Episode 27 兄来る
*登場人物
・池崎正人
偏った遅刻癖で問題児となるが、持ち前の行動力と運動能力で活躍するようになる。負けず嫌いで男らしい性格だが察しが悪い。様々な人間関係にもまれて成長していくが。
・中川美登利
中央委員会委員長。容姿の良さと性格の特異さで彼女を慕う者は多いが恐れる者も多い。並々ならないこだわりを学校に持ち、そのために周囲を振り回す。
・一ノ瀬誠
生徒会長。美登利の幼馴染。彼女に動かされているようでいて、実はいちばん恐れられている。
・坂野今日子
中央委員会書記。価値観のすべてを美登利を基準に置き絶対的に従っている。洞察力に長け、容赦なく相手を攻撃したりもする。
・船岡和美
中央委員会兼放送部員。軽快なトークが得意。明るい性格だが、今日子と同じく洞察力にすぐれるゆえ人間関係に疑問を持つこともある。
・澤村祐也
文化部長。ピアノの達人。彼も幼い頃から美登利に心酔している。
・森村拓己
正人の同級生で同じく寮生。美登利の信奉者。計算力が高く何事もそつなくこなす。
・片瀬修一
正人の同級生。総合的に能力が高く次期中央委員長と目される。マイペースで一見感情が鈍いようにも見えるが。
・小暮綾香
正人の同級生で調理部員。学年一の美少女。恋愛に積極的で入学早々に「開校始まって以来のプレイボーイ」佐伯裕二と付き合うが。
・須藤恵
綾香の親友。大人し気な様子だが計算力が高く、けっこうちゃっかりしている。
・中川巽
美登利の兄。初代生徒会長。「神童」「天才」と称されるものの、人間的に欠けている部分が多い。それゆえに妹との関係を拗らせてしまう。
かろうじて肩に届くくらい残っていた髪は、綺麗に整えてもらうとうなじが隠れる程度の長さになってしまった。
母になんて言おう。そればかり考えて会計をして店を出る。
自宅に着くまでずっと言い訳を考えていたが「急に切りたくなった」としか言いようがない。
「ただいま」
重い気分で母の前に立つ。卒倒されたらどうしよう。
「あらー、美登利さん。どうしたの? 似合うじゃない」
地球を半周するくらいびっくりして、こっちが卒倒するかと思った。
「お腹すいたでしょう。こんな時間だし、そのままご飯食べちゃって」
「うん」
「遅かったな」
先に帰宅していた父親もなにも言わない。
両親の顔を見ながら、美登利は「ああ」と納得した。こういう根回しが得意なのだ、あの幼馴染は。
食事をすませて自分の部屋に上がる。電気もつけずに美登利はぽすっとベッドに横になった。
「疲れた……」
二度目の文化祭当日。やっぱり寮生総出で叩き起こされ二時間早く登校させられた。
「眠い」
ゲートの設置をしながら梯子の上で池崎正人は大きなあくびをする。
「おはよう」
下から小暮綾香が手を振った。
「今日お昼一緒に食べれる?」
「どうだろう、昼休憩ってどうなってた?」
「おまえなあ」
横から森村拓己が助け舟を出す。
「後で連絡取り合おう」
「うん」
それを遠目に眺めて船岡和美が口元を歪める。
「なんかさ、あの子たち空気が変わった」
「池崎くんたちですか?」
坂野今日子もチラッとそちらを見る。
「良かったじゃないですか。親密度が増したみたいで。船岡さんはそれを望んでたのでしょう」
「そうなんだけどさ」
船岡和美は頭の後ろで両手を組む。
「フクザツなんだ、あたしもさ。わかっちゃうからさ」
「なにがですか」
「みんながみんな、坂野っちみたいに潔いわけじゃないからさ」
「褒めてくれてます?」
「褒めてる、褒めてる」
脇からそのやり取りを見やって中川美登利がくすりと笑う。
「じゃあ私、行ってくるね」
「行ってらっしゃい! こっちはおまかせあれ」
後姿を見送る。和美も今日子も、短くなった髪にばかり視線が行ってしまう。
「大丈夫そうだね、美登利さん」
和美がつぶやいたのに、今日子はきっとまなじりを吊り上げる。
「馬鹿ですかっ。大丈夫なわけないじゃないですか!」
今日子が声を荒げるのを和美は初めて聞いた。
「あんなにきれいな長い髪……大丈夫なわけないでしょう」
あの大雑把な美登利が、髪だけは長いまま頑張っていた。こだわりがあったのに違いないのだ。
それでなくても、トレードマークの長い髪がなくなって見ている方だって悲しい。
「そうだよね」
不用意な自分の発言を反省して、和美はよしよしと今日子の頭に手を置く。澤村祐也は彼女をどうやって慰めるのだろうかと頭の片隅で考えた。
「わあ、みどちゃん。可愛いね、とっても似合ってる」
本気の賛辞を贈ってしまってから、澤村祐也ははっと隣の一ノ瀬誠を見返った。
「あ、ごめんね。誠くん」
「え、なんで謝るの?」
「先に君のセリフ取っちゃったかと思って、ごめんなさい」
「うん、謝られる方が気に障るんだけどね」
「そうだよね、ごめんなさい」
「……」
微妙に力関係が露呈しているやり取りは無視して、美登利は楽器を準備している音楽部の様子を眺める。
「すごいね、去年まではなかった雰囲気」
「念願のコンサート、必ず成功させるよ」
柔らかな物腰の中に鋼の意志を潜ませて澤村祐也が言う。
「それじゃあ、私は服飾部に行くね」
「ほんとにいいの? みどちゃん、こういうの嫌いでしょう」
「準備期間中、なにもしなかったんだもん。これくらい役にたたなきゃ。最後だもんね」
「うん……」
見送って、澤村もつぶやく。
「最後だもんね」
合言葉か、と心の中で毒づいた誠だったが、彼だってやっぱり思ってしまうのだ。
最後の文化祭だと。
仮装をしている者自体は珍しくなかったから、その一団が衆目を集めたのは音楽が鳴り始めてからだった。
無伴奏チェロ組曲第1番。チェロの生演奏に驚いて、一般客だけでなく生徒たちもそちらを見る。
バロック調ドレスにマスクをつけた貴婦人が、演奏に合わせてステップを踏みながら軽やかに跳びまわる。ドレスの裾がふわふわと広がって夢のように美しかった。
曲のラストに合わせて貴婦人が優雅にお辞儀をすると、わっと拍手と歓声が上った。
「音楽部一年、藤井純一くんの演奏でした!」
すかさずビラ配り隊が前に出てチラシを配り始める。
「音楽部コンサートは午後二時からでーす」
「服飾部ファッションショーは体育館にて開催です」
「服飾室ではドレスの展示と試着を行っています。写真撮影できまーす」
ビラ配り隊に後を任せて、実演部隊はこそこそと場所を移動する。
チェロと椅子を抱えて走りながら平山和明が訊いた。
「先輩、なんで顔隠すんすか? せっかくきれいなのに」
「ばれると面倒だからに決まってるでしょ!」
「グラウンド、今なら空いてるみたいです」
「よし、そっちに移動」
突撃ゲリラ演奏隊のパフォーマンスはあっという間に話題になった。
「ピロティーでもやっててね、見たんだよね、綾香ちゃん」
昼休憩の時間をすり合わせて一緒に焼きそばを食べていた須藤恵がうっとり話す。
「チェロの演奏なんて初めて聞いたし、ドレスもキレイでさ。あの踊ってたの、誰なんだろう? 紹介されなかったよね」
誰って、そんなの決まってる。
正人と拓己もグラウンドの隅からそれを見ていた。あんなふうに、蝶々みたいに動く人なんて一人しか知らない。
だけどそれを口に出してしまっては夢を壊してしまうみたいで、正人も拓己も沈黙を守ったのである。
「この後どこに回ればいいんだ?」
「屋上でサイエンスショーの会場整理」
冬場にあれだけ頑張って作業を進めた屋上庭園も好評を博している。一般客にも見てもらおうと解放されてはいるが安全面で不安も残る。だから随時係員が配置されていた。
正人たちが屋上に出ると急ごしらえの会場では、液体窒素実験が行われていた。
凍らせたバナナで釘を打つべたなネタの次はバラの花の出番だ。液体窒素をあてられた赤い花がみるみる白く凍りつく。手袋をはめた科学部員が握りこむと花びらがパラパラ砕けて粉々になった。
最前列でそれを見ていた女の子が、別の凍りついた一本に手を伸ばそうとする。
正人は静かに近づいてその子の手を止めた。
「ダメだよ」
「触りたい」
「手袋をしないと怪我をするんだ」
部員が女の子に手袋をくれた。花びらがパリパリとガラスのような音をたてて割れていく。
美しい姿のまま脆く崩れていくのがかわいそうで、手を差し伸べていた。
「おにいちゃん?」
女の子が目を丸くしている。はっと正人は我に返る。
手のひらいっぱいに花びらの残骸を抱えていた。
「早く手を放せ」
科学部員がタオルで手を払ってくれた。
「やけどしてないか?」
「わかんね」
「最初は大丈夫でもヒリヒリしてくるからな。保健室でワセリン塗ってもらってこいよ」
「急いで行ってくる」
正人は拓己に謝りながら屋上を後にした。
一階まで階段を下り、廊下をぐるりと回らなければならないのが面倒で、外から保健室に向かうことにする。
保健室の窓は開いていた。
「すみません」
ひょいっと中を覗く。
回転いすに座って、中川美登利が自分の足に絆創膏を貼っていた。
「先生ならいないけど」
言いながら顔を上げて正人だと気づく。
「どうしたの?」
「ワセリン、塗ってもらいたくて」
美登利は立ち上がり慣れた様子で戸棚を漁った。
裸足のまま正人に近づいてくる。
「どうしたの?」
もう一度訊かれて正人は正直に答える。
「窒素で凍った花に触った」
窓越しに両の手のひらを向ける。少しヒリヒリしてきたと思ったら赤みが差してきていた。
「馬鹿だなあ」
なにも反論できない。
手のひらを上向けさせて、美登利がワセリンを塗ってくれた。
されるがままになりながら正人は彼女の足元を見る。つま先やかかとが絆創膏だらけだ。
「靴擦れ?」
「ちょっとね」
履きなれない靴であんなに動き回れば当然だ。
「待ってて、このままじゃべたべたするよね」
また戸棚を漁って今度はディスポ手袋を持ってくる。
「よく知ってるな」
「そこそこ常連だからね。満身創痍なんだよ、これでも」
この人は、偉そうに人をあごでこき使って、騙して、利用して、傷つけて。そして自分もぼろぼろになっている。だけどそれを人には言わない。
今なら正人にもそれがわかる。わかるけど、なにもできない。
「池崎くんはさ、これから活躍する人なんだから、気をつけなきゃ駄目だよ」
「なんだそれ」
「なにって……」
「先輩!」
背後から叫ばれてびっくりした。片瀬修一が廊下から息を切らせてこっちを見ている。
「池崎も、ちょうど良かった」
「なんだよ」
「先輩のお兄さんと、池崎のお兄さんが来たんです」
「……!」
「!!」
「いま生徒会室に……」
皆まで聞かずに美登利がぐっと正人の肩を掴む。
「え……」
押しのけられたと思ったら、美登利は窓枠を乗り越えて外に走り出していた。裸足のまま、脱兎のごとく。
「…………」
正人と片瀬は呆然と見送るしかなかった。
「兄貴!」
「弟よ! 懐かしの再会だ。さあ、兄ちゃんの胸に飛び込んでおいで」
さあ、と本当に腕を広げる兄の勇人に正人はぶるぶるとこぶしを震わせた。変わらない。この兄は本当に変わっていない。
相変わらず短く刈り込んだ髪にメガネという、おまえは体育会系なのか文科系なのか、という格好をしている。実際には文武両道の猛者である池崎勇人はやれやれと腕を下ろして残念そうにつぶやいた。
「なんだ、人前だからって恥ずかしがることないだろうが」
「なんでここにいるんだよ」
「なんでって……」
「ところで、うちのお姫様は?」
話を思い切りぶった切って涼しい声が問いかけてくる。
中川巽。色素の薄い髪と瞳の色は、写真で見たままだ。物腰の穏やかさが澤村祐也に似ている。
「先輩は……」
口ごもる正人の横から、片瀬がへろっと言った。
「逃げちゃいました。しかも裸足で」
美登利が置いていった上靴を掲げて見せる。
口元を押さえる一ノ瀬誠の横から一歩踏み出して、中川巽はくすりと笑った。
「仕様のない子だなあ」
片瀬の手から上靴を取り、そのまま窓際へ近寄った。窓を開ける。
「ちょ……ここ、二階!」
制止の間もなく飛び下りた。すとんと、普通に地面に着地してそのまま歩いて行ってしまう。
窓から身を乗り出した正人はあんぐりと口を開けてその姿を見送った。
「羽でも生えてるんすか、あの兄妹」
それでも驚かないな。誠はただ苦笑いした。
自分でもわけがわからないまま美登利は逃げていた。だって、こんなの不意打ちすぎる。
ずっと練習してきた。次に会ったらちゃんと笑えるよう、考えて、気持ちをコントロールして。きっと笑えるように。最大限に努力した。
でも意気地のない心はなかなか覚悟が決まらなくて、逃げて、逃げて。往生際悪く今も。今だから。
今は特に駄目だ。髪をなくした。
――じゃあ、きらない。
唯一守ってきた約束を断ち切った。そのすぐ後で、こんなぐちゃぐちゃの気持ちのままでは、平静でいる自信なんて、あるわけがない。
(会いたい)
人の多いグラウンドを避け、園芸部の菜園の影に駆け込む。
(本当は)
苗木の向こうから人影が現れて、
(会いたいんだよ)
「見つけた、僕のお姫様」
「……っ」
とっさに美登利は頭を押さえて後ろを向いた。
「見ないで」
「どうしたの?」
「だって、髪を、切ってしまって」
巽はそっと妹の手を取る。
「馬鹿だなあ。髪が長くたって、短くたって、僕の大事な妹だろう」
「……」
涙が出そうになってまともに顔を上げられない。
約束なんて、意味はない。そんなこと知っていた。なにひとつ、守られた約束なんかない。
それなのにこだわったのは。長い髪にも、学校にも。こんなにもこだわってしまうのは、
(好きだから)
ただ、好きだから。
「まったく、仕様がないなあ」
「ごめんなさい」
菜園の脇の水道で足を洗ってもらいながら、美登利は肩をすぼめる。
「悪い癖だよ、ひとつのことしか見えなくなるの」
「そうだよね」
「さっきね、勇人とふたりで西城に行ってきたんだ」
「え……」
「苗子先生と、志岐さんからも、いろいろ聞いてさ。最近の千重子理事長は尋常じゃないだろう?」
「会えたの?」
「うん。でも」
美登利の隣に座りながら巽は空を見上げた。
「苗子先生とは違った意味で、あの人も凄い人だから、僕には正直掴みきれない」
「うん」
「ただ、あの生徒会長の子さ」
「高田孝介」
「ああ、うん。高田くん。彼は千重子理事長の目論見に乗りやすいタイプなのだろうね。彼に良識と強い意志とがあれば、千重子理事長の暴走ももう少しましになるのだろうけど」
「……」
「まだ、おまえと結婚したいって?」
「どうかな」
そう答えて黙り込むしかできない。
巽はもう一度美登利の前にしゃがんで上靴を履かせてくれた。
「実はね。大事な話があって」
「うん?」
「紹介したい女性がいるんだ」
「……」
「大学卒業したら一緒に暮らそうと思ってる。だから家に連れてこようと思ったんだけど、いきなり親に挨拶はハードルが高いって彼女が、言うから」
「……」
「だからまず、おまえに会いたいって。夏休みにでも」
なんだこれ。不意打ちもいいところだ。
ハタチを超えて社会に出ようという男が恋人がいて、一緒に暮らしたいという。普通の話だ。なのにそんなこと想定すらしていなかった。馬鹿だ。
無表情に凍りつきそうになる頬を意志の力でこらえる。わななく口元をなんとか抑えて笑みの形に持っていく。
鼻先が熱い。泣いたら駄目だ、絶対に。
「そうなんだ」
少し声が上ずっていた。大好きな兄に恋人がいることを知らされた妹としては許容範囲だろう。
「わかったよ、お兄ちゃん」
胸が痛い。苦しい。なにも考えられない。それでも笑わなきゃ駄目だ。
たくさん泣いて、たくさん考えて、思い続けた。
絶対に、この気持ちは死ぬまで、秘密にするのだと。
なんだかんだで兄たちは帰っていき、なんだかんだで文化祭は無事に幕を閉じた。後夕祭ではゲリラ演奏がまた行われて、ノリのいい生徒たちが躍りまわっていた。
そこで正人は気づいた。美登利がいない。ずっと姿が見えない。
戻ってきた巽は会えたとは言っていたが、美登利は一緒ではなかったから逃げていく背中を見たきりだ。
「ねーえ、美登利さんは?」
放送席前で船岡和美がきょきょろしている。
「おれ、捜してきま……」
「駄目だ」
言いかけた正人を誠が遮る。
誠は和美に言った。
「澤村くんを呼んできてくれる」
「なんで」
くちびるを尖らせる和美に常にはない真摯な様子で誠は頼んだ。
「頼むよ」
「……」
和美は黙って音楽部の集団の方へ走る。
正人は誠を見る。
視線に気づいているだろうに誠はそれを無視して手で口元を覆った。
「みどちゃん」
グランドピアノの足下で蹲っている美登利に澤村はそっと呼びかける。
「私、どんな顔してる?」
澤村は美登利の前に膝をつく。
「笑わなきゃって頑張ったの。泣いたら駄目だって我慢したの。ちゃんと、できてたかなあ?」
「大丈夫。みどちゃんは笑ってるよ。ちゃんと笑ってる」
「……」
「だからね、もういいんだよ。ここには僕しかいないから。我慢しなくていいんだよ」
微笑みの形に凍りついたようになっている頬を手のひらで包み込む。冷たい頬を温めたくて、何度も撫でる。
「大丈夫だよ。泣いていいんだよ」
「うん」
震えるくちびるが引き結ばれて、目から大粒の涙がこぼれだした。
「頑張ったね。もう大丈夫だよ」
「うん……」
嗚咽が漏れて、肩が震えた。
床に突っ伏して泣き始めた彼女の髪を撫でる。
大好きな人が泣いているのを見るのはつらい。泣かないで。本当は言いたい。
だけど自分の役割は彼女を泣かせてあげることだから。澤村は、黙って髪を撫で続けた。
「なんで澤村くんなのさ」
芸術館のエントランスで階段の腰壁にもたれて和美がもらす。
「俺じゃダメなんだ」
美登利は誠の前では泣かない。
「だから、なんで澤村くんなのさ」
「なにも知らないのにわかったふうに慰めてやる芸当なんか、俺にはとてもとても……」
「いい加減にしろっ」
言い捨てて和美は芸術館を出ていく。
誠は小さく笑って階段に腰を下ろした。
澤村祐也は巽に似ている。優しく寛容な微笑みも、どこまでも柔らかな物腰も、誠には真似のできないものだ。
キスしてもらえるのも体に触れるのも自分だけ。もちろんそれだって誰にも譲るつもりはないけれど、心は、見えなくなった。
『なにも聞かないから一緒に帰ろう』
あのとき、自分で考え抜いた最善の道。
なにも知らないから。大丈夫、責めたりしないから。
『一緒に帰ろう』
『うん』
泣きながら頷いた。あれが、彼女の泣き顔を見た最後……。




