Episode 15 パラダイス・ロスト
教会の鐘が鳴る……。
クリスマスが近づいてきたある日、彼が言った。
「イブの夜はどうしても顔を出さなきゃならない集まりがあって、君といられないのだけどいいかな。君が嫌なら……」
「大丈夫です!」
榊亜紀子は彼にみなまで言わせずに返事をする。
「どうぞお出かけしてきてください」
(さっき絶対、君が嫌ならお別れだねって言おうとした)
いい加減、亜紀子には彼の言動のパターンが見えるようになってきている。
そう? と微笑んだ後、彼は少し思案顔になって亜紀子を見つめた。
「恋人同士が会うのはイブの夜って決まっているの? クリスマス当日なら空いてるのになあ」
なに言ってるの、この人。亜紀子は胸がきゅうぅっとなって困る。最近の亜紀子は彼のこんな言動が愛しくて愛しくて仕方がない。
(なんたる堕落)
「ルールなんてないですよ。いつだっていいです」
「それなら、二十五日に」
「はい」
こくこくと頷いて彼を見送った後、亜紀子はその場に這いつくばって落ち込んだ。
(なにやってるの私……)
あまりの幸せに自分の使命を忘れてしまった。
そう、今の自分の絶対にして至上の使命、彼を怒らせるということ。
天気がいいから外を歩こう。彼が言うので亜紀子の部屋からほど近い公園まで来た。
イブの夜が明けた今日、街はとても穏やかだ。
彼の少し後ろを歩きながら亜紀子は考える。今日はどんなことをやらかしてやろう。なにをすれば彼は怒るのだろうか。
クレープの移動販売の前を通りかかる。随分な行列でそんなに美味しいのかと亜紀子は少し気になった。
気がついて彼が笑う。
「買ってきてあげる。そこに座って待ってて」
「いえ、一緒に並びます」
とにかくそばにいて彼を観察しなければ。考えながら立て看板のメニューを凝視していたら、彼がくすっと笑った。
「そんなにチョコが気になるの?」
チョコレートのトッピングの列ばかり見ていたらしい。
「ええ、まあ。普通に好きですね。チョコバナナにしようかしら」
ますます彼は微笑む。
亜紀子はピンときた。今、他の誰かのことを考えた。もしかしたら……。
そこでひらめいた考えに亜紀子はさすがに躊躇する。だけどやってみたい欲求もあって。
妹のことを根掘り葉掘り聞いたら、彼は怒ったりするのだろうか。
「あの、妹さんて、どんな方ですか?」
「天使みたいな子だよ」
即答。
「時々悪魔になる」
くすくすとおもしろそうに笑う。そう言うあなたが天使で悪魔みたいなんですが。
「チョコレートが好きなんですね」
「うん、そう。オペラってケーキあるでしょう、あれがとても好きでね。作ってあげたらすごく喜んで、すごいねって食べずにずっと眺めてた」
愛してる。愛してる。声からも表情からも愛しさがあふれ出ていた。
どれだけの想いを内に秘めて彼が日々をすごしているのかがわかって、亜紀子は言葉を失う。
クレープを受け取るときには手が震えてしまっていた。チョコレートの甘い匂い。
彼の少し後ろを歩きながら亜紀子は途方に暮れてしまう。結局、彼はなにをすれば怒ってくれるのだろう。彼の怒りの感情を見たいのに。
訳もなく目頭が熱くなってきて、あっと思う間もなく、なにもないところで躓いていた。
べしゃっと口も付けていないチョコバナナのクレープが彼のコートの後ろに貼り付く。さすがに驚いた顔をして彼が振り向く。
両ひざと両手を地面についたまま、亜紀子はそろそろと顔を上げる。
怪我の功名というべきか。さすがの彼も怒るはず、なにをやってるんだと怒鳴るはず。
「大丈夫?」
彼はコートに貼り付いたクレープのことは意に介さず亜紀子に向かって手を差し伸べた。
「痛かったの? 泣きそうだよ」
――実は僕、妹のことが好きみたいなんだけど。
あのときのように、日差しを受けた彼の容貌は淡くはかなくまぶしくて、あのときとは違った感情で亜紀子の胸をかき乱す。
「どうして怒らないんですか?」
「……?」
「どうして、怒らないんですか!」
たまらず叫んだ亜紀子に、彼は合点がいった表情で笑ってしゃがみこんだ。
「何かおかしいなあとは思ってたんだ。僕を怒らせたかったんだね」
ごめんね、と亜紀子と目線を合わせて彼は静かに謝った。
「先に言っておけば良かったね。僕ね、怒ったことがないんだ。怒るって、わからないんだよね。腹が立つっていうの、なったことがなくて」
亜紀子の瞳を色素の薄い茶色の瞳が覗き込む。
「つくづく僕って感情が欠けてるんだ。ああ、でもね」
くすりと笑って彼は話し続ける。
「友人が言ってたんだけどね。僕が高校生のときにね、妹に触ろうとしたやっぱり高校生の男の子の腕の骨を折りそうになったことがあってね、あのときは鬼みたいだったって言うんだよ」
彼は微笑んで話し続ける。
「別にそのときだって、そんなつもりは全然なくて。嫌だなあ、汚い手で触らないでほしいなあ、この手どっかにやってくれないかなって思っただけで、怒ったわけではないんだよ」
「……」
「また別の友人が言ったんだけどね、どうせおまえは恵まれてるから悲しいとか苦しいとか恨めしいとかがないんだろうって。僕の友人てみんな酷いことしか言わないね。でも仕様がないね。きっと僕がそういう人間だからなんだ」
「……」
「その通りなんだ。僕は恵まれてる。尊敬できる父がいて、明るくて優しい母がいて。勉強だってなんだって、やりたいことはやらせてもらってきた。子どもの頃はね、おかしな話だけど、そういうところに息苦しさみたいなものを感じてた。喜んだり笑ったり、そんなこともあまりなくて、いつも空が曇ってるみたいで」
でもね、と彼は淡く微笑む。
「あの子が産まれてすべてが変わった。世界に光が差して、色が付いたみたいに。あの子は本当に、天使みたいにきれいでかわいくて、みんなが喜んでた。僕もそのとき、はじめて嬉しいって思えたんだ」
亜紀子はこらえきれずに手で口元を覆う。
「嬉しくて感謝の気持ちでいっぱいになった。きっと、僕が母のおなかの中に忘れてきてしまったものを、あの子がかき集めて持ってきてくれたんだって思った。でもね、やっぱり怒りっていうのだけはよくわからなくて。あ、ちなみに妹はね、けっこう怒りっぽいんだよ」
怒った顔もかわいいんだ、と彼は穏やかに言う。
「僕の分も怒ってくれてるんだって思えば辻褄は合うのかな。こんなふうにね、僕は妹がかわいくて大好きで、あの子が存在するからこの世界だって素晴らしいと思うし、ここにいる君のことも愛しいと思える。本当だよ」
ささやくその眼を見ればわかる。彼は本気でそんなふうに考えている。
「逆に言えばね、あの子がいない世界なら僕にはなんの意味もない」
ゆっくりと立ち上がって彼は空を見上げた。
「あの子のいない天国より、あの子がいる地獄がいい。どこへだって行く、どこにだって堕ちる。……あの子が望めばだけどね」
「それならっ」
地面に蹲ったまま亜紀子は顔を上げて叫ぶ。
「私も行きます! 地獄へだってどこへだって、あなたが行くところへ、私も」
離れない、絶対に。
彼は一瞬眉をひそめて亜紀子を見下ろし、そして腰を屈めてもう一度彼女に手を差し伸べた。
「君は変わった人だなあ」
公園から仰ぎ見ることのできる教会の鐘楼で鐘が鳴る。
その音を聞きながら亜紀子は頬を涙で濡らしたまま彼の手を握る。
いざ、地獄への道行きを……。
* * *
時間を少しさかのぼったイブの夜の街。
花屋で見かけたカップルが微笑ましくて、つい声をかけてしまっていた。
「恋人に贈るなら、赤いバラだよね」
女の子の顔を覗き込む。なんだ、子どもだ。赤い薔薇にはまだ早い。
でも、と考え直す。
「君ら高校生だろ。どこの学校?」
「青陵です」
後輩か。微笑んだだけで余計なことは言わずにおいた。
花束を持って家路を急ぐ。母に贈ればきっと喜んでくれるだろう。人でなしの自分でも息子としてこれくらいのことはできる。本当は、あの子に会いたかったけれど。
(会いたい)
きれいな顔にキスしたい。そしたら彼女は怒り狂って自分を悪し様に罵って、あの激しい瞳で見つめてくれるだろう。それならば、あの悪魔な兄貴に殺されたってかまわない。
対岸のイルミネーションを眺めながら河原沿いの道を歩く。水面に映る月影に今夜は月が出ていることに気がつく。空を見上げる。
「会いたいなあ」
白い息を吐き出しながら、村上達彦は月に向かってささやいた。




