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Episode 38  それぞれの言い分

 大晦日と三が日を実家ですごした池崎正人は翌日早々に寮に戻った。一番乗りかと思ったが森村拓己が先にいて帰寮の手続きをしていた。

「おめでとう。池崎」

「今年もよろしく」

「久々の実家どうだった?」

「まあまあ」

「大人になったなあ、おまえもさ」

 拓己は時々こんなふうに嫌味を言ってくるのが定着している。今までのあたりさわりのない態度が演技で、こっちが拓己の本性なのかもしれない。そう思うと微笑ましくて腹も立たない。

「須藤の話だと小暮は休み中ずっと引きこもってるって」

 さすがにこれは胸にチクリとくる。

 返す言葉もなく黙っていると拓己はずいっと紙袋を押しつけてきた。

「どうせ行くんだろ。美登利さんにお土産渡しといて」

「ああ」

「それと、春にはまた来いよ。人手がいるから」

「ああ!」


「いらっしゃいませ」

「おう、池崎。おめでとさん」

 カウンター席の奥で宮前仁が手を挙げてくれたが肝心の中川美登利の姿がない。

 声はしたはずと見回すと、テーブル席の方にいた。腕を組んでテーブルの上のオセロ盤をじっと睨んでいる。向かいには新聞を広げた村上達彦。

「だめだ、また勝てない」

 目を閉じて美登利は悔しそうにつぶやいた。

「だから角をやるって言ってるだろ」

「私だって弱いつもりはないのに」

「学習と実践が足りないんだよ」

 疲れたように腰を上げた美登利に代わって宮前がそっちに座る。

「次、オレお願いしやす」

「角をみっつやる」

「どうせなら全部で」

「いいよ」

 カウンターへ来た美登利に正人は紙袋を差し出した。

「お土産、おれのと森村のと」

「どうもありがとう。待っててね」

 コーヒーの香りと一緒に美登利が隣に座ってくれた。

「里帰りはどうだった?」

「ぼちぼち。ケンカもしなかったし」

 兄の勇人が話していた通り、両親は別居状態を解消して母親は父の元へ帰ることになった。それに先立って正人も一緒に帰省したのである。

 正人も久々に母親に会って入学準備の御礼をやっと言うことができた。親なんだから当然と笑った母親は涙ぐんでいて、もっと早く会いに行くべきだったと後悔した。自分はいつも配慮が足りない。

「よかったね」

 落ち込みそうになったが、美登利が微笑んでくれたからそんなことはどうでもよくなった。

「勇人はどうすんだ。就職したばかりだろ」

 いつのまにかカウンターの中に志岐琢磨がいて正人は驚く。さっきまでいなかったはずだが。

「兄貴は祖母の家に残るって。もう高齢だし、だれか同居した方がいいって」

「おう、いいことだな。でもいずれは戻るんだろうな、後継ぎだし」

「どうなんすかね」

「くっそー、マジで負けた」

 テーブルで宮前が声をあげた。

「おまえ弱すぎ」

「巽さんとならどっちが強いっすか」

「やったことないからなあ」

 そこで琢磨が美登利に訊く。

「巽はもうあっちに戻ったのか」

「うん。昨日の夕方」

「ああ、そうだ。巽さんが彼女連れてきたってマジ?」

 宮前がへろっと言うのに、琢磨はしまったと顔をしかめる。案の定、達彦が固まっている。

「連れてきたねえ」

 思ったより美登利が普通そうで逆に琢磨は心配になったが。

 こっちに寄ってきた宮前が興味津々で正人に尋ねる。

「池崎は夏に会ったんだろ、その彼女さん」

「はい、まあ、面白い人っす」

「町内中の噂だってからさ。おかんが騒いでた」

「困っちゃうね。別にさ、ハタチもすぎてるんだし普通のことじゃない。たしかにあのお兄ちゃんが僕の両親です、なんて人並みにやってる姿は笑えたけど」

 聞いてられなくて、琢磨は慌てて財布を取り出した。

「おい、おまえら。これで豆とフルーツ買ってこい」

「なにさ、急に」

「好きな豆選んでいいぞ」

「アイスも買っていい?」

「いくらでも買ってこい」

「やった、行こう」

 美登利がエプロンをはずしてコートを持ったので、正人も立ち上がって琢磨に会釈した。

 三人が商店街へ向かうのを見届けて琢磨は胸を撫でおろす。

「巽が、なんだって?」

 はあっと煙草に火を点ける。

「おまえも吸うか? 我慢してんだろ」

「巽がなんだって? 知ってること全部話せ」

「知りたきゃ出すもん出せや。それ相応じゃねえと全部は教えらんねえよ」

 達彦は舌打ちして自分の財布を取り出した。


 気を使わなくていいのに。琢磨の見え見えの行動に美登利は苦笑する。

 まあ今頃は、人の傷心をネタに荒稼ぎしているのだろうが。どうしたって達彦は知るのだろうから別にかまわない。なにをどう知っているのか探りを入れるのも疲れるし、琢磨が話すのならそれはそれでかまわない。

 だったらこっちも散財してやろう。にやりとして美登利は男たちを誘う。

「寒いからお汁粉食べに行こう」

「岡西な。行こう行こう」

「美味しいんだよ、池崎くん知らないでしょ」

「いいのか?」

「タクマはこんなことで怒らないよ」

「ったく、付け上がってるよな。おまえはよ」

 楽しそうな美登利に宮前が改めて訊く。

「で、巽さんは卒業したら帰ってくるのか?」

「いや、彼女さんとあっちで一緒に暮らすんだって」

「へーえ」

「へーえ、だよ」

 もう笑いしか出てこない。夏にあんなに泣いたのが嘘のように、今度は涙も出なかった。両親と談笑する榊亜紀子を見ていても、兄と微笑み合う様子を見ていても、心は不思議とざわめかなかった。嘘のように、さざ波ひとつ立たずに凍りついたように。

 風は冷たいが天気が良かったから店先のテーブルで三人でお汁粉を啜った。

「美味しい。上品な甘さ」

「先輩は甘いものなんでも好き?」

「うん。でもチョコは別格。つやっつやのチョコケーキならなおさら」

「つやっつや……」

「わかるぞ池崎。女って男にゃわからん擬音を使うよな」

「小暮さんと須藤さんが作ってくれたケーキ、美しかったなあ」

 お茶を飲みながら美登利がうっとり言う。

「いい子だね、ふたりとも」

「確か、学年一の」

「そうそう、なんで別れちゃったの? お似合いだったのに」

 ずきんと胸にきて正人は眉を寄せる。どうしてそんなこと言うの。予防線のつもりなのか?

「片づけてくるね」

 立ち上がった美登利の後ろ姿に宮前は鼻を鳴らす。

「ああいう女なんだよ」

「知ってます」

 よく知っている。覚悟は決まっても彼女のああいう態度がなによりきつい。多分いちばん肝に銘じなければならないのはそこなのだ。

 負けない。ぐっと口元を引き締めて正人は前を見た。



 学校はもう自由登校だからのんびりしていたある朝、電話で呼び出された。

 冬休みの間にクリーニングに出してもらった制服に袖を通す。あと何回着る機会があるだろうか。

 授業中でしんとした校舎を冒険のような気分で忍び足で進む。

 芸術館の二階の音楽室は授業中で合唱曲が聞こえてくる。美登利は脇の扉から個室の練習室が並ぶ通路に入った。

 入ってすぐの絨毯敷きの床に船岡和美が蹲っている。

「美登利さん」

 小さな声であっち、と練習室の一つを示す。

「いいの? 私が行っても」

 小声で訊き返すと、和美は強い瞳でこくんと頷いた。

 練習室に入っていく美登利を見ながら、和美は文化祭の日のことを思い出す。

(こういう気持ちなんだね)

 大好きな人が傷ついていて、励ましてあげたくて、でも自分には力がなくて。

 それなら誰かに託すしかない。大好きな人の為ならば、少しくらい辛くてもそうできる。

(でも、泣けるよね)

 和美は手で目をふさいで涙をこらえる。

 澤村祐也はピアノの前ではなく隅の椅子に座って窓枠に顔を伏せていた。声はかけずに美登利はそうっと肩に手を置く。

「みどちゃん」

 泣いてはいないが目が赤かった。

「どうしたの?」

「ごめんね。なんでもないんだよ。ただ」

 いったん言葉を区切って澤村は息をのむ。

「ただ、いろんなことが、怖くなって、体が、動かなくなるんだ。おかしいよね?」

「おかしくないよ。今はそういうときなんだよ。そういうことだってあるよ」

「情けないよね、みんな大変なのは同じなのに、僕ばっかりこんな」

 声を詰まらせて俯こうとした澤村の頬を美登利の手が引き留める。

 額に彼女のくちびるを感じて澤村は驚いて目を上げた。

「もっとする?」

 びっくりしたまま首を横に振る。立ったままこっちを見下ろしている美登利は、くすりと笑って彼の髪を撫でた。

「澤村くんは大丈夫だよ。間違ったりなんかしない。私とは違うもの」

 優しく優しく指が動いて、そして離れた。

「だから大丈夫。怖がらないで、思ったままにやればいいんだよ」

(違うんだ)

 思ったけれど言葉にはならない。

 見上げた彼女は窓からの日差しを受けて、あの頃の笑顔のままで。

 ――きれいな音だねえ。天国から聞こえてくる音楽みたいだよ。

 間違ったりなんかしない、そう言ってくれたけど。

(僕は……)

 間違ってみたかった。

 間違いでもいいから君に触れてみたかった。憎まれても蔑まれてもいいから、触りたかった。

 でももう遅い。もう届かない。線は引かれてしまった。彼女がそれをするのを自分は黙って見ていた。もうそんな資格はない。

「和美さんがね、私を呼んだんだよ」

「うん……」

「私はもう大丈夫」

「うん」

「ありがとう」

「…………うん」


 練習室を出ると和美が立ち上がって美登利を見た。

「あとはふたりで頑張るんだよ」

 頷く和美に更に謝罪の言葉をかけそうになって、美登利は口を引き結ぶ。

 言わなくたっていいこともある。「ごめんなさい」なんて自分が言っていいことではない。

 芸術館を出て昇降口には戻らず北校舎の階段を上がった。

 学校も自分の居場所ではなくなりつつある。こうやって、手を放せば離れていく。自分の心次第だったのだ。兄のことだって、心はこんなに落ち着いている。

 授業中だから屋上は締まっていると思ったのに鍵が開いている。閉め忘れか、何かで使用中なのか。

 扉を開けて見渡してみたら人の気配はない。

 逆に背後に人の気配を感じて美登利は振り返る。小暮綾香がいた。

「授業中だよね?」

「先輩がいるのが見えたから」

 開け放った扉から差し込む日差しが綾香の顔を照らしている。

 静かにじっと落ち着いている瞳、固い口元。この表情を自分は知っている。

「どうしてわたしから彼を盗るんですか」

「盗った覚えはないけど」

「わたしのです」

(お兄ちゃんは私の)

「キスだってしてくれた」

(ずっと一緒だよって言ったもの)

「なのにどうして……」

(その人のところへ行っちゃうの)

「わたしがいちばん彼を好きなのに!」

 そういうことかと美登利は綾香の顔を見たまま口元を震わせる。なんだ、そういうことなのだ。頬が震えて勝手に笑みの形を作った。

「それって嫉妬?」

 聞いたことのない低い声色にびくっと綾香は肩を震わせる。

 ゆっくりと美登利が近づいてくる。逆光で顔が暗い。

「私がキライ? 憎たらしい? 殴りたい? 絞め殺したかったりする?」

「なに言って……」

「だって、そういうことでしょう。あなたの物を盗った私が憎いんでしょう? だったらほら、好きにしていいよ」

「……」

「殴る? 蹴る? なんなら、ここから突き落とす? やってもいいよ、ほら」

 階段側に回った美登利に光が差して、その表情がよく見えるようになる。

 笑っていた、満面の笑顔で。

「ね、避けたりしないから。蹴り落としてみなよ。それですっきりするかもよ」

 なにを言ってるんだ、この人は。先程までの怒りは吹き飛んでしまった。綾香はもう恐怖しか感じられない。

 ぺたんとへたり込んでしまった綾香に、美登利はつまらなそうに眉をひそめた。

「なんだ、やらないの?」

 うんざりした顔になって嘲りの色を目に浮かべる。

「できもしないのに突っかかってこないで」

 囁いて階段を下りていった。

 残された綾香の額は汗でいっぱいだった。

(なんなの、あの人?)

 正人はどうして、

(あんな人を好きになったの?)


 そういうことかと得心がいって美登利は校舎を出る。

 メラメラ燃えるのばかりが嫉妬ではなく、血の気が引いて凍りついたようになるのもそうなのだ。怒りと同じ。度合いは後者の方がはるかに高い。

 つまり自分は、落ち着いたのではなくメーターを振り切ってマヒしてわからなくなっていたということだ。なんて仕様のない。つくづく自分が嫌になる。

 ――わたしのです。

 言える綾香が羨ましい。好きという感情に対して彼女は素直で揺るぎがない。

 尽くして注いでそっと寄り添う。誰だってそんなかわいい女がいいに決まってる。心配しなくても正人は戻ると教えてやれば良かっただろうか。

 考えながら大通りを歩いていたら、脇に黒塗りの車が止まった。後部座席のウィンドウが下りて固く冷たい顔立ちの初老の婦人が顔を出す。

「お乗りなさい、美登利さん」

「なぜ?」

「話があるのよ。お乗りなさい」

 西城学園理事長、城山千重子。青陵学院理事長城山苗子の実の姉だ。

「無理矢理引きずり込まれたいの? 早くなさい」

 どうにもこうにも面倒だ。美登利は言われた通りにした。

 連れていかれたのは海岸沿いの老舗の料亭。そこに隣接したティールームだった。

 日本家屋の一室に洋間風に絨毯を敷いた部屋、ゆったりとソファーが置かれている。

「座りなさい。それともわたくしとはお茶も飲めないというの?」

 いちいち癇に障る話し方。だけど一返せば百返されることを知っている美登利は黙っている。

「あなたは相変わらず美しいわね」

「……」

「そして相変わらず箸にも棒にも掛からずふらふらしているようね」

 姿勢よく座った千重子理事長は隙のない動作で紅茶のソーサーを持ちあげる。

「自分の価値をなんだと思っているの? あなたの容姿と才能があればどんな人生だって送れるのに」

「そんなふうに思ったことはありません。箸にも棒にも掛からぬ身ですから」

「相変わらず口の減らない」

 冷たい眼差しを美登利に投げて千重子理事長はまなじりを吊り上げる。

「あなたたちはまったくわかっていない。恵まれた者には恵まれた者の義務がある。それを考えもせず好き勝手ばかりとは何事ですか。自分の使命を自覚なさい」

 美登利にはまるで解らないことだが、この主張も信念に基づくものであり千重子理事長にも信奉者たちがいる。ただ、苗子理事長の考えとは正反対であり美登利もまたそれに賛同はできないということ。

「わたくしを冷たい、手段を選ばないと非難したいのでしょうけど、そうでもなければあなたのような子どもは言うことを聞かないでしょう。後悔しないよう言ってあげてるのです。苗子の元ではあなたは大成しない。わたくしのところへ戻っていらっしゃい」

 話しながら脇から書類を取り出す。西城学園大学部の入学願書。

「なにを言い出すかと思えば」

「中川氏には再三お願いしてるのに埒が明かないから直談判してるのよ」

「……」

「本当にあなたの父親は銀行屋らしく頭が固いこと」

 美登利はすっと立ち上がる。

「私の返事も父と同じです。これ以上お話しすることはありません」

「あなたはまた……」

 千重子理事長が激高した声をあげるとスーツの大人たちが三人入ってきた。

「今日という今日は無理にでも従ってもらいます」

 呆れてものも言えない。美登利は黙って身構える。玄人でもない中年男性が三人、余裕だ。

 思っていたら闖入者が現れた。

「こんちはー。お久しぶりっす、千重子せんせー。なんでオレのことは呼んでくれねえっすか」

「な……」

 突然やって来た宮前仁に千重子理事長も目を白黒させる。

「おお、こりゃ入学願書じゃないっすか! ちょうど取り寄せようと思ってたっすよ」

 さらさらと記入してばん、と千重子理事長に差し出す。

「ほんじゃ、よろしくお願いしやす」

 美登利の手を取り、ぽかんとしている大人たちの間を抜けてすたこら逃げ出す。

「ちょと、あんたなんで」

 海岸に突き出た公園まで逃げてきたところで美登利は訊いた。

「タクマさんに言われて見張ってたんだよ。千重子理事長の動きが怪しい、おまえに接触するかもしれないって。タクマさんは巽さんに言われてたらしいけど」

「それにしてもあんた、願書出したりしちゃって」

「言ってなかったか? オレはもとからそのつもりだったぜ。親父の会社継がなきゃならんからな。だったら地元の御曹司が集まる西城に出戻った方がいろいろ有利だ」

「だって、それじゃあ……」

 居たたまれなくなって美登利は眉を寄せる。自分が誘ったから青陵に来て、青陵のために北部に行って、また西城に戻って。そんなのって。

「言っとくが、オレは好きでやってんだからな。誰かのため、何かのため、なんて思っちゃいないぜ。なにせ三強を渡り歩いた男だからな」

「うん……」

 そうは言っても感謝はしなければ。

「助けてくれてありがとう」

「おう」

「今度サービスするね」

「ばっ! なに言ってんだっ。バレたらどうする」

「……なにを想像してるのさ」

「なにって」

 あらぬ想像をしている宮前を放置して美登利は考える。

 千重子理事長は手段を選ばない。それはまるでおもちゃを取り返そうと必死になっている子どものようで。

 千重子理事長の冷たい表情を思い出しながら思う。あれも嫉妬なのだろうか。自分のお気に入りたちをさらっていった苗子理事長に対する妬み。

「怖いね、妬みってさ」

「あん?」

 綾香が自分を憎むのはわからなくもない。盗った盗らないは濡れぎぬでも、それはもう自分の所業が悪いから。

 だけど榊亜紀子は自分に何かしたわけではない。あんな浮世離れした兄を引き受けてくれようというのだから、それこそ女神様だ。

 なのに妬みの標的になってしまう。自分がどうしても手に入らないものをたまたま手に入れたというだけで。

「……」

 そうなのだ、絶対に手に入らないもの。そのことを確認して美登利は目を伏せる。

「お月様とってって絵本があったよね」

「ああ、父親が月に梯子をかけるやつ。なんだよ、急に」

「なんか急に思い出した。あれ読んでお月様はほんとに取れるんだって思ったっけ」

「おまえんち父さんならやってくれそう」

「そうだね」

 だけど現実には月なんて手に入らない。欲しくて手が届かなくて皆が泣いている。泣いている……。

 その夜は久しぶりに父親の肩を揉んであげた。

「お父さん、白髪増えたね」

「そうか?」

「気持ちいい?」

「実はちょっと痛い」

 そうこうしてる間に志望大学の入試当日がやって来て、あっさり過ぎ去ってしまった。

「これで一週間後には結果がわかるのか」

 いよいよやることがなくなる。

「なんだか今どきの受験って緊張感がないのね」

「日程が複数あるからだろうなあ。一発勝負の気合が必要ないからな」

「私たちのときは一大イベントだったわよねえ」

 そう言われても。父と母の思い出話を聞きながら、ふとカレンダーを見上げて気がついた。

 そろそろひと月半、顔を合わせていない。

「やばい」


(あの女、絶対忘れてる)

 大事な試験を前に禁断症状でおかしくなったらどうしてくれる。

 机に突っ伏していた誠の耳に、母親の物とは違う軽い足音が響いてきた。

「まーこーとーくん」

 わざとらしく呼びながら部屋に入ってくる。

「勉強はかどってる?」

「遅い」

「ごめんごめん、お菓子持ってきたから休憩しよ」

 げっそりしている自分と違って実に元気そうだ。

「センターの自己採点良かったんでしょ。杉原くん経由で唯子ちゃんに聞いた」

 なんなんだ、その伝達経路は。おかしいだろうが。

「このコーヒー、タクマに買ってもらった豆で淹れたの。おばさんは美味しいって言ってくれたよ」

「楽しそうだな」

 美登利はそろそろ目を上げた。

「怒らないで」

「怒ってない」

 首を傾けて見上げてくる彼女に「やっぱり」と誠は言い直す。

「少し、怒ってる」

「キスしてあげようか」

「うん」

 手が伸びて指が頬をなぞる。彼女のキスはいつもそう。頬に感じる冷たい指の感触。瞳にまつ毛の影が差して揺らめく様子を見ているだけで、ゾクゾクする。

「やっぱりいい」

 美登利の手を握って誠は口をへの字に曲げる。

「我慢できなくなる」

 くすりと笑って美登利は彼の頭を撫でる。

「全部終わったらたくさん遊ぼうね」


 一週間後には坂野今日子と船岡和美と一緒に合格の報告に学校に行き、その帰りにケーキショップに寄った。

「船岡さんは県立大も受けるのですよね」

「一応ね。親がうるさくてさ。でも学部的になあ、おもしろそうじゃないよな」

「やりたことがあるなら、どこに行ってもちゃんとやれるよ。和美さんなら」

「そうかな?」

「うん」

 にっこりして美登利はカフェオレを飲む。

「にしても暇だなあ。こうなったら商品開発にケーキ作りに挑戦してみようかな」

「いいんじゃないですか。お菓子は化学ですから。マニュアル通りにやれば間違いないです」

「タクマに道具買ってもらおう」

 おねだりして器具や道具を揃えてもらいお菓子百科を手に作り始めたらものすごくハマった。

「なるほど、お菓子は化学だ」

 とはいえオリジナリティがなければ商品にはしたくない。

「おいしきゃいいのよ」

 常連のマダムたちは言ってくれたが納得できない。

「美登利さんが作ったというだけで十分オリジナルですよ」

 結局まったく理屈の通っていない今日子の言葉に押し切られケーキ試作の日々は一応の区切りを見せて、琢磨をホッとさせた。本人が飽きたのだという見方もあったが。

「志岐さん、蛍光灯替えてくれよ」

「私行くよ」

 向かいの並びの鞄店に脚立を持って向かっていると学校帰りの池崎正人が飛んで来た。

「おれがやります」

「いいのに」

「おれがやる」

 作業しながら正人が言った。

「この後少し外出れる?」

「いいよ、タクマに言ってくる」

 エプロンの上からコートを羽織った格好でふたりで歩く。

「先輩いつの間に進路決まったの」

「かれこれ一週間前?」

「教えてくれないから」

「まあ、予定通りだよ」

 イベント広場では北部高の生徒たちがたむろしていた。顔見知りの櫻花メンバーが手を振ってきたが宮前はいない。彼も総長は引退だ。

「なんだか寂しいなあ」

「なに言ってるの」

「楽しかったんだよなって思って。先輩たちめちゃくちゃでびっくりすることばかりだったけど、楽しかった」

 広場の脇の遊歩道からレンガを敷いて整備された河川敷に出る。寮への帰り道の芝生の河川敷の対岸になる。

 段差に座っていつもとは違う景色を眺めた。

「見る角度が変わると新鮮だよね、物も景色も」

「人もだよ」

「そうだねえ、深いこと言うようになったね、池崎くん」

「思い知ったんだ」

 あなたのせいで。上辺だけを見ているだけじゃなにも始まらない。

 わかっていた風だった家庭の事情をまるでわかっていなかったり、友だちだと思っていた相手に裏の顔があったり、自分が誰を好きなのかさえわかっていなかった。努力をしていなかった。

 でもそれだって、あなたが「知らなくていい」と言うのなら、そういうふうにする。なにも知らない自分でいる。どんなふうにでもなる。

「離れたくない」

「え?」

「先輩と離れたくない」

「どうしたの、急に」

「あなたが見ていてくれなきゃ駄目なんだ」

 吐き出した正人に身じろぎして美登利が青ざめる。見開いた瞳に自分が映っている。それを覗き込みながら正人は告げる。

「あなたのことが好きだから」

 すうっと頬を蒼白にして、美登利は表情を凍りつかせた。

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