十年越しの約束
祖母が死んだ。
幼い頃、私はよく祖母の家に遊びに行っていたらしい。というのも、それは小学校にあがる前の話で、私自身母から聞かされるだけであまり覚えてはいない。
でも、その話の中で、一つだけはっきりとおぼえている記憶がある。
それは、男の子だ。髪の毛がとてもキレイで、顔が整っていた。おぼえているのはそれだけで、母から祖母が死んだと聞かされ葬式に出る支度をしているとき、そう言えばあの辺りで男の子と会ったんだっけ、なんて軽く思い出す程度の記憶。
おまけに、祖母が死んだのは私の十六歳の誕生日だった。こんなことを言うのもなんだけど、正直タイミングが悪いなぁと思ってしまう。
十年ぶりに訪れた田舎の空気に、私はぎゅっと眉を寄せた。
ホントに何も無いところだ。スーパーは三キロ先にあって、コンビニなんてものは存在しない。畑と田んぼが延々と続いているだけの場所。
幼い頃はどこまでも続く道を駆け回っていたらしい。スカートよりもズボンを好み、近所の男の子たちと泥まみれになって遊んでいたそうだ。
近所で一緒に遊んでいたという男の子たちは皆村を出て行ってしまったが、私の記憶に残る彼は一体だれだったのだろう。
そんなことを葬式中に考えていた。
幼い頃は面倒を見てもらっていたが、祖母との思い出もこの十年で風化していた。
ただ、この地に足を踏み入れてからなんだか胸の奥がざわついている。祖母の葬式中は足のしびれに気が行ったけど、胸騒ぎが止まることはなかった。
全身の肌がぷつぷつと粟立ち、頭のてっぺんから血が上がったり下がったりしている。芯は燃えるように熱くなっているのに指先は凍えるほど冷たい。
早く帰りたい。この場所にいると、懐かしいような恐ろしいような、よくわからない感情がごちゃまぜになって落ち着かない。
友達にメッセージを送ろうとしたけどまさかの圏外で、現代に電波の通らないところがあるのかと衝撃を受けた。
家に帰ったら携帯が圏外だったことも含め、友達と喋り倒そうと決めた。
「あらぁ、二華ちゃんじゃない!」
声をかけてきたのは、ふっくらとした年配の女性だった。
人好きのいい笑みを浮かべ、片手を上げた。
相手はしこちらを知っているようだが、私はまったく記憶にない。どうしよう、でも無視するわけにもいかないよね……。
イヤホンでも耳に突っ込んでおけばよかったかもしれない、なんて軽く後悔しながらも曖昧に笑って会釈をする。
女性は色とりどりの花に囲まれた庭から出てくると、私の顔を見て目じりのシワを深めた。
「懐かしいわぁ、大きくなったのね」
「あー……どうも……」
「ふふ、もう十年前のことだもの、覚えてないわよね」
当然だ、と心の中でツッコミを入れながら、頬が引きつるのを感じた。
私の心の声は聞こえないので、女性はコロコロと軽やかに笑いながら思い出話を一方的に始めた。
祖母の葬式は長くて足がしびれたし、気分転換しようと外に出たら知らないおばちゃんに捕まるし、最悪の誕生日だ。
女の子なのに男の子と遊び回っていたとか、田んぼに突っ込んで泥まみれだったとか、記憶にない話を掘り返されてイライラする。
適当に相槌を打っていたが、段々相手をするのバカらしくなってきて、話を切り上げようと口を開きかけた瞬間、女性が不意に声をひそめた。
「でも、虹神様のことはいいのかしらね」
虹神様。聞いたことのない単語に、私は素直に首をかしげた。
女性は少しだけ迷う素振りを見せたあと、小さく「もう十年経つし」と言い訳めいた独り言をつぶやき、私に向き直った。
「これ、お母さんたちには言っちゃだめよ? 十年前、二華ちゃんは神隠しに遭ったのよ」
脳裏にノイズが走った。景色がぐりゃりと歪み、全身がぶるりと震える。
――彼は、とてもキレイな子だった。
ふわふわとした髪の毛は光の当たり具合で色を変え、まるで地におりた虹のよう。瞳は夜空に散りばめられた星のようにキラキラと輝き、私を捉えて離さなかった。
一緒に遊ぼ、と彼が誘ってくれたのは珍しい二重の虹が出た日だった。
その日は朝からひどい雨が降り続き、空を分厚い雲が覆っていた。太陽は気配を隠し、じっとりと湿った空気に包まれていた。
お昼を過ぎると雨がぱらぱらと細かいものへ変わり、雲の隙間から太陽が顔を出した。
三時になる頃には雨はすっかり止み、太陽が雨粒を反射し空に大きな虹がかかっていた。それはうっすらと二重になっていて、物珍しさに私は急いで靴を履いて家を出た。
二重の虹が出た日、子供は外に出てはいけない。そんな言い伝えがあることも知らずに。
「ねぇ、一緒に遊ぼ」
「……だぁれ?」
「僕? 神様かな」
背後からかけられた声にふり返ると、そこには同じ年頃の男の子が立っていた。
ふわふわと雲のように柔らかそうな髪は太陽に反射して様々な色へと変わり、それはまさに空にかかる虹と同じものだった。田舎でしか見られない満天の星空のような瞳に吸い込まれ、私は自称神様に釘付けになった。
男の子はニコッと笑うと、私の手を握ってそのまま走り出した。
動きにあわせて揺れる虹色の髪を夢中になって見ているうちに、私は見知らぬ森の中にいた。
木が立ち並んでいるというのに、あれほど騒がしかった虫の鳴き声が消えていた。音のない静寂に包まれた世界に、ゾクリと背筋が冷たくなった。
「ね、ここで一緒に遊ぼ」
「わ、私帰る」
「どうして? 遊ぼうよ」
「だってここ怖いもん。帰りたい」
胸に浮かんだ不安がブクブクと膨らんでく。瞳に涙の膜が張り、唇をぎゅうっと強く噛みしめた。
泣くと周りの子にからかわれるから、すぐに泣くのは我慢するようにしていた。
男の子は首をかしげ、困ったように眉を小さく下げた。どう声をかけようか迷っているように見えた。
風もないのに木々が揺れ、さわさわと草木のこすれる音にとうとう私は泣き出してしまう。怖い、帰りたい、ここどこ? いろんな感情が湧いてきて、心の中を支配する。
私につられたのか、にじんだ世界で男の子まで泣きそうに顔をゆがめているのが見えた。
「じゃあ、約束して」
「やく、そく?」
「うん。君が十六歳になったら僕が迎えに行くから、そのときは僕のお嫁さんになってね」
「……やく、そく、したっら、帰し、て、くれる?」
「うん、約束するよ」
遊ぼ、と誘ったときのようにニコッと笑みを浮かべた男の子に安心して、私はしっかりとうなずいた。
約束ね、と小指を絡め、おなじみの歌を歌い、二人で手をつないで森を出た。
空が真っ暗になっていることに気付き、慌てて走り出して家に向かう。つないでいた手はいつのまにか離れていて、玄関に飛び込んだら目を真っ赤に腫らした母にきつく抱きしめられた。
その後、祖母が顔を青くして私の元にやってきた。そして、母になにかを伝え私は逃げるようにこの地を去った。あの時祖母は母に「この子は虹神様に魅入られた、二度とここに来てはいかん!」と大きな声で言っていたことを、なぜ忘れていたのだろう。
「あのときは虹神様に連れて行かれたって大きな騒ぎになってねぇ。まぁ無事に帰ってきたからよかったけど、二華ちゃん見かけて大丈夫かしらって思っちゃって……」
「あ、の……私、帰り――」
「あら、雨だわ」
ぽつり、ぽつりと空から小さな雨粒が降ってきた。
頬を濡らし、髪を濡らし、激しさを増していく雨に女性は慌てて「それじゃあ」と別れの言葉と共に走っていき、私は一人取り残された。
雨に濡れ、燃えるように熱かった体の芯まで冷えていく。
ずぶ濡れになった私を母が迎えに来て、放心状態のまま風呂に入っていた。
風呂から出てすぐに母に早く帰ろうと言ったが、ここ数日、夜中に降り続いていた雨の影響で土砂崩れが起き、道が封鎖されたとのことだった。
じわじわと、見えないなにかに追い詰められているような感覚。
昼から降り始めた雨は、夕方になる頃には止んだ。そして、見えた。見えてしまった。――二重にかかる、あの虹を。
早く、早くここから離れなくては。気持ちだけが焦って、しかし道は封鎖されている。雨は止んだものの地面がぬかるみ、土砂の撤去をするための大型車が入れないとのことで、結局私はその日祖母の家に母と一緒に泊まることになった。
夜になり、しかし恐ろしいほど何も起こらなかった。布団を並べ母と同じ部屋で眠りについた。
――私は、森の中にいた。
風もないのにさわさわと草木が揺れている。足元から影が這い寄ってくる。ヒッと喉から小さな悲鳴がもれた。
「十六歳になったら迎えに行くよ、約束」
彼の声がこだまする。共鳴するように枝や草が伸び、私の手や足に絡みついてくる。
「いやぁぁぁ!」
びくん、と体が痙攣し、そこでようやく夢だったのだと理解する。
びっしょりと汗をかき、服が肌に張り付いている。はぁ、はぁと荒い呼吸を繰り返し、ふと隣にいたはずの母の姿がないことに気付く。
トイレに行ったのか、しばらく待つけど、一向に帰ってこない。
不安になり私は布団から出た。異様なほど静かな家の中を歩くのは怖い。ぎし、と床が軋む音にさえ心臓が大きく跳ねる。
トイレに行っても母の姿はなかった。不安が広がり、私は母を探して外に出た。
「二華。約束通り、迎えに来たよ」
「――ッ、にじがみ、さま……」
そこには、今の私と同じ年頃まで成長した、虹神様の姿があった。
紺色の着物に身を包んだ体は夜に溶けるようで、しかし白い肌がぼんやりと浮かび上がっている。
暗がりでもわかる。あの頃と同じ笑みを浮かべ、こちらに向かって手を差し伸べた。
「さぁ行こう。僕の花嫁に、なってくれるんだろう?」
「い、行かない。お母さんはどこ?」
「……どうして、そんなことを言うの? あの時、指切りげんまんして約束したのに」
虹神様の顔が悲しそうに歪んだ。虹色の髪が、暗闇の中でキラキラと輝いている。
私は一歩後ろへ下がる。距離を詰めるように、虹神様が一歩踏み出す。
「ダメだよ、約束は守るためにあるんだから。ね? 良い子だからこっちへおいで」
「行かない! 来ないで!」
「……二華が、痛い思いをするのは嫌なんだ」
何を――そう問いかけようとして、喉に鋭い痛みが走った。
チクチクと喉の奥を針のようなもので刺されているような痛みに冷や汗がぶわりとあふれだす。
ドクンドクンと激しく動く心臓の音が響き、あまりの激痛に唾を飲み込むことすらできない。
飲み込みそこねた唾液が口の端を伝い、地面にぽたりと落ちた。
酸素が回らない。痛みで息をすることができない。
「痛いよね。約束を破ったら針千本飲ます、って、言ったでしょう」
「あ、ぐ……ッ」
「僕の言葉にひとつ頷けば痛みは治まるよ。さぁ、僕の元へおいで、二華」
激痛に意識が遠のくが、その度に新たな痛みによって引き戻される。
喉の奥が痛い、息ができない、苦しい、つらい、もうやだ――いろんな感情がぐるぐると巡り、私は必死で頷いた。早くこの痛みから解放してほしい、その一心で。
頷いた瞬間、喉の刺すような痛みがすぐに消えた。そこでようやく、恐ろしい約束をしてしまったのだと頭の芯が冷えた。
「これからは永遠に一緒にいようね、二華」