7. グリニッジ
夜が深まり、霧が出てきた。
白くかすんだ闇は、樹々や石造りの建造物を孕んで、際限なく広がっていく。
照明を落とした部屋のなかでは、黒猫の姿はほとんど見えない。輝く双瞳だけが宙を漂い、きんと冷えた窓に近寄っていく。
ガラスの外、ずっと向こうに、グリニッジ天文台の灯が浮かんでいる。ナッツはそれを見つめた。温そうな灯りに包まれた一画から、緑色の光線が霧を貫くように伸びている。
その光線はかつての本初子午線の方角を指すもので、英国と日本のあいだに九時間の時差があることを示すものでもある。
向こうは昼中か、とナッツは思った。一週間がはじまったわけだ。
一方、こちらはまだ週末に囚われている。そして何の進展もない。
だが、ついに動きがありそうだ。
「ようやく、か」
ナッツはため息を落とした。
「我輩は待ちくたびれたぞ、バロン」
三十四時間十分二十九秒。ナッツはこの部屋で待っていた。見上げるような大建築群の狭間に埋もれて建つ四角柱の塔。その最上階の一室で、ずっと。
幸いにも、部屋は適度に広く、あたたかみがあった。持って帰りたくなるソファもあった。
多すぎる美術品や雑多に置かれた天文器具は不要だが、気分を害するほどではない。おおむね居心地の良い空間といえる。
しかし、とナッツは鼻の上にしわを寄せた。それにしても、くつろぎすぎではなかろうか、この女は。
「仕方ないでしょ……」
巨大な天蓋付きのベッドから声がして、レースの垂れ布のなかの暗がりにぽっと煙草の火がともった。
「泥獄の眠りが、あたしを離してくれないんだもの」
火が動いた。喫煙者は頭をもたげたようだ。
「ナッツ、灯りをちょうだい」
黒猫は窓辺を離れた。
外の騒がしさにはもちろん気づいている。
どこか近くで、フクロウが船の警笛よろしく何度も鳴いた。隣接した「天国の階段」と呼ばれる、ひとつ峠をそのまま持ってきたような巨大建築の窓という窓が連鎖的に明るくなり、それから間もなく、塔の階下から荒々しい足音がのぼってきた。
「あの者!」
憤慨した声が聞こえる。
「部屋に通すなり眠りこけおって……! どこまで我々を侮辱するつもりだ」
扉が音立ててひらかれ、照明のついた部屋のなかに数人が踏み込んできた。
「バロン! 貴様、やっと起きたか」
巨蟹卿が真っ先に詰め寄った。早くも青筋を浮かべて真っ赤になっている。
「ええ、おかげで生き返ったわ」
バロンはベッドの上に身体を起こしていた。ナイトウェアにマーリンジャケットを肩掛けにして。
くゆらせた紫煙の向こうから微笑を含んだ声を寄越してくる。
「こんな時間までご苦労さまね、ロード……。いえ、ここは親愛の念をこめて〝チャップおじさん〟と呼ばせてもらおうかしら」
「貴っ……様ぁ」
ロードあらため、ハロルド・チャップは、ふたつ拳をわなわなと震わせた。
「なに、嫌なの?」
バロンはくつくつ笑う。
「まさかあなた、保安局(MI5)でも卿なんて呼ばせてるわけじゃないでしょう?」
魔術師名としての「卿」は、正式には「夜卿」という。星や星座と同様、夜にしか現れないとの意で、その存在は英政府により秘匿されている。
表社会で通じる公式の爵位ではないが、女王に任命されるという点では同じだ。王室と《天文台》のつながりはチューダー朝にまでさかのぼる。
その伝統の自負をにじませ、夜卿カンケルはバロンに質し返した。
「そういう貴様はどうなのだ……。全世界に男爵などと呼ばせている、名もなき女よ」
煙草の赤い火が消え、寝床の暗がりから瘦身のシルエットが出てきた。
バロンの指先がレースの垂れ布に触れた刹那、その部分が石に変わりはじめた。素足で踏んだ絨毯もだ。
手足が離れると石化は解けた。が、その歩みは鈍く、ぎこちない。
睡眠用アイマスクをした女の顔は血の気が失せている。まるで石像が動いているかのようだ。
いや、実際、バロンの身体は石そのものと化していた。
完全に、ではない。あちこちにひびが入り、動くたびにかけらがぽろぽろ落ちるが、その下からは人間本来の肌がのぞいている。
いまその身はふたたび血肉の通ったものに戻ろうとしている。
「魔女め」
うしろに控えた仮面の連中が息をのむなか、かに座の男は不敵な笑みを浮かべた。
「なぜ貴様が眠る? プリンセス気どりか」
ふふとバロンは鼻で笑った。
「……歌ってあげましょうか?」
バロンは髪を編み込む仕草を見せた。すると剥がれ落ちた石のかけらが、吸い寄せられるようにひとところに集まって、鼻のとがった何かの像をかたどった。
その像がじゃれてこようとしたので、ナッツはしっぽを上げて身構えた。
「能書きはいい」
カンケルは忌々しそうに言った。
「我々が聞きたいのはただひとつ、〝太陽〟のことだけだ。貴様もそのつもりで召喚に応じたのだろう、違うか?」
バロンは丸テーブルにつき、焦げ茶色の煙草を指でもてあそんだ。
「話してもいいわ――娘のことなら」
「認めるということか」
カンケルは対面にまわったが座らず、丸テーブルに手を置いてずいと身を乗り出した。
「例の事件に現れた〝緋色の髪〟――あれが貴様の子だと?」
「あら、そこからなの? あなたがたはもっと知ってると思ってたんだけど……買いかぶりだったわね」
卿の拳がテーブルを割れんばかりに叩いた。
「ことの重大さがわからんのか! あれは〝禁忌〟なのだぞ!」
「…………」
「《天文台》の掟を忘れたとは言わせん。あの力は、我ら同胞すべての平穏を脅かす。野放しにできんのだ」
「前からの疑問なんだけど、あなたがたの言う〝同胞〟って? 何?」
「決まっている。魔素の恩恵を受けた――生けとし生けるもののすべてだ」
「みごとな二枚舌ね、夜卿」
部屋の空気が一段と張り詰めたようだ。
「普段はエレメンティアの問題なんて知らんぷりしてるくせに、こんなときだけ代表者を気どるのね。北米やアジアでの差別、紛争地での兵器化についても何か言ったら?」
「そんな連中は知らん。エレメンティア、だと?」
カンケル卿は鼻で笑う。
「大いなる力の使い方も知らぬ、野蛮でおぞましい連中と、我々をいっしょにしてくれるな」
バロンは薄く笑んだ。
「自分の首を絞めるのやめたら? 〝魔術を使えないエレメンティア〟をたぶらかして〝同胞〟に仕立てあげるのが、あなたがたのやり方でしょう。彼らがいなかったら《天文台》は成り立たない」
カンケルの口角がだんだん真一文字に固まっていく。
「国や人種の違いを越え、異端者の互助団体として在った《天文台》の伝統を……忘れたとは言わせないわよ?」
先のカンケル卿の言葉を引いての挑発、からかい。
仮面の連中の顔に冷や汗が流れた。上司が爆発してしまう、と危惧したようだ。
が、意外にもカンケルの顔色は平静で、あごをそらした様子はいかにもふてぶてしかった。
「そのご高説は、国連や世界エレメンティア協会(WEU)のスピーチのためにとっておくがいい。あちらが貴様のホームだろう?」
バロンは頬杖をついた。
「あたしはどこにも属さない」
「思えば、あれが貴様の最初の裏切りだったな」
カンケルは構わず続ける。
「それに対して、我々は慈悲で応えた」
だが二度目はない、と不意にドスをきかせた。
「さぁ、これ以上立場を悪くせんうちに、吐け! 貴様は何を企んで」
「お祭り、かしら」
バロンはぽつりと言って、煙草に火をつけた。
男たちはぽかんとしている。
「なに……?」
「あの子、行きたがってたわ。観光地とかも」
「何の話をしている」
「そういえば、クラブにも……まさか……未成年は入」
「な・ん・の・は・な・し・だぁー!?」
カンケルの叫びはおそらく、この場にいるオス全員の気持ちを代弁していた。