第16話 血に濡れた刃を振りかざす女騎士団長は、夫を奪おうとする悪徳令嬢を断罪する。
深い森に囲まれた、湖の屋敷。
そこで、僕は誘惑に抗う日々を過ごしていた。
「……ねぇ? いいではありませんの。
あんな人形女なんて忘れて、わたくし様のモノになりなさいな」
「いやー!? お断りしますぅ!」
甘い声で囁き、時には蠱惑的に身体に触れ、ヴァイオレット様から僕を奪おうとするブランシュ様。
昼夜問わず。就寝時にすら襲ってくるのだから、たまったものではない。
このままじゃ、色々な意味でもたない。
だけども、屋敷は湖に浮かぶ小島の上にあり、向こう岸に渡る船はない。泳いで渡ろうにも、湖には凶暴なモンスターがうようよしており、現在屋敷は逃げ場のない鳥籠と化していた。
僕じゃあどうしようもできないんだよなぁ。
とはいえ。
僕の心が折れるまで幽閉状態が続くかと言えば、そのようなことはなく。
タイムリミットとなる条件がある。
「もう! まどろっこしいですわね!」
ブランシュ様が声を荒げる。
そして、ズビシッと突き刺すように僕を指差す。
「とりあえず、脱ぎなさいな!」
「脱いでなにする気ですか!?」
服は乱れ、ぜぇぜぇと息を切らせながら、壁際に追い込まれる僕。
手をワキワキさせるブランシュ様にここまでか――と、諦めかけた時、
「カトル様。ブランシュ様。失礼致します」
と、入ってきたのは初老の執事であった。
「なんですの?
今、忙しいのですわ」
「大変申し訳ございません」
唇を尖らせるブランシュ様に、初老の執事は丁寧に頭を下げて謝罪する。
「ですが、火急の用件がございます」
「……おほほ。そうですか」
僕から興味が失せたように、小さく笑うとブランシュ様はバルコニーに通じる窓の側まで歩く。そして、用件を訊かず初老の執事を下がらせると、好戦的な笑みを浮かべた。
危機を脱し、僕は安堵の息を吐く。
乱れた服を整えながら、ちらりとブランシュ様に視線を投げる。
「……用件、訊かなくてよかったんですか?」
「あなたもわかっているくせに、一々確認を取るんじゃありませんわ」
そりゃそうだけど。
ただ、僕の予想通りなら、彼女にとっては不都合な事態のはず。
なのに、ブランシュ様はまるで待ちわびたかのように、笑みを深くする。
「――いらっしゃいませ、ヴァイオレット様。
あなたのお姫様はこちらですわよ」
姫じゃないやい。
ヴィオラ様到着の一報。
自分で言うのもなんだが、ヴィオラ様には愛されている自覚がある。……いや、ほんと恥ずかしいいのだけど。
執心という言葉すら浮かぶ感情を僕へと向けるヴィオラ様。
そんな彼女が、いつまでも帰ってこない僕を心配しない、というのは考えられなかった。
ヴィオラ様を目の敵にしているブランシュ様も、同じように思っていたのだろう。
「予想より少し早いですが……問題ありませんわ」
悪巧みを成功させた子供のように、喜悦に満ち満ちた笑み。
してやったり。頬に手の甲を添え、勝利宣言かの如く、屋敷中に響き渡る高笑いを上げる。
「お~っほっほっほ!
今更来たところでもう手遅れですわぁ!
ここは、広大な森に覆われ、人をも喰らう凶暴なモンスターが闊歩する地。
運良く森を抜けても、待っているのは血に飢えた水中モンスターが泳ぐ死の湖ですわ。
ヴァイオレット様がこの屋敷に到着する可能性は万に一つもございませんわー!」
勝ち誇り、上体を仰け反らせてブランシュ様は哄笑する。
明らかに負けフラグっぽいんだけど。
しらっとした目を向けていると、窓の外に向いていた碧眼が僕を捕らえる。
ここ数日で見慣れた、自信に満ち溢れた瞳。
金髪縦ロールを翻し、一歩、また一歩と近付いてくる。嗜虐的な笑みに、いやーな予感。
「な、なんでしょうか、ブランシュ様?」
「己の手が届くか届かないか……。
そんな僅かな差で、愛する夫を奪われる。
ヴァイオレット様の表情を今から想像するだけで、勝利の美酒に酔ってしまいそうですわ~!」
お~っほっほっほ。
高らかに笑い声を上げたブランシュ様は、猛禽類のような鋭い目付きを僕に向ける。
「というわけで、さくさくっとヤってしまいましょうか」
「いやいやいや!?」
そんな軽いノリでなにをする気だこの侯爵令嬢は。
「安心なさい。
天井のシミ……はありませんが、直ぐに終わりますわ。
後悔の数でも数えていればよいですわ」
「そりゃ数えきれないほどあるけども……!」
ドタバタ。掴みかかってくるブランシュ様に、必死の抵抗を試みる。
性差ゆえの腕力差で抗えはするが、怪我でもさせないかと心配で手加減してしまい追い払えない。後、変なとこ触るのも怖い。
気付けば、僕は床に倒れ込み、ブランシュ様に馬乗りされてしまう。
お互い息を荒らげ、見ようによってはかなり危うい状態だ。乗る位置も腰付近でヤバい。
こんな体勢をヴィオラ様に見られた日には――あ。
「ま、まったく。
無駄な抵抗をいつまでも。余計な体力を使わされましたわ。
ですが……おほほ! これでカトルはわたくし様のモノですわ!」
「――誰が、誰のモノですか?」
シンッ、と静まり帰る室内。
発された声は冷たく、まるで地獄の吹雪のように身体を凍りつかせる。
寒さの幻覚に震え、凍りついた首を動かし、真っ青な顔で振り向いたブランシュ様は、絶望の金切り声を上げた。
「いやぁぁあああああああああああああああああああああああっ!?
な、ななな、なんでヴァイオレット様がここにおりますの――っ!?」
ブランシュ様の後ろに立っていたのは、騎士服を纏うヴィオラ様だった。
森を抜けてきたのか、真っ白だった騎士服は土に汚れている。抜いた白銀の剣は血で濡れ、その輝きを濁らせていた。
恐らくモンスターの血なのだろうけど……顔に影が差し、瞳孔の開く目は危うさを宿している。人を斬ったと言われれば、信じてしまいそうなほどに。
「ど、どうやってここまで……!?
森や、湖を超えられるはずが――」
「――どきなさい」
ただ一言。ヴィオラ様は発すると同時に、ブランシュ様を突き飛ばす。
「ふげっ!?」
と、淑女らしからぬ声を上げ、尻を突き上げた哀れな格好で転がる。
だ、大丈夫か?
心配になる僕とは違い、ブランシュ様に見向きもしないヴィオラ様は片膝を付くと、上体を起き上がらせた僕に涙を浮かべてみせた。
「旦那様……!
ご無事でしょうか!?
なにもされていませんか!?」
「あ、は……はい。
大丈夫です」
殺意という名の冷気は嘘のように綺麗さっぱり消え、くしゃりと顔を歪ませて心配してくるのは、いつものヴィオラ様だ。
張り詰めていた空気が緩み、ようやく肩の力が抜ける。
「申し訳ございません……!
護ると口にしておきながら、私のせいで旦那様を危険な目に合わせてしまいましたっ」
「あー、いえ。ヴィオラ様のせいというわけではないので」
否定すると、彼女は弱々しく首を左右に振る。
「いいえ。今回の件は父も絡んでいます。
旦那様に一体どのようにお詫びしたらよいのか……」
そうか。手紙についても知っているのか。
僕の服を小さく摘み、しゅしゅしゅんっと落ち込むヴィオラ様。瞳には薄い水の膜が貼り、今にも涙が零れ落ちそうだ。
感情の上下が激しく、ヴィオラ様は落ち込むことが多い。
だからといって、慰めることが上手くなるかと言えばそんなことはなく、毎回毎回どうすればいいのか頭を抱えてばかりだ。
どうしよう。悩んでいると、唇を噛みしめたヴィオラ様がスッと立ち上がる。
なんだなんだと目を丸くして見ていると、這々の体でこっそり逃げようとしていたブランシュ様を蹴りつけて横に転がした。
「な、なにをなさいま――ひぃっ!?」
ギラリ、と鈍い光りを放つ、血の付着した剣。
その鋒を突きつけて、ヴィオラ様が尻もちを付くブランシュ様を見下ろす。
「……いくら旦那様が魅力的な御方とはいえ、
このような不埒で下賤な真似は許せません」
「い、いえ……あなたの夫が魅力的だからというわけではなく」
「なにかおっしゃいましたか?」
「ヴァイオレット様の旦那様が魅力的過ぎてつい魔が差しましたと、
わたくし様の可憐なお口が言いましたわ!」
剣で喉を突かれ、あっさり手の平を返す。
しょうがないよねとは思うが、しっかり自分を褒めるのも忘れないのは流石だと言えた。
「そうですか。
では、死んでください」
「褒めましたのに!?」
どんな言い訳を積み上がれらようが、断罪するのは決めていたのだろう。
感情は消え、冷たい双眸が罪人を見下ろす。
躊躇することなく振りかざされるギロチンを見上げ、ブランシュ様の顔色が一層青く染まる。
「ほ、本気ですの……?」
「貴女が私を目の敵にしているのは理解しています。
理由はわかりませんが、私にとってはどうでもいいことでした」
ですが、と言葉を繋げたヴィオラ様の瞳に怨嗟の紫炎が仄暗く灯る。
「貴女は旦那様を巻き込んだ。
私への取るに足らない私怨で。
許す気はありません。
――ゆえに、死の償いを」
そう言った瞬間、剣が振り下ろされる。
逃げる隙はなく、避ける余裕もない。
振り下ろされる剣を、ブランシュ様が限界まで見開いた目で見つめ――
「ヴィオラ様待ってください!?」
――慌てて止めた。
途端、ピタリと剣は静止。
「は、ひ……」
ブランシュ様を真っ二つに斬ろうしたのか、顔の中心に沿うように剣が止まっていた。
あ、危なかったぁ。
ブランシュ様と剣の距離は小指が入るかどうかという程度。
こんなことで、危うく死人が出るところだった。ヴィオラ様を犯罪者にしたくないし、シンビジウム侯爵家と事を構える気もない。
「旦那様……」
振り向いたヴィオラ様は、やはり泣きそうな顔をしていた。
僕はため息をつくと、剣を納めるように言う。
「本人も反省……しているかはともかく、十分罰にはなったと思います。
ですので、止めましょう?」
いやうん。流石に殺しはマズいし。
僕の言葉を受けて、ヴィオラ様は躊躇いながらも剣を鞘に収めた。
なんというか……どっと疲れた。
手を付き、立ち上がる。重々しい足取りでヴィオラ様に近づくと、彼女に手を伸ばした。
「帰りましょうか」
「……はい」
頬を赤らめ、俯きがちに僕の手を取ってくれる。
添えるような、微かな力で手を握ってくるヴィオラ様は、「少しだけお待ち下さい」と言う。
そして、死が目の前を通り過ぎて放心状態のブランシュ様に顔を近づけると、そっと囁いた。
「――次はありませんから」
「あばばばばばばばっ!? ……きゅぅ」
心胆を寒からしめる予告に精神の負荷が上限を超えたのか、目を回してパタリと倒れてしまう。
色々と哀れだ。
その姿を見て、可哀想だと思ってしまう僕は甘いのだろうか。
■■
「お待ちしておりました、お嬢様。
お帰りの準備はできております」
屋敷を出ると、僕やブランシュ様のお世話をしてくれていた初老の執事が、小舟の前で恭しく頭を下げてきた。
そういえば、この屋敷はライラック公爵家の持ち物だったな。
ブランシュ様の従者だと思っていたけれど、どうやら屋敷の管理をする使用人だったらしい。
「お父様に、これ以上関わらないでと伝えてください」
「かしこまりました」
普段通りの無表情。そこに、些かの冷たさを足して、初老の執事に告げる。
そのまま彼の横を通り過ぎ、小舟に乗り込んだヴィオラ様が「旦那様」と呼び、手を差し出してくれる。
僕は小さくを会釈をして、初老の執事に「お世話になりました」と告げて別れようとすると、
「ヴァイオレットお嬢様を、宜しくお願い致します」
深々と、真っ白な白髪を下げられる。
目を丸くした僕はなにを言うか迷ったが、結局無難に「……はい」と頷くしかなかった。
ヴィオラ様の手を取り、船の上へ。
すると、船は勝手に動き出し、向こう岸を目指しだす。
「な、なんですか、これ」
「魔法の品です。
モンスター避けも備わっていて、水中のモンスターも近寄ってきません」
へぇ。なんか凄いな。
ちょっと気になり、船から顔を出して水面を覗き込むと、ギョロッとした細長いモンスターと目が合った気がして慌てて引っ込む。
……なに今の? シーサーペントとか言わないよね。いや、湖だからLake Serpent?
魔境の湖に怯えていると、そっと指先に冷たい感触が触れる。
見れば、顔を俯かせ、横顔を赤くしたヴィオラ様が指を伸ばしていた。
「ヴィオラ様?」
「……っ」
なんだろう。
首を傾げると、意を決したように手を重ね、身体をぐいっと寄せてくる。
ピトッと肩と肩がくっつく。
驚いて身を引こうとすると、重なった手が震えた。そして、見上げるように寂しげな目を向けられる。
「う」
謎の罪悪感に襲われ、身体を固める。
結果、寄り添うように手と手を、肩と肩を密着させ合うこととなった。
どうしたんだろう。急に。
ヴィオラ様との思わぬ密着に、頬が熱を帯びる。シャムロック男爵領の屋敷や王都にいる時も、ふれあいを求められることはあったが、基本、許可を求めてくるし、臆病なスキンシップだった。
こうも大胆に甘えてくるのはあまりなくて、ちょっとテンパる。
なんとも落ち着かず、無意味に辺りを見渡していると、ヴィオラ様が小さく小さく、独り言のように呟いた。
「心配……していました」
湖のさざなみにさらわれて、消えてしまいそうな声。
「心配かけてごめんなさい」
謝ると、やはりヴィオラ様はふるふると首を横に振る。
そして、暫くの沈黙の後、もう一度口を開いた。
「ブランシュに盗られるのではないか……心配で」
重ねた手に力が籠もる。
離したくない。行かないで。まるでそう語るように、僕の腕を抱えてくる。
その姿は、まるで大好きな母親と取られまいとする、幼子のように映った。
そっか。そういう心配か。
理解と同時に、己の不甲斐なさに嫌気がさす。
そんな心配をさせてしまうぐらい、僕のヴィオラ様への気持ちは軽く、不確かなモノで、なにも伝わってなんかいなかったから。
怯える少女の手を握り返す。
不安そうに見上げてくる彼女に、精一杯の笑顔を向ける。
「行きませんよ、誰の元にも」
好意ではない。けれども、僕の胸の中に抱く、確かな想いを形にして贈る。
「僕には、ヴィオラ様がいるので」
「……!」
目一杯に見開かれた妻の瞳。
驚く紫の星を直視できず、ふいっと目を逸らしてしまう。
涼やかな湖の上だというのに、身体が熱い。
どんな顔をしているのか。どう思われたのか。
生まれた静寂。不安に駆られ、心臓の音がうるさいほどに耳を打つ。
短くも長い小舟の旅路。まだ陸地に着かないのかと、脂汗までかき始めていると、とんっとヴィオラ様が胸に頭を預けてきた。
「……はい」
恥ずかしそうに。けれども、溢れ出る幸せを噛みしめるように。
耳を甘くうずかせる小さな声に僕は安心を覚えた。
そして、できれば長くこの時間が続けばいいな、と。
先程思ったことを呆気なく翻し、小舟の上で揺られる旅に身を任せた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
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