炎滅の結界
伸ばした両手には苦無が握られている。見つかれば最後、刺突か斬撃が飛んで来る。
暗殺者や忍者は、武器に毒を塗って戦うと聞く。傷を受けた時の事は、想像するだに恐ろしい。背筋を駆け上がる戦慄が身体を凍らせ、足元が寒々しい。
応戦すればいい。しかし、こちらに気付いていない相手に攻撃するのは後ろめたさを感じ、躊躇われた。
気付かれなければ、戦闘になる事もない。退却に意識が向いた。
早くここを離れなければ。息を殺して固唾を呑み込む。幸いにも忍者は壁伝いに捜索を続け、メルティナからは遠ざかっている。この機を逃す選択肢はない。
集中。相手を観察しながら全神経を研ぎ澄まし、衣擦れ音にまで注意を払い、物音を立てぬよう、慎重に動きながら一歩を踏み出す。しかし、恐怖で膝が笑いぴちゃりと水音が跳ねる。
(しまっ―――)
「んん?」
水音を聞いて振り返る。踵を返し、怪訝に首を縮めながらズンズンと入り口に向かって来る。
「成程―――そこか」
グリンと首を回す。目が合った、そう感じさせる強い眼光。射竦められ呼吸が止まった。
ゆっくりと苦無を握った手が近付いて来る。
(来ないで――――)
恐怖に引き攣った顔で小さく首を振り、震える身をのけ反らせる。その拍子に背中が壁を衝いた。
(あ―――)
壁に振り返った瞬間。苦無が外套に触れ、指先で生地を摘まむのを感じた。
正面を向いた時には外套を剥ぎ取られ、今度こそ目が合う。
細められた双眸に身の毛がよだち、皮膚を迸る不快感で身体が硬直した。
「捕まえた」
「きゃああああああああああああっっ!!」
手首を握られた瞬間、あらん限りの声で叫んだ。が、抵抗してもビクともしない。
メルティナが動揺している隙にもう片方も掴まれ、そのまま血の海に引き倒された。腰に死体がぶち当たる。
「動くな」
馬乗りで組み伏せられ、首筋に苦無が宛がわれる。言われなくても、雁字搦めになった恐怖が既に自由を奪っていた。
「さて。貴様を犯して啼かせたら、ヤツはどんな反応を示すのか。楽しみだな」
暗い喜悦で口が歪むのを感じた。粘つくようないやらしい視線。これからされる事に思い至り血の気が引き、メルティナの端麗な顔が蒼白になった。
太い指先がスカートのスリットから露わな太ももに触れ、ピクリと跳ねる。込み上げて来るおぞましい嫌悪感が、毛虫の如く全身を這い回った。
「い、やぁ………っ」
目を瞑ったその瞬間。音を立てて風が吹き付ける。壁の穴が更に崩れ、瓦礫が落ちた。突如、叩き付けられる風にメルティナは顔を顰めた。吹き荒ぶは怒気と殺気を孕んで生温く、嬲られると背筋が凍った。
『血霧』の少年が鬼の半面の下で牙を剥き、猛然と突貫。されど防御障壁が飾太刀を阻む。抜刀した脇差の閃く白刃。続く飾太刀の二の太刀が障壁を打ち破り、忍者が驚愕に目を剥く。
動揺の隙を突き、脇腹を蹴って壁に激突させる。頽れ蹲る顎を蹴り上げ、壁に跳ね返った所を脇差で一閃。頭が首の上から落ち、そのまま血の海に沈んだ。
風が弱まったかと思うと、既に拘束から解放されていた。
状況の理解が追い付かない。恐る恐る目を開けると、申し訳なさそうな赤鬼の半面。
「ゴメン。怖い思い、させ、ちゃった、みたいで……」
息も絶え絶えに掛けられた優しい言葉。無意識のうちに彼に抱き付いていた。
裏切られ続けたせいで、誰も信じられなくなった。こんな風に身を挺して助けてくれることは、もはや期待することすらできなくなっていた。
だからこそ、
「うわああああああああああああああああああんっ」
安堵に伴い押し潰されそうだった不安から解放され、その反動で堰を切ったように泣いた。滂沱の涙が溢れ出し、群青の狩衣を濡らした。
「ごほっ」
吐血。鮮血がメルティナの背中を濡らした。
「ケガを……大丈夫ですか?」
涙に曇った視界ではっきりとしないが、苦しそうだ。
「……大丈夫。気にしなくていい」
肩を上下させながら頭を振る。負傷を押して相手を労る献身に、泣き縋るしかない自分の弱さを恥じた。
「幼雛を愛でし地母神の御手よ、薄命なる灯火に至上の福音を与え給え。《祝福ブレッシング)》」
見たことない符術による回復。緑色の光が少年を中心に溢れ、二人を包む。
柔らかな光の優しい心地がメルティナの心まで癒した。
「もう、終わらせるから……」
血色を取り戻し、仮面の下で微笑む穏やかな声音。それだけでメルティナの胸の奥にじんわり、温もりが宿る。
「それじゃあ。さっきの指輪、貸してくれる?」
嗚咽を漏らしながら耳元で囁かれた穏やかな言葉に従い、指輪を返した。
彼が魔力を込め、唵。結界を発動。
それから、十数枚の呪符を血の海に浮かべた。何をしているのかと尋ねるよりも早く、冒険者たちが殺到して二人を取り囲む。
「もう逃げられんぞっ 『血霧』!」
「目を閉じて――――唵」
呪符が一斉に起爆。爆炎の赫灼とした光が轟音を立て大気をつんざく。寝室が轟炎によって焼き尽くされた。空間内の全てが、音を立てて燃え盛るのを聾した鼓膜で感じた。
閉ざされた視界の中で思い出す。かつて魔道士の仲間から聞いた事を。
結界を張る際、内向きと外向きがあるという。
外向きとは外部からの攻撃、つまり敵からの攻撃を防ぐための結界。
他方、内向きとは敵を内部に閉じ込めるための結界。
この二つを適宜、状況に応じて使い分けるのだという。
故にメルティナは理解した。今、結界は二人を守る防壁と爆炎を閉じ込める障壁の二重構造をしている。冒険者たちは劫火に焼かれ、衝撃に押し潰されていた。
轟音で大気を震わせた光と熱が止むと、寝室は一切が炭と化し跡形もなく焼失していた。空を覆う屋根もない。
振り返って辺りを見渡すと頬を撫でる風が吹き流れ、騒乱は消え去った。そして穏やかな静寂が訪れる。
「終わったよ」
「はい………」
優しい声音に自然と顔が綻んだ。
〇 〇
貧民街に隣接する冒険者区画。文字通り冒険者たちの住居や借宿が立ち並ぶそこは、武装した人間が堂々と闊歩していた。
そこの一角。とある一軒家にある二階のベッドの上。
一糸纏わぬ男女が情事を終え、火照った身体を覚ました今は睦言を交わしていた。
「ダメよ、魔力の浸潤なんて♪ これ以上気持ちよくなったら、何だか戻れなさそうで怖いわ」
背中に蝙蝠の小翼、薄紅色のショートボブに小さな巻き角を生やした淫魔族の女性が頬杖を付き、艶やかな薄唇の口角を吊り上げ、甘えたような声で男に流し目を送る。
浸潤とは魔力の走査の簡易版で、水を染み渡らせるようにゆっくりと相手の皮膚に魔力を流す事。そうすると神経が刺激されて魔力を繰る高揚感が引き出されて性的興奮が増幅される。
「いいじゃないか、エブリシュカ。むしろ君となら、どこまでも落ちていきたい」
さわやかな笑顔で情熱的な台詞を吐く有角人の男性。筋骨隆々の体躯が逞しい。
「え~? まあ、確かに? そう言ってくれるのは嬉しいけど~♪」
エブリシュカと呼ばれた女性は頬を上気させながら瞳をベッドの端で彷徨わせる。
「だったら――」
「やっぱり怖いわぁ~♪」
身を捩ながら甘い声。潤んだ金色の双眸を細め、妖艶な笑みを男に向ける。
男が伸ばしてくる手に背を向けると、シミ一つない艶やかな背中には紅い魔晶石の宝珠を中心とした赤黒い魔法陣が刻まれていた。精緻の粋を極めたそれは背中全体を覆う。
男の掌がそれに振れ、魔力を少しだけ流す。
すると一頭の赤竜が飛び出し、大きく開けた顎で男の頭を噛み砕いた。牙を突き立て骨を砕き、高々と掲げた口から鮮血を滴らせる。
「だから言ったのに。撃退術式なんて、常識じゃない♪」
男の死体に背を向けながらほくそ笑む。
「よしよし♪」
嗜虐的な笑みを浮かべて上体を起こし、鎌首を丸めて甘えて来る赤竜の頭を撫でてやる。
「さて、と」
ベッドから立ち去るエブリシュカは脱ぎ捨てた下着をつけストッキングを穿いた。ふくよかな胸板と程よい肉感の肢体を、黒のフリルが飾り立てる毒々しい紫紺の法衣で覆い隠す。
大胆にも背中が大きく空いており、赤竜が鎌首を出す召喚術式が良く見える。
「それじゃあ、今夜の男でも見繕って来ましょうか。フフ♪」
頬を上気させたまま、唇に小指を宛がい妖艶に笑う。
赤竜の鎌首を魔法陣の中に仕舞うと、目ぼしいものを幾つか見繕ってから軽い足取りで部屋を後にした。首を無くした死体を置き去りにして。
エブリシュカは黒いフリルに縁取られた紫紺のスカートを弾ませ、冒険者が集う酒場へと足を向けた。