15・花が咲く令嬢、婚約者を思い出す(後)
そうだ。そういえば婚約者に言い忘れていたことがある。
「申し訳ありません、ユーベルト様。──私、好きな人がいるので貴方とは結婚できません」
これはケジメだ。強引な婚約だったが、逃げなかったのはフィーネだ。
ユーベルトも望んだ婚約ではなかったのに、フィーネはフェローに恋をして、婚約者をほったらかしにしてしまった。怒鳴られても殴られても仕方ない。
フィーネが席を立って頭を下げるが、ユーベルトが浮かべたのは失笑だけだった。
「俺が何も気付いていないと思っていたのか? 君が教会の神官とただならぬ関係なのは知っている。わざわざ寮まで送ってもらっているそうじゃないか」
「神官……? いえ──」
私が好きなのは神父様の方です。そう言い切る前に、立ち上がった婚約者が思いきりテーブルを強く叩いた。
置かれているカップが嫌な音を立て、中に残っていた紅茶がこぼれる。
「君の婚約者は俺だ! 皇太子も幽霊侯爵も神官も、どうせそのみっともない身体でたらしこんだんだろう!?」
「……っ」
婚約者が腕を振りかぶる。フィーネは覚悟して目を閉じた。
しかし。
「おいおい、アンタ死にたいのか」
「……ハルモニ?」
おそるおそる目を開けると、見慣れつつある背中が見えた。
神官のハルモニがフィーネを背に庇うように立ち、ユーベルトの腕を掴んでいた。
「初めまして、ユーベルト様。ご存知でしょうが神官のハルモニと申します」
「……間男が口を出すな」
「誤解ですよ。彼女はただ教会でカウンセリングを受けているだけです。心配なら付いてきたらどうですか? ──懺悔室も、ありますよ」
「ッ、」
神官の言葉に一瞬怯んだ婚約者は、掴まれた腕を取り戻すと背を向けて歩き出す。
しかし途中で立ち止まり、二人を睨み付けた。
「せいぜい今の内に楽しんでいればいい。──どうせ君は、俺に許しを乞う事になる」
そう言い残して婚約者は立ち去る。人混みに紛れてすぐに姿は見えなくなってしまった。
そこで周囲から随分注目されていたことに気付く。ハルモニに促され、フィーネ達もその場から離れた。
「あの……ありがとう。それと、ごめんなさい。ユーベルト様、なんだか今日は機嫌が悪いみたいで」
「何を言っているんですか。アレが素に決まっているでしょう」
「そうなの?」
「随分と余裕がなくなっているようですね。まあ、そう仕向けてはいるんですが」
教会まで辿り着き、扉を開けてもらって先に入った。
普段のように懺悔室へ入ろうとして、神官に制止される。
「ハルモニ?」
「先程の件を報告しますので、少々お待ちください。──決して、逃げないように」
そう言って神官は懺悔室に入ってしまい、フィーネは一人取り残される。
ハルモニの言葉を反芻し、首を傾げた。フェローに会いに来たのに、なぜ逃げると思われているのだろう。
そこでふと、思い出す。
フェローに会うのを躊躇っていたために婚約者に捕まってしまった事と──昨日見た夢。
モクレンの木の上で過ごした、かけがえのない甘い記憶。
『──好きだ、フィーネ。どうか俺を選んでくれ、愛おしい人』
カァッと顔が熱くなる。胸が苦しくなって、思わず手をあてた。
──今、彼に会ったらいけない。会ったらきっと困らせる──苦し、ませる。
礼拝堂を出ようとしたが、懺悔室のドアが開く気配を感じて、慌てて近くにあった扉の先──ハルモニとフェローの生活スペースへ避難した。
幸い、こちらからでも外へ出られる。前に探検させてもらった時に見たキッチンの勝手口。内側からならフィーネでも開けられるはずだ。
しかしフィーネの足は、引き寄せられるようにキッチンとは別の場所へと向かう。