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Episode 10  ある命題

「実は僕、妹のことが好きみたいなんだけど、これっておかしいのかな?」

 なに言ってるの、この人。

 榊亜紀子がそう思ってしまったのも仕方ない。今まさに彼に告白し、交際を申し込んだ相手に向かって言うセリフとしてはどう考えてもオカシイ。

 だけど亜紀子は彼とどうしても付き合いたかったので、辛抱強く真剣に彼の発言について考える。

 それは妹さんと寝たいということなのでしょうか、とはさすがに言えない。

「さいわい、あの子を欲しいと思ったことはないけれど」

 亜紀子はほっとしてこわばった頬になんとか笑みを浮かべる。

「ああ、それなら。よくある話じゃないかなぁ。おかしくはないと思うけど」

「そうか……」

 彼は曲げた指を唇にあてて少し考え込む。

 カフェの窓際の席。光が差して色素の薄い彼の容貌をますます淡くはかないものにする。それでいて光の縁取りが目にまぶしい。

(ああ……)

 今すぐスケッチブックを開いてデッサンしたい!

 禁断症状に震える右手を握りしめる亜紀子に彼はふわりと笑いかける。

「そう、それでね。僕と付き合いたいって話だったよね」

「はい!」

「さっき言ったように、僕は妹が大好きで、いちばん愛していて、あの子以外大切なものなんてなにもない。もしあなたと妹が死の病で僕の心臓を必要としているとして、僕はあなたを見捨てて迷わず妹に命を捧げるけれど、それでもいいかな?」

 亜紀子はたらりと汗をたらしたまま硬直する。

「これはもう命題なんだ。変わらない。変えられない。それさえ呑んでくれたなら、あなたとお付き合いするのはかまわないけど」

 どこまでも優し気な柔らかな表情。だけどその奥につよくつよくつよく撓んで歪んで渦を巻いたものがあるはずだ。本当の彼を形作っているもの。光と影があるように、人の心はひとつではないから。

 外見の美しさだけではない。その内のいびつなものまで見出して描き切りたい。そのためには、彼のパートナーになるのがいちばん手っ取り早いのだ。だから。

「お願い致します」

 至上の選択だったはず、なのだが。


「ふうううう」

 長く長くため息をついて亜紀子は祭りの雑踏を眺める。亜紀子が通う美大の芸術祭。似顔絵屋担当で校内のメインストリートで店を広げてはいたけれど。まるで描く気が起きない。

「あんたなにさ、そのやる気のない態度」

 一緒に担当している級友にざっくり突っ込まれる。

「T大生の彼氏なんかゲットしやがったくせに」

 T大関係ないし。知らなかったし。T大生なんて。

 そう、自分はなにも知らずに突っ走ってしまった。ただ彼をモデルにしたい、それだけのために。

 彼のことなんてなにも知らなかったくせに。ただ、一目ぼれしてしまったばかりに。

 めったに見かけない画材を探しに、めったに出かけない都内なんかで、めったに入らない大型書店なんかで、彼を見つけてしまったばっかりに。

「運命の罠だ……」

「あーそーですか」

 けっと吐き捨てられたけれど。違う。

 これは、自分を堕落させんとする悪魔の罠に違いない。亜紀子は思う。芸術のために身を挺したはずだったのに、悪魔に身を捧げたはずだったのに。

 最初の妹至上主義発言にこそ引きはしたけれど、彼は至って真面目な交際相手だった。メールや電話の返事はきちんとくれるし、会いたいと望めば応じてくれる。彼が自由が利かなくなるときには事前にきちんと連絡がきた。

 多少事務的に感じられることもなくはないが、亜紀子自身そう情熱的ではない方なのでまったく不満はない。

 妹関係についても結局のところ警戒の必要はまったくなかった。

 彼の下宿先の部屋に妹の写真があるでもなく、自慢話をされるでもなく、頻繁に連絡を取り合っているふうもなく。

 最初にあんな発言さえされていなければ、彼に妹が存在する気配など感じられないほど。

 あれは一種の女除けだったのか。普通はあんなことを言われたら実際に付き合ったりしないだろう。亜紀子には下心があったから飛び込めただけで。

 そして飛び込んでみれば、彼は普通に優しい彼氏で。

(ダメでしょ、これじゃあ)

 亜紀子は愕然とする。これではただの満たされた人だ。仮にも自分は、芸術家を目指していて、表現しようとする者が満たされていてはいけないと亜紀子は思う。

 渇望。渇くような欲求が創作には必要で、それを感じたからこそ彼を求めたのに。欲したはずの彼の内面がまるで見えない。

 もう数えきれないほどデッサンした。何十時間と彼を観察した。深い仲にもなった。

 なのに彼の感情が見えてこない。嬉しい楽しいはかろうじてわかる。笑いもすれば本や映画や音楽に感動する様子も見せる。だけど哀は? 怒は? それが見えない。

(私には難解すぎる)

 出会った頃に感じた、描きたいと思った彼のイメージ。それすら手から零れ落ちてしまって、もはやただのお付き合いに徹してしまっている自分がいる。

 これを堕落と言わずしてなんと言おう。なんて恐ろしい。ついていく悪魔を間違えた。

 模擬店の並ぶ通りをそぞろ歩く人波を見つめる。

 誰を見ても彼に感じたような創作意欲は沸かない。それなりに見目の良い人物はいても、やはりそういうことではないのだ。

 絶望にも似た気分に浸っていたのに、奇跡が起きた。

 人込みの中、立ち止まってパンフレットを眺めている女の子。すらりとして髪が長い。姿勢のいいその姿。

 花が咲いたようだった。亜紀子の眼にはそう見えた。

(ああ。神様、ありがとう!!)

 思ったときには彼女にがっしりしがみついていた。

「デッサンさせて!」

「は?」

「似顔絵、似顔絵描いてるの、そこで。お願い! あなたを描かせて!」

「え、と……」

 見れば見るほど、きれい。よだれが出てきそうになるのをこらえて亜紀子は必死に彼女の手を握る。

 彼女は眉をひそめて困ったようにしていたが、連れの女の子たちと少し話をした後亜紀子のところに来てくれた。どうやら別行動にしたようだ。

「ありがとう!!」

 涙を流さんばかりに感謝して亜紀子は彼女に座ってもらった。

「楽にしてね。それほど時間はかけないから」

「はい」

 返事をしつつも彼女はきれいに背筋を伸ばして座る。本人にとってはそれが楽な姿勢なのだろう。

 そういう人は他にもいる。彼がそうだ。

(そうだった)

 ものすごい勢いで鉛筆を走らせながら亜紀子は思い出す。

 初めて会った書店で。立ち読みしている後ろ姿に視線を引っ張られた。

 さっき彼女に感じたように。光が、差したように感じた。この人を描きたいと思った。

 それほど前の話でもないのにどうして忘れていたのだろう。今自分を突き動かしているこの衝動、そっくり同じものを彼にも感じたはずだったのに。

 どうして忘れていたのだろう。目頭が熱くなる。

(それはきっと)

 好きになってしまったから。あれほど知りたいと思った彼のなにもかもを「見えない」などと思い込もうとしたのは。

 彼を本当に好きだから、怖くなってしまったのだ。その内に踏み込むことが。

(堕落だ)

 好きなら好きで仕方ない。身を売った悪魔に魂まで奪われてしまった。

 それならば。それ相応の見返りを、求めなければ。

(渇望)

 それは命題だと彼は言った。真偽を証明する術など亜紀子にはない。

 ならば受け入れるしかない。彼は最初に言ったではないか。

 ――それさえ呑んでくれたなら。

 彼の影が、見えてくるはず。自分が引き寄せられた、彼の何かが。

「ちょと、あんた何枚描くつもり」

 級友にぺしんとはたかれて我に返った。いつの間にか場所を移動しながら何枚となくデッサンし続けていたらしい。

「ごめんね、このヒトおかしくて。みんながみんなこんなじゃないから。誤解しないでね」

 彼女は困った顔のまま微笑んだ。

 ああ、ほんとうに可愛い。

「ありがとう。ありがとうねええ。あなたは女神さまだよ。私を開眼させてくれたよ」

「だからやめなって。もう行くよ」

 ずるずると襟首を引っ張られる。

 ぎゅううっとスケッチブックを抱きしめて亜紀子はぶんぶんと見知らぬ彼女に手を振った。



「おーい。終わった?」

 和美たちがチョコバナナを食べながら呼んでいる。

「美大生ってやっぱ変わってるねえ」

「いや、あの人はちょっと、特別な部類みたい……」

「似顔絵描いてもらったんだよね?」

 小宮山唯子が首を傾げる。

「なにももらわなかったの?」

「あ……」

「描き逃げですか」

 坂野今日子が顔をしかめる。

「いや、でも。お金払ってないし」

 やれやれと肩を叩いて、中川美登利は息をついた。

「疲れちゃった。もう帰ろう」

「そうだね」

 船岡和美が同意して美登利と腕を組む。

「美大もおもしろそうだけど、あたしには所詮そこまでの感性がないってことがわかったよ」

「なんの話?」

「和美ちゃんたらプロジェクトマッピングの展示でね……」

「あれはひどいですよ、ほんと」

「だってさー」

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