅い眠りの中で美登利は考える。
欲深くあれもこれもと欲しがったところで、しっぺ返しのようになにも手には残らない。巽は離れていった。誠だって本当は……。
思っていたら本人が目の前にいた。
「勉強は?」
「試験終わったよ」
「そうか」
他人事ながらほっとした。実は自分も気を張っていたのだと気がついた。目が熱くなる。
「なにをやってるんだ、おまえは」
「ねえ」
「みんな心配してる」
「うん」
「卒業までには元気になれよ」
頷いてから、言ってみた。
「どこに遊びにいくか考えておいて」
「俺が決めていいのか?」
「たまにはね」
彼はいつだって自分の言うことを聞いてくれる。たまには彼に決めさせてあげなくては。
弱々しく笑う彼女の顔を見て誠は内心眉をひそめる。病気のせいだろうか、明らかにおかしい。
「ねえ、覚えてる?」
まただ。春にも同じことを訊かれた。同じことを訊いているのだ。
だけど誠にはなんのことだか特定ができない。
「覚えてるよ」
嘘じゃない。彼女との思い出で覚えていないことなどない。
「約束するから」
かすかにささやいてうとうと寝入ってしまった。
額に張り付いた髪をそっと撫でる。眠っていることを確かめてから後ろを見る。
机の上、ふたつのオーナメントが下がっている。
彼女にしては痛恨の失態だ。こんなものを自分の目に触れさせてしまうなんて。
なにを考えている? 言い知れぬ不安が沸き起こってきた。
最後に巽の夢を見た。枕元に頬をのせて彼女の顔を覗き込んでいる。
夢に決まってる。だって兄は別の女性のところへ行ってしまった。自分のところへ来るわけがない。
思ったら涙があふれてきた。
お兄ちゃん。
「どうしたの? 苦しい?」
苦しいよ、ずっとずっと苦しいよ。
「かわいそうに」
嘘つき、嘘つき。ずっと一緒だよって言ったのに、どうして離れていっちゃうの?
――君から逃げたんじゃないの?
私がおかしいから?
「大丈夫だよ、きっともう良くなるからね」
そんなふうには思えない。どんなに頑張っても自分の心は安らがない。
「あと少しの我慢だよ」
我慢なんかもうできない。そりゃあ、いちばんの身勝手は自分だ。よくわかってる。
でも現実が、人々の思惑が、重たく感じることがある。自分が何者なのか、ますますわからなくなる。
「大丈夫だよ、大好きだよ」
苦しい、苦しい。
「お兄ちゃん、ぎゅってして」
巽の両手が布団から伸ばした手を包み込んでくれた。
「泣かないで、大好きだよ」
「うん」
「そばにいるよ、ずっとだよ」
「うん……」
なんていい夢なんだろう。願ってもかなわなかった夢だ。
夢も、果たされた約束も、なにひとつない。だからこそ、なんていい夢なんだろう。
眠った妹の手を布団の中に戻して巽は静かに部屋を出た。
「どんな様子?」
ちょうど階段を上がってきた母に尋ねられた。
「ずっと眠ってる」
「そう。どうしちゃったのかしらね、最近になって寝込むことが多くなって。以前は丈夫な子だったのに」
「疲れてるんだよ、今までよく頑張っていたから」
「そうね……。巽さん、お夕飯は食べていく? 最終に間に合えばいいのでしょう」
「うん」
「お父さんも定時で帰ってくるそうだから」
「それまで部屋で休んでます」
「そうしてちょうだい」
すっかり物の少なくなった自室に入って、巽は床に蹲る。
泣かないで、君が泣くのはなにより辛い。泣かないで。
心はずっとそばにいる。愛してる、愛してる、泣かないで……。
次に目が覚めたとき、嘘のように気分はすっきりしていた。
普段はあまり夢など見ないのにたくさんたくさん夢を見た。全部忘れてしまったけれど。
パジャマのままリビングに下りていくと、幸絵がびっくりした顔をした。
「大丈夫なの?」
「うん。なんか、今朝はすっきり」
母の暖かな手がおでこに触る。
「ほんと、熱は下がってる。でも念のため今日は大人しくしてなさい。明後日は卒業式だし」
「明後日……もうそんな?」
「お友だちに連絡しなさいね。みんな心配してたよ」
「はい」
午前中はパジャマのまま電話をしたりメールを打ったりした。
もう気分は悪くない。頭はとてもクリアーだ。外に出たくて仕方なかった。
「しょうがないわね、気をつけるのよ」
昼食をしっかり食べたらお許しが出た。
バス停までの道をゆっくり歩く。
芝生広場のベンチで誠と宮前が話をしていた。美登利に気がついて宮前が走って来る。
「ばっか、おまえ。もうふらふら出歩いて。大丈夫かよ」
「大丈夫だよ。一夜にして復活した気分」
「おまえなあ、汗たらしてうんうん唸ってたんだぞ。死ぬほど苦しそうだったぞ」
「そうなの? 覚えてない」
「まったくおまえはよぉ」
「ロータス行くのか?」
ようやく誠が追いついてきて言う。
「ううん、バイトはまだ後にしてリハビリでぐるっとしてくる」
「ついてくか?」
「ひとりで行く」
「そうか」
バスに乗り込むときに美登利は言った。
「じゃあ、卒業式で」
「卒業式で」
駅前でバスを降りて大通りを渡ろうとしていると、信号待ちで村上達彦とかち合った。
「寝込んでたって聞いたけど」
「よくなりました」
自宅に帰るところらしく一緒に歩くことになってしまう。
「お早いお帰りですね」
「俺は仕事が早いんだよ。手、見せて」
「手?」
「病気すると手がやつれんだよ。指輪とかすぐにスカスカになる」
美登利の手を取って言う。
「ほら、指がガイコツみたいだ」
ついでに指を絡ませてきたのでぺしっと振り払う。
「ひどいな」
「確かに、思ったほど力が入らない」
「だろ? 体力だってないはずだ、養生しろよ」
「そうします」
「素直で気持ち悪いな」
「病み上がりなんで」
「口説きがいがないな。早く完全復活しろ」
達彦と別れて河原の芝生に座っていたら、思った通り池崎正人が自分を見つけて駆け寄ってきた。
「大丈夫なの?」
「おかげさまで元気だよ。お見舞いありがとう。お花をくれて母が喜んでたよ」
正人は美登利の隣に座る。
「好きにするといいよ」
「え?」
「私も好きにする」
「うん」
「あなたの気持ちの責任は取らない」
「いいよ。それで」
寝込んでいた間に春が近づいてきたことが日差しの暖かさでわかる。
「先輩、卒業だね」
「だねえ」
「お祝い、なにが欲しい?」
「欲しいもの? 心の平安かな」
「そういうこと言うのはやめろ」
くすっと美登利は笑う。
「なにもいらないよ。心をくれたでしょう?」
急に照れくさいことを言われて正人はドキリとする。
「もうなにもいらない」
どういう意味、と不安になる。
美登利は黙って水面を見つめていた。




