Episode 02 レイニー・ブルー
*登場人物
・池崎正人
新入生。偏った遅刻癖で問題児となるが、持ち前の行動力と運動能力で活躍するようになる。負けず嫌いで男らしい性格だが察しが悪い。様々な人間関係にもまれて成長していくが。
・中川美登利
中央委員会委員長。容姿の良さと性格の特異さで彼女を慕う者は多いが恐れる者も多い。並々ならないこだわりを学校に持ち、そのために周囲を振り回す。
・一ノ瀬誠
生徒会長。美登利の幼馴染。彼女に動かされているようでいて、実はいちばん恐れられている。
・綾小路高次
風紀委員長。堅物で融通が利かないが、意外な一面を持っていたりもする?
・坂野今日子
中央委員会書記。価値観のすべてを美登利を基準に置き絶対的に従っている。洞察力に長け、容赦なく相手を攻撃したりもする。
・船岡和美
中央委員会兼放送部員。軽快なトークが得意。明るい性格だが、今日子と同じく洞察力にすぐれるゆえ人間関係に疑問を持つこともある。
・森村拓己
正人の同級生で同じく寮生。美登利の信奉者。計算力が高く何事もそつなくこなす。
・片瀬修一
正人の同級生。総合的に能力が高く次期中央委員長と目される。マイペースで一見感情が鈍いようにも見えるが。
・小暮綾香
正人の同級生で調理部員。学年一の美少女。恋愛に積極的で入学早々に「開校始まって以来のプレイボーイ」佐伯裕二と付き合うが。
・須藤恵
綾香の親友。大人し気な様子だが計算力が高く、けっこうちゃっかりしている。
「去年もそうだったけど、体育祭の後って、どっと疲れるねえ」
教室前の廊下。窓際で登校してくる生徒たちの様子に視線を落としながら、船岡和美がうーんと伸びをする。
「天気のせいもあるよなあ」
連休明けの先週末まで快晴続きだった空模様が一転、今日は今にも雨粒が落ちてきそうな曇り空だ。海が近いこの場所は、こんな天気の日には潮と雨の匂いでいっぱいになる。
「今から梅雨入りが憂鬱になっちゃう」
「私は好きですよ。雨の匂い」
和美の横に並んで外を見下ろした坂野今日子は、途端に顔を曇らせた。
「どしたー?」
今日子の視線を追った和美もまた顔をしかめる。
「佐伯氏、また新しい女の子連れてるねえ」
「一年生ですよね?」
「調理部に入った子だよ。今年の一年の中じゃ一番可愛いかもって目え付けてたのに! がっかりだー。なんで佐伯氏なんかに引っかかるのさ」
「顔はピカイチですから。可愛い子ほど寄っていってしまうのでは」
「一年生女子に本性が知れ渡るまでの辛抱か……」
そうこうするうちに風紀委員による閉門前のカウントダウンが始まった。
慌てて駆け出す生徒たちの更に後方から、ものすごい勢いで迫ってくる影がひとつ。
「池崎少年、今日も滑り込みセーフだ」
身を乗り出して様子を見ていた船岡和美は感心してつぶやいた。
「いやあ、速い速い。リレーでも大活躍だったもんね」
「あと五分早く起きるって選択肢はないんでしょうか」
「ないんだろうねえ」
あはははは、と和美は大笑いした。
「こら、池崎! 帰るなよ」
廊下で待ち構えていた森村拓己に腕を掴まれたと思ったら、反対側の腕まで片瀬修一に掴まれた。正人はふたりに両脇を抱えられ、そのままずるずる連れていかれる。
「今日は委員会だって言っただろ」
「帰りたい……」
中央委員会室には三十人ほどの生徒たちが集まっていた。
「こんなに人がいたんだな」
「普段わざわざ集まったりしないからね」
「来た人からプリントと腕章を取って座ってください」
坂野今日子が呼びかけている。
ほどなく中央委員会委員長の中川美登利がやって来る。一番後ろの端に座っている正人を見つけてにこりとした。
「そろったみたいね。それでは始めます」
文化祭のための会合だということは正人にもわかっていた。高校で初めての文化祭、楽しみでないわけではない。
「……という感じに、明日のHR内での結成式をもって、正式に文化祭実行委員会が発足されます。以後この部屋が拠点となるので、自分の担当に関する装備品などの管理は徹底すること。役割分担や細かいワークスケジュールはプリントで確認してください。明日から放課後にはこの緑色の腕章を付けて動くように。それから、三年生には一年の各クラスへアドバイザーとして入ってもらいたいので、この後振り分けの相談をお願いします。……最後に、年間最大の行事である文化祭を盛り上げるために、全員の健闘に期待します。何か思いついたなら、どんどん実行行動しちゃってください。文句や苦情を言う人間がいたら、中川のところへ来い、と伝えてください。以上、質問は?」
誰もがわくわくと顔を輝かせて無言のままだ。
「それじゃあ、解散。よろしくお願いします」
わっと口々に言葉を交わしながら委員たちがばらけていった。
「盛り上がってきたね」
高揚感でいっぱいになっている拓己の隣で、片瀬もこくこく頷いている。
雰囲気にあてられそうになりながら、正人はひそかに舌を巻いていた。
中川美登利、侮りがたし。
校舎を出る頃には雨が降り始めていた。傘を持っていた拓己が入れてくれようとしたけれど、
「コンビニ寄ってくからいいよ。食いもん買ってきたいし」
「ぼく先に帰ってるよ」
「ああ」
近くのコンビニでカップラーメンとビニール傘を買って、寮への道を急ぐ。
河原沿いの道を歩いていると気になる光景に行きあたった。
河原の芝生の一角にある東屋のベンチに、青陵の制服を着た女の子が座っていた。
正人の脳裏にちらりとひらめくものがある。
(もしかして……)
朝もここにいなかったか? あの子。
(まさかね)
考え事をしながら歩いていたから足元がおろそかになっていた。左足のかかとに何かが当たって転びそうになる。
「え……」
正人の前を歩いていた老婦人が抱えていた袋から、缶詰が次々に転がり出していた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、ええ。ごめんなさいねえ」
彼女が屈むと、また缶詰が転がり落ちる。
「それ、おれが持ちます」
レジバッグを持ち、転がっている缶詰を手早く拾う。
「お家はどこですか? 持っていきます」
「ありがとう。優しいのねえ」
婦人は目元に皺を寄せ上品に微笑んだ。
「家はね、そこの石段を上がったところなの」
一緒に階段を上りながら、婦人は再び「ごめんなさいねえ」とつぶやいた。
「あそこに海外の食材のお店ができたでしょう。珍しくてついいろいろ買ってしまって。ダメよねえ、ちゃんと後のことを考えなくちゃ」
石段を上りきってすぐの大きな白い家の前で婦人は立ち止まった。表札には『城山』とある。
「どうもありがとう。ここで大丈夫よ」
レジバッグの中から缶詰を四つ取り出し、正人に差し出す。
「お礼にどうぞ。青陵の寮生さんでしょう? 良かったらお夜食にどうぞ」
「ありがとうございます」
遠慮なく受け取ると、城山夫人はますます目元を細めて嬉しそうに微笑んだ。
「今年の一年はどうなってるんだ。小粒に揃ってるんじゃなかったのか」
出し抜けに文句を言い始めた綾小路に女性陣の対応は辛かった。
「やだねえ、この人。ひと月も前のネタを引きずって」
「粘着質ですね、意外と」
「頭固すぎ」
ぶるぶると震える綾小路の様子に首を竦めて、一ノ瀬誠が「まあまあ」とつぶやく。
「一年生がどうかしたの?」
「無断欠席二日目。明日もこうなら対応を考えなければ」
綾小路が差し出した名簿に美登利はさっと目を通す。
「一年一組、須藤恵」
両脇から坂野今日子と船岡和美も覗き込む。
「この子知ってるよ。調理部の可愛い子」
「佐伯先輩の彼女さんですか?」
「違う、違う。今朝見かけたのは三組の小暮綾香」
可愛い女子に目がない和美はさすがに詳しい。
「中学同じで仲良しなんだと思うよ。タイプの違う美少女ふたりって感じで目立つの。そういえば、体育祭のときに一緒にいなかったかなあ?」
「佐伯先輩のせいですかね……」
和美と今日子が言い合うのを他の三人は黙って聞いていた。『三大巨頭』などと呼ばれていても、男女の機微に関しては女子の情報網に遠く及ばない。
「なんにしろ、明日には来てくれればいいけれど」
須藤恵さん。美登利のつぶやきに綾小路が無言で頷いた。
翌日の朝には雨は止んでいた。確実に昨日より気温が高くなっているのを感じる。
今朝は少しは早く起きれたはずなのに、余裕ぶっていたらいつもの時間になってしまっていた。絶対にもう、遅刻はしない。心に誓っていたから正人は全速力で学校に向かう。
河原沿いの道で、昨日の女子生徒を見つけた。とぼとぼと重い足取りで正人の前を歩いている。
「おい、あんた! 走らないと遅刻する!」
「え……」
ショートボブで目が大きく、背は小柄。ネクタイの色は同じ一年。それがわかって正人は思わずその手を掴む。
「走って!」
「ちょ……っ。わたし…………」
有無を言わせずそのまま走った。
校門への最後のストレートライン。一分前を知らせる声が聞こえてくる。
ほとんど引きずられるようにして正門を潜り抜けた途端に、彼女の膝ががくっと砕けた。そのままばったり倒れこんでしまう。
「え、ちょっと」
「ごめ……なさ……」
勢いで打ってしまったのか鼻の頭まで擦りむいてしまっている。
(おれのせいか!)
がーん、と固まっている正人の後ろから、穏やかな、それはそれは優しい声がかかったのはそのとき。
「ひどいな、池崎くん。女の子の扱い下手すぎ」
ぐりっと振り返った正人の目に、いつにもまして慈愛に満ちた表情の中川美登利が映った。
「大丈夫? 須藤さん」
「あ……」
須藤恵の傍らに膝をつき、美登利は優しく彼女の体を起こした。
「あちこち擦りむいちゃってるね。保健室行こう」
まだ肩で息をしている恵の背中を撫でてやりながら歩きだす。
すれ違いざま美登利は口の動きだけで正人に言った。
『ヨクヤッタ、エライ』
どういう意味だかわからない。正人は思わずその場にいた綾小路に尋ねた。
「なんすか? あれ。似合わないオーラ振りまいて」
「魚心あれば水心ってやつでな。……お手柄だ、池崎くん」
風紀委員長にまで褒められて、正人はわけがわからなかった。
「それで? 話してみてどうだったの、美登利さん」
昼休み。中央委員会室の片隅で。
「頭いいね、あの子」
美登利は須藤恵と話したことを船岡和美に相談する。
「佐伯先輩のこと見抜いてる」
へえ、と和美が感心する。
「でもね、せっかく頭はいいのに、自分では動かないもどかしいタイプ」
「……小暮綾香と主と従なわけか。なるほど、なるほど」
洞察力に優れる和美は、こういう感覚的な話をするときには実に頼もしい。
「忠告したものの小暮綾香に聞いてもらえなったわけだ。逆に裏切者扱いされちゃった感じ? それで学校に来るのが怖くなっちゃった?」
「この場合、悪いのは誰?」
「誰も」
和美は笑って即答する。
「誰も悪くない」
「そうだよねえ」
「ほっといたってすぐに別れることになるんだから、黙って見てればいいって言ってあげた?」
「言ったよ。でも須藤さん曰く、綾香ちゃんは一途だからなかなか離れたりできないんじゃないかって」
「ふーん。佐伯氏の交際日数記録更新できたりするのかな。あたしも賭けにのってこようかな」
「誰さ、そんなことしてるの」
「うちのクラスの男子」
話し込んでいたので人が入ってきたことに気づかなかった。
「なにをこそこそしてるんだ」
しゃがみこんでいたふたりは頭上から降ってきた声にびくっとする。
「えーと、恋バナ?」
「そうそう。恋バナ、恋バナ」
綾小路が呆れた顔で立っていた。
「なにさ、昼休みにわざわざ」
「三年の文化祭企画案、驚くぞ」
「受け付けは今日の放課後からだよね」
「でかい企画だから早めにって俺に直接持ち込まれた」
生徒会長兼文化祭実行委員会委員長に就任予定の一ノ瀬誠が説明する。
「規準は守ってもらうよう、いったん持ち帰ってもらったけど」
「三年生が全クラス合同でカフェを……」
「大正レトロカフェ」
「……をやりたいと」
美登利と和美は目を瞠る。
「学食とピロティの全面解放と厨房の使用許可を要求された」
綾小路は苦々しい様子だけど、
「いいと思う」
美登利は手放しで賛成した。
「いいよ。おもしろいよ。三年生すごいよ」
「そうでしょう、そうでしょう! もっと言ってちょうだい」
高い声が割り込んできた。
「高校最後の文化祭! 私たちは本気なのよ」
三年の岩下百合香。元生徒会副会長で女子生徒のリーダー的存在だ。
「学食をレトロモダンなホール風に飾り付けて、着物にフリフリ白エプロンな女給さんスタイルの女子が接客するの!」
見て! と手にしたファイルをめくって参考資料らしきページを開く。
「おおー。カワイイ」
「いいですね」
「そうでしょ、そうでしょ。それでね、女子がここまで体を張るんだから、男子はこうよ!」
どうよ、と見開かれたページの写真には白シャツに黒のカマーベスト、丈の長い黒エプロンをまとった男性の姿。
「おおー。カッコイイ」
「……ギャルソンですか」
でもこれって着る人を選ぶのでは。口には出さなかったが、百合香には伝わったらしい。
「わかってるわよ、みどちゃん」
美登利の肩を抱き寄せ、したり顔で頷く。
「ギャルソンは選りすぐりの男子にやってもらうから。それでこそ付加価値が付くってものだもの。それでね、みどちゃん。相談なのだけど……」
いやぁな予感がしたものの、肩をがっちり掴まれてしまって逃げることができない。
「あの人にもね、やってほしいのよ、ギャルソンを」
「あの人って、例のあの人ですよね……」
「そうそう、例のあの人。彼がいるといないとじゃかなり違うと思うのよね」
「いやあ。あのひとはこういうことはしないんじゃ」
「だからみどちゃんに頼むのよ、なんとか説得してちょうだい」
「無理です」
「なに言ってるのよ! あの背と顔面偏差値の高さを無駄にはできないでしょう!」
「いや、だから……」
「文化祭の成功がかかってるのよ、みどちゃん」
「…………」
誰か助けて。心底思ったというのに。その場から誰一人いなくなっていた。
「池崎くん。今朝はありがとう」
廊下の個人ロッカーから午後の授業のテキストを取り出していると、須藤恵に声をかけられた。鼻の頭には擦りむけた傷と、両の膝小僧には絆創膏。
「ごめん。おれが無理やり引っ張ったりしたから」
ふるふると両手を振って恵は小さく笑った。
「いいんだよ。池崎くんに連れてきてもらわなかったら、今日もサボってたかもしれないもん」
須藤恵が同じクラスで、無断欠席で風紀委員会の要注意人物リストに載っていただなんて正人は知らなかった。知らないからあんな無神経なことができたのだが。
「よかったよ。おかげで中川先輩に話を聞いてもらえて、だいぶ気持ちが楽になったもん」
なんの罪もない笑顔で恵が言い切る。
「もっと怖い人かと思ってたけど、そんなことないんだねえ。優しい人で安心したよ」
それはないだろう。滅茶苦茶怖いぞ、あの女。
真実を言うべきか言うまいか、悩んでいると視線を感じた。
廊下の少し先、一年三組の教室の前から髪をポニーテールにした女子生徒がこっちを見ていた。正人ではなく恵を。
恵も気がついてそちらを見る。途端に彼女は教室の中に入っていってしまった。
「友だち?」
「うん。そうなんだけどね」
尋ねた正人に恵は泣き笑いの表情になって俯いた。
「百合香先輩のむちゃぶりなんか無視でいいと思うよ」
「そうですよ。だいたいそれって三年生の問題じゃないですか」
放課後、中川美登利は坂野今日子と船岡和美と連れ立って屋上への階段を上っていた。それぞれ文化祭実行委員会の腕章を付けている。
ペントハウスへの最後の折り返しに差し掛かったところで、腰壁の陰から人が飛び出してきて三人は驚いた。
三年生らしい女子生徒がものも言わずに廊下を走り去っていく。
「…………」
美登利たちは苦い表情で顔を見合わせるしかない。
思った通り、屋上入り口前の暗がりにその人物がいた。
「うちら先に行ってるよ」
美登利から鍵を受け取り、和美と今日子が屋上へ出ていってしまう。開け放したままにした扉から、少し強さを増した日差しが差し込んでくる。
光に目を細めながら佐伯裕二が重く口を開いた。
「言っとくけど、俺が誘ったんじゃないよ」
足を投げ出し壁にもたれて蹲っている佐伯裕二を、美登利は腰に手をあて立ったまま見つめる。
「今お付き合いしてるのは調理部の一年ですよね」
「うん、小暮綾香」
そこで初めて、佐伯は美登利に向かって視線を投げた。
「気が強くてプライドが高く向こう見ず。自分の方が劣っていることも知らずに友だちを見下してる。俺の大好きなタイプ」
「女嫌いのくせに、よく言いますね」
佐伯裕二は「はーっ」と息を吐いてずるずる体を横たえた。
「嫌いだねえ。女ってやつは。自分勝手でわがままで、自分を世界で一番きれいな存在だとでも思ってる。その上押しつけがましいときた日には、虫唾が走るよ」
淡白で無気力でいい加減。佐伯裕二を知る者は皆がそう言う。
女嫌いのくせに女性と付き合うのは、拒むことさえ面倒だから。来るもの拒まず去るもの追わず。そうやって、誰もが自分を通りすぎていくのをただ待っている。
女が、というより人が嫌いなのだろうな、と美登利は思う。ずけずけと他人を傷つけもするけれど、本人にとっても楽な生き方ではないはずだ。だからといって同情したりしないけれど。
「否定はしませんけど、でも、人って変わるんですよ。賢い友人がそばにいるならなおさら。佐伯さんはそういうこと信じないのでしょうけど」
「……」
「大体先輩は自意識過剰すぎ。誰もかれもが友情より自分を選ぶと思ってやしませんか?」
「……」
「聡明な子なら、ちゃんとわかってますよ。一時の感情で友人を失くしたりなんかしない」
「じゃあ、賭ける?」
ぐいっと身を起こして佐伯裕二が美登利を睨む。
「証明して見せてよ。その、女の聡明さってヤツ」
翌日は朝から雨だった。
「やだねえ、このままグズグズ梅雨入りしちゃったりしないよねえ」
いつものように伸びをしながら窓から昇降口前の中庭を見下ろした船岡和美は、目を見開いて体を乗り出した。
「ちょっとあれ。なにやってるの」
え、と今日子も下を見る。
色とりどりの雨傘が行き交う中庭の片隅。長身の影が小柄な女子生徒を追い詰めようとしていた。
傘が邪魔でよくわからないがあれはきっと佐伯裕二だ。小柄な方は、赤い傘からショートボブの茶色がかった髪がわずかに見える。
廊下を走り出した和美の後から今日子も駆け出した。
生徒たちがざわめいている昇降口前を通りすぎ、渡り廊下の方から現場を押さえる。
そこでは既に、さらなる事件が起きていた。
赤い傘が、雨が降りしきる中に転がっている。須藤恵は、まさに今叩かれた頬を押さえて立ち尽くしていた。
その前には手を振り下ろした格好のままの小暮綾香が立っていた。
「あんたなんか、もう、友だちじゃない!」
言い放ち、生徒たちの間を抜けて昇降口の方へ行ってしまった。
佐伯裕二の姿はもう既にない。
残された須藤恵はその場に膝をついて手で顔を覆い、ほろほろと泣き始めた。
「なにあれ、修羅場?」
「あたし見てたけど、佐伯くんがあの子にちょっかい出してるふうだったよ」
「佐伯くんが自分から女の子に近寄ったりするー?」
傘の下でさざめいている生徒たちの向こうから、池崎正人もその様子を目撃していた。珍しく普通に登校してみたならこの騒ぎだ。
まだ泣いている須藤恵を坂野今日子と船岡和美が慰めている。こういうとき、真っ先に現れるはずの中央委員会委員長がやって来ないことが引っかかった。
その中川美登利は、廊下の片隅から遠目にその一部始終を眺めていた。暗い表情でこつんと壁に頭をあてる。
「よくないよ」
突然、後ろから一ノ瀬誠が彼女の肩に顎を載せて囁いた。
「なにも知らない子たちを利用するのは」
「おっしゃる通りです」
裁かれている気分なのだろう。美登利はしょんぼりうなだれている。
(おまえを裁くのは俺じゃないけど)
誠の目線の先、池崎正人は怖い顔のまま何か考えているようだった。
午前の授業が終わるのを待って、小暮綾香は自分の教室を飛び出した。
同じく学食へ走り出していく生徒の流れから外れ、特別教室が固まっている北校舎の方へと向かう。
佐伯と話がしたかった。
入学してすぐ好きになった人。同じ一年の女子と付き合っているふうだったから始めは見ているだけだったけれど、別れたことがわかって告白を決意した。
『あの人はよくないと思う』
今まで口答えなどしたことがなかった恵に反対され、
『やめた方がいいよ。綾香ちゃん』
腹が立ったし寂しかった。友だちなら、なにをおいても応援してくれるべきではないのか。
『どんな人かもわからないんだし、もう少し様子を見た方がいいよ』
なに言ってるんだか。恋は早い者勝ちなのだ。ぼんやりしているうちに新しい彼女ができてしまうかもしれない。
だから綾香は行動した。そして勝ち取った。そう思ったのに。
『綾香ちゃん、なんにも楽しそうじゃないよ』
その通りだった。全部恵の言った通り。
けれど綾香はそれを認められなかった。恵の言葉を無視して、存在を遠ざけて、気がつけばひとりになっていた。恋をしていたはずなのに、自分ひとりきりに。
いつも休み時間をすごしているその場所に佐伯裕二はいた。いつも通りひとりきり。
彼は、ひとりきりをなんとも思っていない。綾香とは違う。誰がいたってきっとこの人は、ずっとひとりきりなのだ。
「先輩」
呼びかけたが佐伯はこっちを見ない。
「今朝は、ごめんなさい。わたし、よくわからなくなってしまって。でも、恵が」
そう、悪いのは恵だから。悪いことは全部恵のせいにして、そうすれば、きっと。
「めんどくせえ」
なんの脈絡もなく、こらえきれないように、佐伯が低く言葉を吐き出したのはそのとき。
「あんたしつこすぎ。たいていが二三日で見切りをつけてくのに馬鹿なの、あんた? もしかして自分なら、とか思ってる? ないから。いい加減諦めてくれよ」
「……ひどい」
「酷い?」
佐伯は両手で綾香の頬を掴んで持ち上げ、至近距離から彼女の目を覗き込んだ。
「酷いのはどっちだよ? 俺は最初に言ったよな、あんたのことは好きでもなければなんの興味もない、石ころ同然だって。こんなこと言われてもまだ好きとかいう神経どうなってんの? 俺の面の皮一枚にそこまでなって友だちを捨てたりするのは酷いって言わないの?」
「……っ」
綾香の目に涙が浮かぶ。
ぼすっと佐伯の背中に何かが当たった。
弁当箱が入っているらしい巾着袋ががしゃんと音を立てて床に転がった。
「綾香ちゃんは悪くない!」
大きな瞳をいっぱいに見開いて須藤恵が叫んだ。
「綾香ちゃんは、悪くない。綾香ちゃんから離れろ!」
「恵……」
ずるっとよろけるようにして綾香が恵に手を伸ばす。
「綾香ちゃん」
「ごめん……ごめんね……。本当にごめん……」
恵にしがみついて綾香が泣き始める。
自分も涙目になりながら恵はぎゅっとその体を抱きしめた。
自分の方こそ馬鹿馬鹿しくて涙が出る。
あの女の口車にまんまと乗せられて、あげく我慢ができなくなって自分から勝負を投げ出してしまった。きっとなにもかも、あの女の計算通り。実に馬鹿馬鹿しい。
気分転換に飲み物を買いに購買に向かった。
パンも売り切れて人気がなくなった自販機の前で、当の中川美登利とかち合った。
「……あんたの言った通りだよ」
小銭を入れコーヒーのボタンを押しながら、佐伯はつぶやくように言葉を落とす。
須藤恵は、佐伯の揺さぶりに動じなかったし、綾香を見捨てもしなかった。一ミリたりとも佐伯が思ったふうには動かなった。気が弱くはかなそうに見えてまるで違う、聡明で勇敢。
中川美登利が言った通り。自分の方こそ人を見る目がなかったと反省してしまいそうなほど。
思うつぼな展開で、さぞ勝ち誇って笑っていることだろう。
そう思って受け取り口からコーヒーを取り上げながら美登利を見ると、その顔は、まるで無表情で。
「……」
女は訳がわからない。佐伯は益々苦い気持ちになる。
「ときに佐伯さん」
購買で買ったばかりらしいレポート用紙とペンを取り出して、美登利が言った。
「誓約書を書いてもらえますか?」
「はぁ?」
「文化祭でギャルソンをやるって、岩下先輩に向けて一筆」
にこっと笑顔になったと思ったら空恐ろしいことを言う。
「くそっ」
自販機前の丸テーブルにレポート用紙を叩きつけペンを寄越せと手を差し出しながら佐伯は吐き捨てた。
「書くよ。賭けに負けたのは俺だからな」
やけくそのようにペンを走らせ、尋ねる。
「もし勝ってたら、あんた本当に俺と付き合ったのかよ」
「もちろん」
平然と嘘をつくその顔に、佐伯はキスしてやりたい衝動に駆られた。
その日の放課後。
「ねーえ。坂野っち」
「なんですか?」
「あの子たち、今朝ものすごい喧嘩してなかったっけ?」
和美が指差す方向で、小暮綾香と須藤恵が笑い合っている。部活に行くのだろうか、調理室がある北校舎への渡り廊下を通りすぎていく。まさにその場所で今朝、修羅場があったばかりだというのに。
「箸が転がっても可笑しい年頃なんて、そんなもんですよ」
「仲直りしたならいいんだけどさ」
言いにくそうに、和美は小声になる。
「美登利さんの、思惑通りってことなのかな」
「何か問題でも?」
「放っておいてもそのうち仲直りできたろうに、かわいそうになって」
「私はいつでも美登利さんの味方です」
「もちろんあたしだって」
ムッと和美は口を尖らせる。
「そうですか」
どうでもいいとばかりに今日子は適当に相槌を打つ。
「坂野っちは潔くていいよねえ」
しみじみと和美は感心した。
「みどちゃん、ありがとう。やっぱりあなたに頼んで正解だったわ」
佐伯裕二の誓約書を受け取った岩下百合香はほくほく顔だ。
「たまたまですよ。本当にたまたま」
対する美登利はどこまでもローテンションだ。
「またまた! みどちゃんてば謙遜」
違うのだ。ぶっちゃけ美登利は佐伯裕二が苦手だ。そもそも話が通じないから言葉が届かない。まるで操れる気がしない。
それが今回手の内に転がり込んできてくれたのは、佐伯の方で何か変化があったからだろう。それは、もしかしたら、小暮綾香のせいなのかもしれない。
「あら。みどちゃんてば、落ち込んでるの?」
百合香が眉をひそめて美登利に顔を寄せる。
「困るわ。私たち上級生を容赦なく蹴落としたあなたがそんなことでは」
「……」
「調理部のあの子たちのことは私も気にかけてあげる。せめてものお礼よ」
魔女がいたなら、ああいう顔をしているに違いない。機嫌よく去っていく後ろ姿に美登利はそう思う。
実行委員会の仕事に戻らなければ。気持ちを切り替えたくて窓の外を見た。
朝より小降りになった雨は、けれどまだ止む気配はなく。戸外の作業が始まる頃にはまた晴天続きになればいいけれど。
「あいつらを利用したのか?」
美登利は振り返る。池崎正人が怖い顔で立っていた。
なにも言えない。答えない美登利に正人は更に表情をきつくして吐き捨てた。
「サイテーだな」
それから三週間がすぎて、あっという間の三週間で。加速度的に委員の仕事が激化して、池崎正人はなにも考えられなくなっていた。
あれから中川美登利とは一言も口をきいていない。もともと親しいわけじゃなかったから大した変化ではない。ただ森村拓己からは態度が悪いと何度か咎められた。
「やっぱベニヤが足りないな。誰かもう二枚もらってきてくれ。一番大きいやつ」
「おれ行きます」
「ぼくも」
雨を避けてのピロティーでの作業はまわりが込み合っていてなかなか捗らない。
「週間予報だと来週は毎日晴れマークだったよ。当日は晴れるかな」
拓己が空模様を気にしながら言う。
食堂の前で小暮綾香と須藤恵に会った。
「どうしたの?」
「厨房から小麦粉とお砂糖持ってこいって言われたんだけど。入りにくいよね、食堂」
「ああ……」
確かに。ここはもはや三年生の牙城だ。
「ぼく行ってきてあげるよ」
慣れたもので拓己はまるで臆することがない。
「わたしも行く。あんたはここにいて」
こくこく頷く恵を残して綾香も行ってしまう。
「仲直り、できてよかったな」
今更だが正人が言うと、恵は嬉しそうに頷いた。
「ほんと。わたしの中で文化祭が悲劇になるとこだったよ」
「そうか」
正人の中で、何かがすとんと落ち着いた。当の本人を差し置いて、自分はなにをあんなに怒っていたのだろう。
ただ、たとえば自分が弱みを握られこき使われていることに関しては、屈辱はあっても哀しくはない。男だし、泣くほどのことではなくて。
でも、恵も綾香も泣いていたから、それはよくないと思った。恋愛というものは自分にはまだわからないけど、そういう気持ちを利用したり巻き込んだり、そういうことを。彼女に、してもらいたくなくて……。
はっと正人は物思いから醒める。拓己と綾香が戻ってきていた。
「砂糖って重いね。運んであげようか?」
「大丈夫だよー。うちらけっこう力あるもん」
拓己から荷物を受け取りながら恵が笑った。
「森村くん、ありがとう。池崎くんも」
「ありがと」
小暮綾香がぽつりと言って恵を促し行ってしまった。
「池崎、ぼくらも急ごう」
「ん」
生徒たちに下校を促す放送が流れて、その日の作業はやっと終わりになった。
正人は最後まで片づけにつき合わされてしまったから他の皆より帰り支度が遅れてしまった。
昇降口前の廊下は既に薄暗い。
前方からファイルや模造紙の束を抱えた中川美登利が足早にやって来た。正人に気がつく。
「この前は」
正人が口を開くと美登利は立ち止まった。
「言いすぎました。ごめんなさい」
ぷっと美登利が吹き出す。
は? と正人は眉を吊り上げた。人が素直に謝っているのにこの女は。
「ごめん、ごめん」
くすくす笑いながら美登利は目元をぬぐった。
「池崎くんていいよね。男の子らしくて」
馬鹿にしてるのか。もういい、そう思って歩を進める。
「謝らないでよ」
すれ違いざま美登利が言った。
「悪いことしたのは私。あなたが謝ることはない」
向こうを向いたまま彼女は淡々と続ける。
「それに、たぶん私は、また同じことをするだろうから」
肩越しに振り返り、正人は黙って目を見開く。
「どんなにひどいことでも、それが学校のためになると思えば、私はなんでもしてしまう。だからね」
ほんの少し正人を見返って、美登利は微笑む。
「そういうときには、あなたが私を止めて」
「……」
「ね?」
おつかれさまと言い足して、美登利は階段を上っていった。
あとに残された正人の耳に雨音だけが響く。
あんなふうに、そこまで彼女に思わせる青陵とは、いったいなんなのだろう。その答えはまだ、正人にはわからない。