20話
ゆっくりと時間が流れていく。もっとも僕の主観の話だ。
森羅万象の動作は僕の認知よりもはるかに遅く、僕の動作はそれ以上に遅かった。
恐ろしい速さで思考が巡り、脳みそが活性化していく。視野の中に存在する全ての物体を捕捉し、その中からポコを救い出せる糸口を探すが、めぼしいものは何もない。
仮にあったところで、それを利用できるほどの身体能力が、僕には足りなかった。
フォルテが1歩目を踏み出す。筋肉が躍動し、土埃をあげ、僕が片足を振り上げるときにはもう3歩目が着地している。
それでも、間に合わない。
特にフォルテは先頭にいた。だから、なおさらだ。
どうしてちゃんと手を握っていなかったのか。なぜ魔物の襲撃に気が付けなかったのか。何度も繰り返した後悔が押し寄せてくる。そして理由を考えるとすぐに結論がでる。
僕が弱いからだ。
きっとこの光景も母の死のときのように、何度も夢に見ることだろう。
次の瞬間ずるりと頭が落ちた。
ポコではなく、狼の頭が。
地面に落ちた頭は衝撃をそのままに転がってゆく。
狼の傍らにいるのは、一振りのショートソードを携えた青髪の少女だった。
彼女が身につけている胸当ては汚れ、傷つき、手甲は部品が取れてほとんど壊れてしまっている。
見たことのない人物だが、ポコが助かるのであれば、全ては些細なことだった。
「すまない」
一つの頭を落とすために振り抜いた剣を返し、もう一つの頭に深々と突き立てる。
息を切らしながら近づいて、名も知らぬ剣士に礼を言うと「構わない」と返ってきた。
「あなたは、冒険者ですか?」
ポコが僕の腰にまとわりついて泣いている。きっとまた、カピカピになる。
「そんなことより逃げるのが先だ。早く行け」
剣士は僕に一瞥もくれず、言い放った。
よくよく見れば、僕と歳のかわらない、幼い娘だ。
「あなたはどうするんですか」
「私は責任を取らねばならない」
自身が倒した狼の毛皮で、その狼の血を拭う。そうしたところで、ショートソードにこびりついた血と脂はたいして取れない。
責任とは、また意味深なことを言う。まるで……。
「あなたが魔物をけしかけたみたいな言い方ですね」
少女は何も語らず、その沈黙は肯定しているように感じた。
「とにかく、妹を助けてくださって、ありがとうございます」
「早く行け」
一礼して、フォルテの元へ駆け寄る。今度は、今度こそ離さないように、ポコの手をしっかり握って。
「あの子誰だ」
「知らない」
フォルテの元には、僕らを除くと、ヴィランダと二人の町民がいるだけで、他の人は散り散りになってしまったようだ。
この二人は姉弟だ。姉のパロメは仕立て屋の見習いで14歳。普段であれば、三編みになっているオレンジ色の髪はすっかり乱れていて、いつも掛けている眼鏡は見当たらず、焦げ茶色の瞳がよく見える。
弟のユッシは僕と同い年だが煙突掃除をしている掃除夫だ。パロメの弟らしいオレンジの髪をしているが、それは大雑把に短く切っただけ。鼻筋にあるそばかすが印象深い。
二人共、幼い頃に両親を亡くし孤児院を兼任している教会で育った者だ。僕のようにのほほんと日常を享受する暇なく、ずっと小さい頃から仕事をしている。
彼らとは5歳の頃に何度か話をしたことがある。
「パロメとユッシじゃないか。良かったよ、無事で」
「ええと……」
僕が声をかけるとユッシが歯切れの悪い返事をする。
「ああ、ごめん、僕はアルト。落ち着いたら自己紹介をするよ」
今は先を急ごう、とフォルテから言われ、ヴィランダも先を促す。
僕たちは再び歩き始めるが、中々思うようにいかない。
今まで町の人を気まぐれ程度にしか襲っていなかった魔物たちが、明確な殺意を持ってこちらに向かってくる。
それなのに、僕らの中で戦えるのはフォルテだけだ。
先ほどポコを助けてくれた青髪の少女は強かったが、同行はしていない。
四方八方から散発的に来る魔物をフォルテが一人で対処している現状だ。フォルテの果てしない体力は疲労の色を全く見せないが、圧倒的な物量を前に、じわりじわりと押し負けてくる。
「なあアルト、この速度だとジリ貧だ。イチかバチかになるけど、北門まで全力で走らないか」
フォルテが、そう提案してくる。
「そうだね」
狼型の魔物や、一歩が大きいオーガは例外として、ゴブリンくらいなら全速力で走れば、人間の足でも逃げ切ることができる。
「俺が最後尾から補助するから、北門まで全力で走ってくれ!」
最前のフォルテが、足元に落ちていたレンガを拾いながら振り返る。
その号令を起点として、僕たちは目一杯足を動かした。
「流れ弾に当たるかもしれない! 俺を信じて、必ず真っ直ぐ走ってくれ!」
後ろの方からフォルテの声がする。
時々、風を切る音とともにレンガが脇を通り過ぎていき、それに当たった魔物が吹き飛ばされる。下手に魔物を避けようとすると、射線に入ってしまうかもしれない。
大丈夫、フォルテは補助すると言ったから、僕たちはただ真っ直ぐに走ればいい。
ズドンという、鈍く重い音を伴って、横道から巨人が現れる。額に一本の鋭い角が生えている、一つ目の魔物。大きさはオーガの2倍、ゆうに6メートルはある。
「サイクロプスだ……」
ユッシは姉の目の悪いパロメの手を懸命に引いていたが、その巨体に圧倒されて歩みを止めてしまった。
「ユッシ! 走って! 大丈夫、フォルテが何とかしてくれるから!」
たまらず声をかけた。
より凶悪な魔物が住む最果ての大地、そこに生息すると言われるサイクロプス。普通なら、発見しただけで大騒ぎになる魔物だ。町の中に居ていいわけがない。
フォルテに任せっきりの自分が情けない。物覚えが良くても、圧倒的な力の前では無力だと知った。もしも、生き残ることができたなら、強くなろうと誓う。
ビュンという音を立ててレンガが二つ三つ飛んでいく。しかし、粉々に砕け散ったのはサイクロプスではなくレンガの方だった。
「えっ」
大木みたいに太い腕が僕たち目掛けて振り下ろされ、人生で2回目の走馬灯を見た。
その時、また、大地が揺れた。
今度は魔物の雄叫びではなく、純粋に、混じりっ気なく、大地が揺れたのだ。
地面が波打ち、ひびが入り、割れる。激しく上下に揺さぶられ、地表にある全てのものは、たっていることさえできない。
僕たちも、魔物も、建物も、全てが崩れていく。
そして、町の外の、遥か遠くの方から地面がめくり上がり、人も魔物も選り分けることなく、一緒くたに全てを飲み込んだ。
右手に力を込める。大丈夫、今度はちゃんと握っている。
僕の意識は、巨大な壁を目の前にしたところで途切れた。




