Episode 04 過去と未来のはざま
*登場人物
・池崎正人
新入生。偏った遅刻癖で問題児となるが、持ち前の行動力と運動能力で活躍するようになる。負けず嫌いで男らしい性格だが察しが悪い。様々な人間関係にもまれて成長していくが。
・中川美登利
中央委員会委員長。容姿の良さと性格の特異さで彼女を慕う者は多いが恐れる者も多い。並々ならないこだわりを学校に持ち、そのために周囲を振り回す。
・一ノ瀬誠
生徒会長。美登利の幼馴染。彼女に動かされているようでいて、実はいちばん恐れられている。
・綾小路高次
風紀委員長。堅物で融通が利かないが、意外な一面を持っていたりもする?
・坂野今日子
中央委員会書記。価値観のすべてを美登利を基準に置き絶対的に従っている。洞察力に長け、容赦なく相手を攻撃したりもする。
・船岡和美
中央委員会兼放送部員。軽快なトークが得意。明るい性格だが、今日子と同じく洞察力にすぐれるゆえ人間関係に疑問を持つこともある。
・澤村祐也
文化部長。ピアノの達人。彼も幼い頃から美登利に心酔している。
・森村拓己
正人の同級生で同じく寮生。美登利の信奉者。計算力が高く何事もそつなくこなす。
・片瀬修一
正人の同級生。総合的に能力が高く次期中央委員長と目される。マイペースで一見感情が鈍いようにも見えるが。
・小暮綾香
正人の同級生で調理部員。学年一の美少女。恋愛に積極的で入学早々に「開校始まって以来のプレイボーイ」佐伯裕二と付き合うが。
・須藤恵
綾香の親友。大人し気な様子だが計算力が高く、けっこうちゃっかりしている。
・宮前仁
美登利と誠の幼馴染。市内の不良グループをまとめる櫻花連合の総長になるため北部高校に入学した経緯を持つ。
文化祭が終了し、名残を惜しむ間もなく学校内は臨戦態勢に突入した。生徒会会長選が始まるためである。
外部に向けての一大イベントが文化祭であるのに対し、学校内で最も重要なのが年に二回行われる生徒会会長選挙である。
三日間の選出期間を経て選挙管理委員会が発足。投票日の告示があった頃には緊張度合いがピークに達し、一年生たちを怯えさせるほどであった。
事前の下馬評では、三年生が悲願の政権奪取を図り現体育部長鹿島敬之を担ぎ出すのではないかと囁かれていたが。
立候補届出日に受付に届出たのは現生徒会長一ノ瀬誠のみ。他に数名が反三大巨頭派の支持を取り付けようとぎりぎりまで動いていたようであったが結局出馬を断念。現会長一ノ瀬誠の無投票当選が確定した。
ここに、青陵学院高等部生徒会七代会長一ノ瀬誠の二度目の続投により第三次一ノ瀬政権が発足することになった。生徒会長の指名によって決まる専門委員会委員長に若干の入れ替わりがあった中、執行部メンバーの一部をも選出しなおさねばならない事態が発生した。
「おれはもう駄目だ。かんべんしてくれ」
現副会長長倉のリタイアによるためだ。
「ふらふらふらふら、すぐに姿を暗ましやがって。おれにはもうあいつのお守りは耐えられない」
胃を押さえ、涙ながらに訴える長倉に、中央委員会委員長の中川美登利も風紀委員会委員長の綾小路もなにも言えなかった。
「さて、どうするよ。なんなら、あんたがやる? やってることは変わらないじゃない」
「おまえさんが兼任するというのはどうだ?」
「は? それこそ権力の集中だって批判されるよね?」
醜い押しつけ合いを繰り広げるふたりの横から坂野今日子が言った。
「この際、一年生から任命してはどうでしょう?」
「それなら森村か片瀬を寄越したらどうだ。なんなら池崎少年でも……」
「池崎くんはダメ」
ぴしゃりと美登利がはねつける。
しん、と場が凍りついたとき、おずおずと扉が開いて一年生らしい男子生徒が顔を出した。
「すみません。あの、生徒会室に行ったら誰もいなくて。通りすがりの人にこちらに行けばいいって言われて。あの、オリエンテーリング部の者なんですが、予算のご相談に……」
美登利と綾小路が同時にひらめく。
「オリエンテーリング部って、普段は校内を野外に見立ててゲームしたりしてるよね?」
「あ、そうです。頻繁には野外で活動できないので」
「校内のあらゆる場所に詳しかったりするのか?」
「ええと、そうですね、それなりに」
「人気のない静かな場所とか、夏には涼しい、冬には暖かい場所とかすぐ思いつく?」
「え? ええ、まあ、他の人よりはたぶん」
にこっと極上の笑顔になって美登利が彼の手を握る。
「君、一年生だよね。クラスと名前は?」
「一年四組の本多崇です……」
こうして受難者がまたひとり……。
「ちょっと楽しみだったんだけどな、選挙」
「馬鹿言うな」
「水面下での鍔迫り合いの結果だな」
いくらか静けさを取り戻した日の放課後。図書館に寄っていくという片瀬とはそこで別れ、池崎正人と森村拓己のふたりは昇降口に向かった。
「こんな時間に帰れるの久しぶりだね。ちょっと駅前まで行ってみる? たまにはさ」
「そうだな」
あくびをかみ殺して靴を履いていると、同じ一年の小暮綾香と須藤恵がやって来た。
「珍しいね、帰り一緒になるなんて」
「ふたり電車通だっけ?」
「うん」
連れ立って歩きながら会話している拓己と恵の様子を少し後ろから綾香がじっと見つめている。それを更に後ろから眺めながら正人は大きなあくびをした。
「あ、美登利さん」
大通りに出てすぐの交差点で中川美登利がひとりで信号待ちしていた。
「珍しいですね。帰り道で会うなんて」
「そうね。買い物がしたくて今日は早く出たから」
「どこ行くんですか?」
「本屋さんと、駅前のケーキ屋さんで季節の限定品が出てないかチェックして」
「先輩、甘いもの好きですか?」
「好きだよ。ケーキは見た目が大事かな。オペラってケーキ知ってる?」
「知ってます!」
「あの佇まい、美しいよねえ。ずーっと眺めていられる」
「ミルフィーユはどうですか」
「可愛いよねぇ。あれ、ぐちゃぐちゃにするのが好きなんだ」
恵はすっかり美登利になついてしまっていて、拓己を差し置いて会話を弾ませている。それを後ろから綾香がじっと見ている。
なにを思うでもなくその様子を眺めていた正人だったが、綾香が急に自分の方を見たのでびくっとしてしまう。
「……なに?」
綾香は答えずにふいっと目線を戻す。
「池崎、僕らも本屋寄ってこうよ」
書店のビルの入り口で拓己が呼んでいた。
「おれ、この辺見てるから」
雑誌の新刊を眺めていると、後ろで他校の男子生徒がひそひそ話す声が聞こえた。
「青陵の中川美登利だ」
「美っ人だなあ」
彼女は特設コーナーのハードカバー本を見ている。その姿を見て正人は気づく。
学校にいるときとは違っていて、目立つのだ。普段校内で見かける彼女は学校の空気に溶け込みすぎていてそんなふうに思ったことはなかったけれど。
今こうして違う場所で見る彼女はとてつもなく浮いて見える。
「姿勢がいいからだと思うよ」
小声で話しかけられ、またまたびくりとする。綾香が正人のそばに来ていた。
「中川さんて姿勢がすごくきれい。立ってるだけで絵になるっていうの? 生徒会長や風紀委員長もそうだけど」
綾香はぴたっと正人に視線をあてて言った。
「池崎くんもだよ」
「おれ?」
「姿勢がきれい」
あまりにまっすぐ見つめられて返事に困る。
綾香はふいっと視線を逸らして恵の方へ行ってしまった。
翌日の放課後には園芸部の手伝いにかり出された。
「暑いのにごめんね。明日は雨が降るっていうし、今日中に収穫しとかないとダメになっちゃいそうだから」
「わかりますよ。実家で祖母が畑やってますから」
気を使う園芸部部長に森村拓己が明るく応じる。
「お手伝いしてるんだ? 手付きが慣れてるもん。池崎くんもだね」
「おれんち半分農家みたいなもんなんで」
「へえ。寮生あるあるだな」
片瀬が感心して言ったのに、
「田舎者って言いたいのかなー」
拓己が突っ込む。作業している部員みんながくすくす笑う。
なんというか、和やかな雰囲気だ。部長の小宮山唯子をはじめ園芸部メンバーは穏やかで優しくて、普段くせ者ぞろいの上級生の中にいるからなんともいえず癒される。
「うわあ、なんすか。あのまったりゆるゆる感」
校舎内から園芸部の菜園を見晴るかしていた船岡和美が告げ口するのを、中川美登利は「あははは」と流す。
「いいさ、たまには」
「……体育部会も池崎少年に注目してるみたい」
「運動神経いいからね」
「鹿島先輩が引退したら、後釜は尾上かな」
「どうかなぁ、二代続けて同じタイプっていうのもねえ」
ぼそぼそと話し合っていると廊下の向こうから綾小路がやって来た。
「こんなところにいたのか」
わざわざ探しに来るとは何事か。
「昨日うちの一年が商店街でカツアゲ被害にあったそうだ」
は? と美登利の眉が歪む。
「確かなの?」
「……相手は北部の生徒だったらしい」
「宮前はなにやってるの」
美登利が本当に怒ったときに出す低い声色に、いくらか慣れているはずの和美もぞっとなる。
「今、一ノ瀬が連絡してる。なんにしろ……」
わっと騒ぎが起きたのはそのとき。
グラウンドの向こうの裏道をランニングしていた生徒たちが逃げまどっている。何か罵りながらそれを追いかけまわしている三人組がいる。
黒い学生ズボンに開襟シャツ。特徴がなくてどこの制服かはぱっと見わからないが。
「あいつら……」
一階なのを幸い窓から飛び出そうとした美登利の目に、猛スピードで駆けつける池崎正人の姿が映った。
勢いそのままに一人に拳固を食らわせ、横合いから殴りかかってきたもう一人に裏拳を打つ。品行方正をもってなるはずの青陵生の反撃に、三人は目を白黒させて逃げていく。正人はすかさずそれを追っていく。
「…………」
言葉もない綾小路と和美の横で、美登利は必死に笑いをこらえる。
「さすが池崎くん。期待を裏切らない」
そうして窓枠を乗り越え彼女も駆け出した。
正人の足の速さなら追いつくのは造作もなかった。
一人目の襟首を掴み、投げ倒す。
居直って向かってきた二人目と組み合っている最中に三人目が拳を振り上げるのが視界に入る。
一発食らっても仕方ない。正人は覚悟する。
だが、相手のパンチは割って入ってきた中川美登利の左手で受け止められた。
美登利はそのまま素早いモーションで後ろ蹴りを繰り出す。かかとが綺麗にみぞおちに入って、相手は沿道の向こうの松林の中まで吹き飛ばされた。
「なかがわみどり……」
正人と組み合っていた学生が顔をこわばらせた。
「あなたたち、北部の生徒だよね。昨日うちの生徒をカツアゲしたのはあなたたち?」
低い声で美登利が訊く。
「櫻花のメンバー?」
たたみかける問いに相手は答えない。ふうっと美登利は息をつき、腕組をして微笑んだ。
「まあ、いいわ。あなたたちの総長様にお迎えに来てもらいましょうねぇ」
正人のときとは比べ物にならない威圧感に、見知らぬ男子高生たちは「うっ」と息をのんだ。
松林内の遊歩道にある休憩所のような広場に面子がそろったのは間もなくのこと。
一ノ瀬誠に綾小路、三人の暴行犯を連れてきた美登利と正人。騒動を目撃していた森村拓己もそこにいた。
そして最後にやって来たのは、夏だというのに学ランを肩から引っかけた短髪の男子高生。後ろに同じ開襟シャツの男子生徒を三人従えている。ズボンのポケットに両の手の親指を引っかけラフな立ち方をしているのにスキがない。
三大巨頭と学ランの彼とが額を集めて話している間、少し離れて待機していた正人は隣の拓己を肘でつついて質問した。
「誰?」
「北部高校の宮前仁さん。うちの中等部出身で、今は櫻花連合の総長もやってる」
「櫻花連合?」
「不良グループの集まりっていうのかな、代々北部高に本部があるんだって」
ということは喧嘩が強いのか。宮前のスキのない立ち姿を正人は無意識に観察してしまう。
話がまとまったのか、宮前が伴ってきた手下三人が、正人が捕まえた三人を連れていく。
誠たちに別れを告げ、歩き出そうとした宮前の肩を美登利が呼び止める。宮前が振り向きざま、その頬に渾身の平手が飛んでいた。
「お、まえな。いきなりなにすんだよ、痛いだろ!」
それまでのクールさをかなぐり捨てて宮前が叫ぶ。
「殴られたって文句は言えないでしょうが! 男どもがやらないから私がやったの」
腰に手をあて怒る美登利の肩越し、誠と綾小路が表情だけで宮前に謝罪している。
「自分の役目を忘れてないでしょうね」
「わかってる。だからこうして飛んで来ただろ」
「うちの生徒にケガ人が出てたらこれくらいじゃすまなかったよ」
「わかってる」
がしがし頭を掻いていたかと思うと、宮前が正人に視線を向けた。
「連中のしたのあいつだろ? 拓己じゃないほう」
「池崎正人くん」
蹴り飛ばしたのはあんただろうが、と無言で訴えてみたが美登利は知らん振りだ。
「よろしく、池崎。オレは宮前仁だ」
「はい」
にやりと笑って宮前は正人の手を握る。それを見ていた美登利が懸念の表情を浮かべたのに正人はまるで気づかなかった。
数日後、宮前から報告を受けた一ノ瀬誠は綾小路と連れ立って出かけていった。
「あいつらが授業が終わると同時に出ていくなんて珍しいな」
教室に残って雑談している男子たちの会話を聞くともなしに聞いていた船岡和美は、坂野今日子が手にしている用紙に気づいて腰を上げる。
「まさか坂野っち、夏休みの講習受けるの? 全科目? 必要ないじゃん」
「そんなことありません。美登利さんがどこへ進学しようとついていけるよう、できるかぎり学力を上げておかないと」
「は、だったらあたしも! 申し込み用紙ちょうだいよ」
「おまえらって、賢いのにほんと馬鹿だよなあ」
評する声は、騒ぐ和美の耳には届かなかった。
「じゃあ池崎も夏休み寮に残るんだ」
「実家帰っても親父とケンカばかりだかんな。ばあちゃんは早く帰ってこいって言うけど、どうせお盆には帰るんだし」
「ぼくも一緒だよ、残った方が学校来て勉強したりできるしね」
「そんなら園芸部の手伝いまたやるか?」
片瀬がふたりに提案する。
「どんどん収穫しなきゃならないから、手伝うなら獲った野菜は持って帰っていいって部長さんが」
「いいねー。休みの間はぼくら自炊だから」
拓己と片瀬は中央委員会室に顔を出していくという。逃れた正人は一人で校門を出た。
そこでまた小暮綾香と須藤恵に会う。
「池崎くん、ひとり?」
「うん。今日はまっすぐ帰るから」
大通りの交差点で正人は手を振る。
信号待ちをする間、離れていく正人の後姿をじっと見ている綾香に恵が囁く。
「ねえ、綾香ちゃん。池崎くんて、かっこいいね」
腰を屈め上目遣いに自分の顔を覗き込んでいる恵のおでこを、綾香はつんとつつく。
「今度は間違えないから」
すうっと意識して背筋を伸ばし、綾香は青に変わった横断歩道を渡っていく。
「間違えたくないから、ゆっくり、考えることにするよ」
「池崎くんなら大丈夫だと思うな」
「そう?」
かぶりつきで確認してくる友人に、恵はふふふと笑った。
高台に位置する私立西城学園の威風はふもとを走る国道からも臨めるほどで、地元の住民には見慣れた光景である。
今、その堅牢な門構えを前に、バスを降りたばかりの一ノ瀬誠と綾小路は重く息を吐いた。かつて通い慣れた学び舎ではあるものの、懐かしさはあっても親しみは既にもうない。
「行こうか」
それこそ勝手知ったるで敷地内をどんどん進んで行く。
下校途中の生徒たちが皆足を止めふたりを見送る。西城の生徒はほとんどが幼稚舎からの生え抜きだ。誠と綾小路を知らない者などいない。
高等部への石段の途中で高田孝介が待っていた。西城学園高等部生徒会長。それこそ生粋の、頭からつま先まで西城の校風につかり切っている男だ。
「やあ、来たね」
「お出迎え感謝するよ」
共に腰の後ろで手を組んだ姿勢のまま誠と高田は挨拶を交わす。やはり同じ姿勢の綾小路は無言のままだ。
「学内に入るのは久しぶりだろう? いい所に案内するよ。君たちの知らない場所だ」
石段の途中から伸びる小道にいざなわれる。そこは昔からある理事長お気に入りのバラ園だ。命の短い夏バラが強い日差しの下で懸命に花を咲かせていた。
その中にイスラム風ともヨーロッパ風とも取れる真っ白な東屋が建っていた。モスク風な尖塔が付いていて内側にはびっしり幾何学模様が施されている。いわゆるキオスクをイメージしたのか。
中川美登利が見たなら趣味の悪さに眉をひそめたことだろう。キオスクが悪いのではない。学び舎にこんな威容を配置する心持こそが、西城を西城たらしめるものなのだ。
四方を風が渡るキオスクの中は涼しかった。椅子を勧められたが誠と綾小路は断った。高田は鼻を鳴らして籐の椅子に腰かけ足を組んだ。
「それで用件は? 僕だって忙しいんだ。手短に頼むよ」
「うちへの嫌がらせのために北部の生徒を使ったのはまずかったね。自分の手は汚さない君らしいやり方だけど」
じろっと睨み上げてくる高田を誠は目を細めて見下ろす。
「宮前を甘く見たのもいけない。あれも一応櫻花連合の総長だ。櫻花のメンバーなら必ず宮前に従う。気の毒に、君の軽挙妄動に巻き込まれた彼らはだいぶ痛い目にあったようだよ。それもお金で解決できると思ったかい」
「……」
「本当に君らしいよ。初代が結んだ友好協定をなんだと思ってるの」
「なにが友好だ。それなら……それこそ、北部の宮前を手駒にしているおまえたちはどうなんだ!?」
「駒なんかじゃない。宮前は仲間だから」
言葉に詰まる高田に少し声を柔らかくして誠は尋ねる。
「君は違うの?」
「……」
「そんなに僕らと喧嘩がしたい? 生憎だけど負けないよ。それでも喧嘩する?」
戸惑う高田の目線を捉え、誠は笑顔になって言った。
「ちょっと、考え直してみなよ。ね?」
会談はそこで終わった。
バラ園を後にして正門に続くメイン通りに戻ったところで、終始無言のままだった綾小路が口を開いた。
「バラの茂みの向こうから香水の匂いがした」
「うん。いたね、あの人」
誠は足を止めて背後を振り返る。大学部の本部棟がひときわ辺りに威風を放っている。
かつて、選ばれた人間のみがより良い環境で勉学できるのだと公言してはばからない経営方針を嫌い、西城の理事のひとりがこれに造反、西城とは全く違う校風の新しい学校を創り上げた。
それが青陵学院である。「自由・自主・自尊」を目指す理想の学校。
そして当時、西城学園中等部において神童とまで称されていた生徒がそれに賛同し青陵学院高等部への入学を決めた。初代生徒会長中川巽。中川美登利の兄である。
夕刻の河原沿いはもう少し涼しいかと思ったが期待外れだった。この街は潮の匂いが強い。ぺたぺたと肌にまといつく感じが暑苦しい。
それでも風が通るので盆地である正人の地元とは外気温がまるで違う。すごしやすい土地なのだと思う。
芝生に座って川面を眺めていると、そんな正人を背後から窺ってくる人影があった。
「やっぱり、この前の青陵の生徒さん。ええと……」
「池崎です」
この近所に住む城山夫人だ。今日は甘い匂いがする茶色の紙袋を抱えている。
「池崎くん。ちょうどよかった。今川焼食べない?」
正人の隣に腰を下ろしながら「また買いすぎちゃったの」とのんきに言う。
「もうすぐ夏休みでしょう。一学期が終わるのねえ。学校にも大分慣れたでしょう?」
「そうっすね。まあ、訳のわからないうちにすぎてった感じですけど」
正人はゆっくり、考えながら話す。
「委員会とかやること多くて。これ生徒のやることなのかって思うこともあって。先輩たちとかほんと好き勝手やってて、いいのかって思うこともたくさんあるけど」
「いいのよ、もちろん」
城山夫人が目元の皺を深くして微笑む。
「あなたの言う好き勝手って、決まりを守らず自堕落に人に迷惑をかけてるってことではなくて、やりたいと思ったことを実行行動する好き勝手、でしょう?」
「そうなのかな」
「それならいいのよ。どんどん好き勝手にして。だって学校って、そういうものでしょう? 大人になったらできないことってたくさんあるわ。常識が蓋をして口に出せないことも。でも、やってみなくちゃわからないことってたくさんあるのよ。間違えてみて初めてわかることもたくさん。だからね、一番多感なこのときに、たくさんのことを経験しておいてほしいの。自分で考えて、自分で決めて、自分でやってみる。自分自身の責任でね。それで間違えたっていいのよ。助けてくれる仲間がいるでしょう。それでも、どうしても困ったときには大人が手を差し伸べるから。どんどん、なんでも、やってみればいいの。たくさん間違えればいいのよ」
そこで正人の方を見て城山夫人は恥ずかしそうに両の手を口元にあてた。
「あら、ごめんなさいね。私は学生さんにはそういうふうにしてほしいなあって思てるから」
「いえ……」
「おしゃべりしちゃってごめんなさいね。おばあちゃんはもう帰るわね」
「ごちそうさまでした」
城山夫人はにこりと笑って土手を上がっていった。
「自分で考えて、自分で決めて、やってみる」
自分自身の責任で。
正人は思わずその場に仰向けに倒れこむ。
「それって、すっげえ難しくないか?」
夕刻でもまだまだ青い、夏の低い空。傾く太陽からの日差しが目にまぶしかった。