風が吹けば私が儲かる
ラーメンを啜りながら、こう考えた。
日々働けば疲れ果て。上司に楯突けば飛ばされる。意識を保つのも限界だ。とかく仕事がしたくない。
食べ終え、食器を片付ける気力も湧かず一人横になる。『サッポロ一番は塩より味噌の方がやはり美味い』などと満腹に微睡みかけるが、最近では若干の胃もたれを覚える。
「どうにか労せずして金が入らぬものか」
口に出してわかる。いや口に出すまでもなくわかるべきだった。何と愚鈍な発言か。あまりの愚かさに吐き気まで催す。食べてすぐ横になったからではない。決して歳のせいではない。幸いなことはプライベートなる自室であり、誰にも独り言を聞かれていないことであろう。
「風が吹けば……私が儲かる」
これも愚鈍か。いや、まだそうとは決まらぬ。仮定に仮定を重ねた過程の結果如何によれば、それは三段論法よろしく知的遊戯でありインテリの嗜みとも相成らんのではないか。
私は何を言っているのだ。しかし考える価値はあろう。金も恋人もない私にとっては時間ばかりが余っているのだから。
「風が吹けば目にゴミが入り盲目の人が増える。盲目の人が増えれば三味線の需要が高まる。三味線の需要が高まれば材料の猫が殺される。猫が殺されればネズミが増える。ネズミが増えれば桶を齧る。桶屋が儲かる」
長い、実に遠回りだ。思考が迷子になりかねないではないか。目的地をしっかりと意識せねばならない。目的地は『私が儲かる』だ。
さて、桶屋が儲かればどうなるものか。
「桶屋が儲かれば……桶屋?」
桶屋とはなんだ。桶を売って生計を立てているのか。それとも桶を作るのか。そもそも桶なんて現存してるのか。タライ、洗面器、ボウルにとって変わられているのではないか。桶の需要なんてないではないか。この令和にそんな生業があってたまるものか。
なぜ私は桶屋にここまで憤っているのだ。恐らくだが、桶は酒造や醸造所ならば今でも巨大で高級なものが使われている。よって桶屋は現代にも生き残っているだろう。そう思考の指向は現代的に向かうべきである。
「儲かった桶屋が……投資を始める」
時代は投資である。潤沢な資金を増やすとよし、暗号資産に夢を見るもよし、クラウドファンディングで人の夢を応援するもよしである。願わくば私自身にも投資を。
「投資を始めれば、預金が減って経済が回り好景気となる」
金は天下の回りもの。金持ちはどんどん消費をすべきである。宵越しの銭は持つな。
「好景気となれば、スカートの丈が短くなる」
経済とスカート丈の相関は知らぬが恥。羞恥の事実である。女子中高生のスカート丈は好景気と連動してみるみる短くなる。関西圏は関東の丈が短くなると、相反して長くなると噂に聞くが実際はどうなものか。好景気はロングスカートを呼び起こすのだろうか。ともすれば嘆かわしいことである。
「スカートの丈が短くなれば、痴漢が増える」
好景気が性犯罪を招くだと? これは新発見だ。経済学者は日経平均と痴漢犯罪の件数で相関を取るべきだろう。尻を撫でる痴漢の右手はまさに、神の見えざる手。
「馬鹿か。私は」
何を阿呆なことに脳を働かせているものか。私は我に帰る。
「風が吹けば、短くなったスカートが自然に捲れるではないか」
こうしてはいられぬ。私はこれまでに無い速度で立ち上がりカメラを手にとる。
「ミニスカートが捲れれば、偶然シャッターを切る」
これ迄にない勢いを感じる。そう、今私は追い風を受けている。写真が金を生めばよし。金にならずとも写真が撮れるだけでとまたよし。
喜び勇んだ私であったが、一つ、たった一つだけの問題に気付いた。
「私は風を起こせない……」
風が自然に吹くことを待てばよいのかもしれないが、女性に向けて延々とカメラを向けていては不審人物と勘違いされてしまう。
神の見えざる手を発動させて私自身がスカートを捲ることも考えた。しかし、自らが捲ったスカートの中身を写真におさめるだと? とんだピエロだ。一歩間違えれば不審者と勘違いされる恐れがある。私は純粋にスカートの中身をカメラで撮りたいだけであるのに犯罪者扱いされては面白くない。神の見えざる手が犯罪に手を染めてはいけない、足を洗う羽目になる。
結局のところ、私はまたごろりと床に寝転んだ。
「人間万事塞翁が馬……どうにか私が儲からないものか」
思考は眠くなるまで続く。明日の仕事に響かない程度には。