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バイオ研究と漫画

「ねぇ、土日は普段、何してるの?」

 スズカ先輩は僕に聞いてくれた。

「わりと走るの好きなんで、よく家の近くをランニングしてて。家の近くに、川があるんですよ。そこを走ってて」

「そうなんだ。いつも研究室で研究してる姿しか見てなかったから、ちょっと意外だな」

 僕の方から昼飯に誘って、大学近くのデパートに入っている定食屋に来たにも関わらず、先輩の方から話を聞いてくれる。ほんと、なんて良い先輩なんだろう・・・。

「でも君、走っているわりには太ってるよね」

「え?」

 先輩は笑っていた。やっぱり、あまり良い先輩ではないかもしれない。

「先輩、来月、学会発表っすよね?資料とか、準備してるんすか?」

「うん。まだ実験データ纏めてるだけだけど」

「結果はもう出てるんですか?」

「うん。もう出てるよ。ちょうど一昨日、出たところ」

「すごいですね。まだ博士1年なのに、もう2本目の論文も出せるんじゃないですか?」

 僕は感心して言った。先輩は、うーん、まだかなぁ、と言いながら笑っていた。

 先輩は僕の2個上にあたる。僕は修士課程を卒業したら、就職しようと思っているけれど、先輩は修士課程から博士課程に進学して、まだ大学院で研究を続けている。

「そういえば、アカギ君も、この前良い実験結果出てそうじゃなかった?蛍光顕微鏡の前で喜んでるの見たよ」

「あ、そうなんですよ。なかなかうまくいかなかったんですけど、試薬変えてみたらすごくうまくいって。卒業論文にも使えそうなデータが取れました」

「よかったね。ずっとアカギ君が顕微鏡使ってるから、困ってたんだよね。あともうちょっとで怒ろうか悩んでたんだ」

「え、そうなんですか。いつも笑顔で顕微鏡譲ってくれてたのに・・・」

先輩は笑いながら、自分で頼んだ焼酎を吞んだ。


僕と先輩は2人で昼ご飯を食べ終えて、定食屋を出た。すると先輩のスマホに電話がかかって来たらしく、ちょっと待ってね、と言って、先輩は僕から離れてデパートの壁際に寄った。

 僕はその間、ぶらぶらと向かいにある本屋の本を眺めていた。先輩はすぐ、戻ってきた。

「ごめん、ちょっと急用ができちゃって。今日はもう、研究室には戻らずに帰るね」

「あ、そうなんですか。わかりました」僕は言った。

「有難う。ご飯美味しかったね」

 先輩はそう言うと、僕に背を向けて行ってしまった。


 僕はまた研究室に戻ろうかと思ったが、今日の作業はもうほぼ午前中に終わったので、少し本屋さんに寄った後、自分も帰ることにした。家に着くと、いつものように自分の部屋の扉を閉め、机の上に紙とペンを置き、コマ割りを描き始めた。棚には、漫画がずらりと並んでいる。最近の作品もあれば、昔に流行った作品もある。あまりメジャーでない作品も多い。自分の描く漫画なんて、絵は下手だし、話は面白くないし、センスはないし、セリフは薄いし、日の目を浴びることなんてない。でもなぜか、中学生の頃から描き続けている。


 次の日の朝、起きてまた大学に行き研究室の扉を開けると、先輩はいなかった。あれ、珍しいな。僕は誰もいない研究室に入り、自分の席に座った。先輩は土日もいつも研究室に来ているから、いないのは珍しいのだけれど、まぁ、そういうこともあるか。

 デスクトップのパソコンの電源をつけた。実験ノートを開き、今日やることを確認して、培養している細胞の観察を始めた。研究室に入ったのが1年ちょっと前で、それから毎日のように細胞の観察をしているから、もう何百回と顕微鏡を覗いている。細胞は土日関係なく、観察しないといけないから、僕にも土日はない。細胞も土日は休んでくれると良いんだけどなぁ。

 そうやって観察を続けた。もう30分は経っただろうか、といったところで、研究室の扉が開いた。物陰で誰が来たのかはわからない。 

 しばらくすると、おはようございまーす、と言って、後輩の男が入ってきた。

「あ、お早うー」僕は言った。

 うちの研究室は、教授が1人、学生が4人だ。研究室としては小規模な方だ。


 僕は細胞の観察を終え、実験室を離れて自分の席に戻った。

「今日、先輩いないんだよね。珍しくない?」僕は後輩に声をかけた。

「そうですよね。さっき、オレも思いました。いっつも朝早いのに」

「ね」僕は言った。

 しばらく間があいた。

「そういや、今週のドラマ観た?あの、Sが主演女優のやつ」

 後輩と僕は他愛ない話を続けた。

 

 後輩が実験を始め、僕は実験ノートに、今日観察した細胞の様子を纏めていた。すると、また研究室の扉が開いた。

 お早うございますー、と言って入ってきたのは、先輩だった。あれ、昨日と髪色が違う。普段は黒髪なのに、茶髪に染めている。

 お早うございます、と僕は言った。

「髪、染めたんですね」僕は言った。

 先輩は振り向いて、言った。「そう。どう?」

 言いながら、先輩は片手で髪をかきあげた。

「お似合いです」僕は言った。

「有難う。嬉しい」

 先輩はそう言いながら、鞄を机に置いた。

「昨日はごめんね。急に帰っちゃって」

「あ、いえ、全然大丈夫です」

 僕は実験室の方を見た。後輩に、昨日先輩と昼飯に行ったことを、なぜかあまり聞かれたくない気がした。どうやら後輩は、実験に集中していて、こちらの会話は聞こえていないようだった。

「また行こうね」

「あ、是非」僕は言った。

 昨日、何とはなしに先輩と別れた後、本屋さんに寄って雑誌をめくって調べていた。女性はお花が好きと聞くから、お花畑なんか誘ったら一緒に行こうとかなるかなぁ。

 先輩はパソコンを開いて、作業を始めた。昨日は先輩と色々話せたけれど、未だ先輩のことはあまりよく掴めていない。先輩は、いつも真剣に研究をしているけれど、そのモチベーションは一体、どこから来ているのだろう、とよく疑問に思っていた。先輩は、誰よりも早く研究室に来て、誰よりも遅く研究室を去る。家よりも研究室にいる時間の方が長いんじゃないだろうか。研究室が家みたいになっているようにも見える。研究が好き、実験が好き、ということなのかもしれないけど、本当にそれだけだろうか。何か実は、大きな野望みたいなものがあるんじゃないだろうか、なんて思ったりすることがあるけど、僕にはよくわからない。

 先輩は、肝臓の細胞に関する研究をしている。肝臓は、まだまだ未解明の機能が多い。生体内の代謝機能に関わっているのが肝臓で、その機能はあまりに複雑だ。

 よく先輩の机の上にコンビニの焼酎小瓶が置いてあるけど、それとも何か関係があるんだろうか。謎は深まる。


 また先輩とご飯に行ったときに、聞いてみるか。

 

 僕は実験のための試薬を作製したり、また今後の実験計画を作成したりした。こんな雑務的なことで、ほとんどの時間は過ぎていく。後輩は、早々に実験を終え、もう研究室を去っていった。そして僕と先輩はまた、研究室で2人きりになった。

「先輩」

 僕はパソコンの画面を見ながら、話しかけた。僕の席と先輩の席は、席が2つ分、離れている。

「ん?」

 先輩は、焼酎の瓶を口につけながら、僕の方に軽く向いた。

「いや、よくアルコールを入れて作業できますね」

「これぐらいじゃ酔わないし。余ってるけど、吞む?」

 先輩が引き出しを開けると、焼酎の小瓶がずらずらと中に入っていた。

「うわ・・・。いや、いいです」

「そう。で、なに?」

「先輩って、漫画とかは読みますか?」

「漫画?昔はよく読んでたなぁ」

「どんな漫画読んでたんですか?」

「え、知りたい?」

「はい」

「まぁ、少女漫画が多いから、あまり聞いたことないと思うよ」

「どんなジャンルですか?」

「少女漫画だからね、恋愛系が多いかな」

「へぇ、そうなんですね」僕はそこでしばらく黙ってから、言った。「僕が漫画描いてるって言ったら、信じますか」

「え?」先輩は手を止めて、じっと僕の方を見た。

 僕は、パソコン画面を見ながら、作業を続けていた。

「そうなの・・・?」

「信じますか?」

「いや、わかんない。信じないかも」

「描いてるんですよ」

「・・・そうなんだ」先輩はそう言い、沈黙した。

「賞に応募したりもしてるんです」

「すごい・・・。サイン貰っておこうかな」先輩は笑いながら言った。

「先輩は、夢とか、ありますか?」

「夢?うーん、なんだろ」

「大学院で、研究を続けるモチベーションとかって、何かあるんですか?」僕は聞いた。

「えー、秘密」

「そうですか」

「うそうそ。でも、そんなポジティブな理由じゃないんだ」

「どういうことですか?」

「会社員になるのが、嫌だったんだよね。朝早く起きて、上司のコーヒー淹れて」

「上司のコーヒー?そんなの、さすがに今、ないんじゃないですか?」

「そうかな。でも、会社に入ったら気がきく女性として振る舞わなくちゃいけないでしょ?そういうのが嫌なのよ。作業中、焼酎も飲めないし」

「それは今も止めた方が良いと思いますけど」

 先輩は笑っていた。

「あとは、いくら吞んでも潰れない肝臓を作りたいからかな」

「マジすか・・・?」

「アカギ君は、どうして漫画描いてるの?」

「あー、何ででしょう。考えてみると、僕もちょっとわからないですね」

「ずるい。私には聞いたのに」

「すみません。ほんとになんでかって言われると、わかんないんです」

 ふーん、と先輩は言って、またキーボードをカチャカチャと鳴らし始めた。

 ほんとにどうしてかわからないのだ。どうしてなのだろう。漫画が好きだから?絵を描くのが好きだから?うーん、わからない・・・。


 僕はまた、作業に戻った。夕方になるまで作業を続け、終わると挨拶して研究室を出て、道を歩いていった。


 あぁ、猫が道を歩いている。あくびをしている。

 のんびりしていて、いいなぁ。猫になりたい。


 僕は街のデパートに入り、1段、1段、階段を昇った。そして最上階に出て、屋上に出た。誰もいない。

 そうして、6階建てのビルの屋上から、下を眺めた。車と人が往来している。

 風に吹かれていた。

 空を黒いカラスが飛んでいる。カァカァ。カァカァ。

「カァカァ」

 僕は鳴き真似をしてみた。そして、またぼーっと蒼い空を眺めながら、先輩のことを考えていた。定食屋に行ったとき、焼酎を飲んでいるとき、じっと顕微鏡を覗いているとき、先輩と目が合ったとき・・・。


 次の日、僕は朝早くに研究室に行き、先輩に挨拶した後、コピー用紙を渡した。

「これって・・・」先輩は言った。

「読んで貰えませんか?ほんと時間があるときでいいんで。なんで描いているのか、未だにわからないんですけど、なぜか先輩に、読んでほしいんです」

「・・・いいよ」先輩は笑顔で、そう言ってくれた。言った後、先輩は引き出しを開けて余っている焼酎の小瓶を取った。

「いる?」

「それはいいです」


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