6. 日常
台所の窓が白みはじめた。新しい朝。
通り過ぎる車の音やスズメのさえずりが、築四十年、しみの目立つアパートの一室にも届いてくる。
「はい! バロン様はお元気そうでしたよ」
食卓と最低限の物しかない居間で、陸は電話をしていた。制服のブレザーとスラックスに着替え、朝食は済ませてある。
「そうか」と女性の静かな声がワイヤレスイヤホンに響いた。
陸の母、古都だ。
「あんまりゆっくりはできなかったんですけど」
陸は苦笑いする。
「バロンめ、忙しないやつだ。あいかわらず」
古都は呆れ口調になった。
「でも、しょうがないですよね」
陸は食卓に置いたタブレット端末を見た。
「バロン様、いま大変みたいだし‥‥‥」
タブレットの画面には、エレメンティア専門メディアNews Witchのサイトが表示され、英文特有の簡潔だがひねりもある見出しが並んでいる。
『魔導先端技術分野で英国の寡占状態続く』
『サーペンス社、端末部品調達難航――アップル社との訴訟影響』
『米銃乱射事件後、エレメンティアに対する世論分断あらわ』
むつかしげな文言が並ぶなか、ひときわ簡単なタイトルのその記事に、陸は眼を止めた。
ーーLADY BARRON RETURNS?
記事にはこう書かれている。
『〝魔術〟と呼ばれる高度エレメンティア技術の粋を独占している英国魔術師連盟、通称《天文台》に、レディ・バロンーー世界最高ともいわれる術の使い手ーーが訪問したことは、それだけで大国の警戒心を呼び起こすものだ。
もしも《天文台》とバロンがタッグを組めば、エレメンティアパワーの英国一強状態がさらに進む。米中露などエレメンティアの恩恵を受けていない国々にとって、それは現実的な脅威として映っているのである。』
一般人にはピンとこないが、政治的には、バロンの《天文台》訪問は注目に値することのようだ。
生まれも育ちも一般的とは言えないが、政治に明るいわけでもない陸は、漠然とバロンの現状が気にかかっている。
「バロン様、向こうの人たちと仲直りしたんですかね?」
「それはないだろう。あれらは考えが違いすぎる」
バロンと《天文台》の断絶は〝世界災厄〟のときにさかのぼるといわれている。かの世界的危機に際し、当時の《天文台》はヨーロッパ社会だけを守ろうとしたのだとか。
対してバロンは、母方の故郷である日本をはじめ、多くの国の人々を守ろうと動いた。
その働きがどのようなものであったか、災厄の結末にどう影響を及ぼしたのかは、ほとんど誰も知らない。けれど現在、術師の業界では、多くの同業者が彼女をこう呼ぶ。
世界最高の魔術師、と。
「バロンは何か言っていたか?」
古都がそう訊くのももっともだ。《天文台》訪問のタイミングでバロンが陸に会いに来たのは、ただの気まぐれではないはずだ。
「‥‥‥‥母様は〝太陽〟って知ってますか?」
「太陽?」
「はい。バロン様にとっての〝太陽〟です」
一瞬、間が空いた。思案の沈黙が続くかと思われたが、古都は意外なほどあっさりと答えた。
「ああ、知っている」
「!」
「我々術師なら誰もが知っていてしかるべきものだ。かの高照らす陽の名が意味するもの――おまえにも教えたことがあるはずだ」
陸は脳のファイルをかき集め、ひっくり返し、転げ出てきたものを読み上げた。
「赤い……魔素?」
天の理、という言葉も頭に浮かんだ。
そうだ、と古都は強くうなずいたようだった。
「そのことを、こころに留めておくように。ーーでは私は仕事に戻る」
「あ、はい! お気をつけて」
通話を終えた。
上海からの電話だった。数日前はドバイからかかってきた。その前はモスクワから。
古都の仕事場は世界各地で、ボディガードを雇うようなお金と敵を持ちあわせる人間がいれば、どこへでも行くーー日本以外なら、どこへでも。
はずしたイヤホンを掌に載せ、陸は少し物思いにふけった。〝太陽〟とは、何だろう。カレンのことだと思っていたのだが、古都は違う意味を示唆した。
いまは考えても仕方ない。出かける時間だ。
リュックを背負って靴をはき、陸は玄関を出た。そこで携帯端末にメッセージが届いた。
「学校は、どうだ?」古都からだった。
「楽しいですよ。とっても!」
即座に返信した陸は、暗い顔になっていることに気づいて、はっとした。両手でぱちっと頬を叩く。
「太刀花」と書かれた郵便受けの前を通り、階段は使わずひらりと道路に降り立ち、駅へと急いだ。
********************
明石城の町から、電車に揺られ、姫路城の町へ。
駅前に伸びる大通りを抜けて着いたのは、瀟洒な校舎の私立中学校。
「陸ちゃーーーん!」
小柄な女子生徒がひとり駆けてくる。膝丈のスカートがひらひら。ほとんど全力疾走だ。
「絵李ちゃん、どうしたのっ?」と陸は驚いた。
「うちらな、ちゃんと仲直りできたぁ!」
絵李はスマホの画面を見せてきた。喧嘩していた子との仲直りのセルフィー。
「よかったねっ」と陸もうれしくなった。
「陸ちゃんが相談にのってくれたおかげよぉ」
絵李と話しながら校舎に入ると、下駄箱のところで男子の集団とはちあわせた。
「おす、太刀花」
おす、おーすとすれ違いざま乱れ飛んでくる声に、陸は「おはよ~っ」と一括で応える。
「よぉ、ふたりとも」
ひとり足を止めたのは、同じクラスの滝内だ。夏も過ぎたのに、肌には日焼けあとがくっきり、まだ半袖を着ている。
「最近よくいっしょいるな。付き合ってんの?」
「滝内くん、気づくの遅いで」
絵李がおちゃらけて、陸にくっついてきた。
「マジかよ太刀花ぁ」
滝内はうらめしそうにして「こっちも付き合えよ」とサッカーボールを突き出した。
陸は頭を掻いた。「あー……ぼく、課題やんなきゃだから」
「オッケー、じゃあ今度な!」
滝内はにこやかに言い、ドリブルしながら運動場に向かっていった。
「あの子はほんまサッカーひと筋やな」
絵李は母親みたいに笑っている。
「太刀花!」とまた声が飛んできた。
制服をだらしなく着た男子がやってきて、陸と絵李のあいだにぐいと割り込んだ。
「ようようよう! 今日もかわいいなぁ! あ、メイク変えた? 髪型変えた? すげえ似合ってるぜ!」
陸と絵李は顔を見合わせた。
「おーい? た~ちば~な~」
「水口、あんたええかげんにせぇよ」と絵李がたしなめた。
「わかってるって」
何をわかっているのか、水口はへらへらして、
「おれは、太刀花、おまえより背が低い! 頭も悪い! でも顔はけっこうお似合いだろ?」
「水」と絵李が言いかけた。
「わかってる! でも待って。おれにチャンスをくれ。絶対、おまえにふさわしい男になるからぁー!」
好きなだけ好きなことを吐き散らかして、水口は行ってしまった。
「ほんま腹立つな~」
絵李は腕組みして言った。
「陸ちゃんには約束した相手がいてるんや! って、あのあほに言えたらええのに~!」
「絵李ちゃん……もっと声ちいさくしよう?」
陸はまわりを気にした。
「あ、せやった! 陸ちゃん、うちにだけ話してくれたんやもんな」
「そうだよ」
絵里の相談にのったとき、話の流れで触れただけなのだが、彼女がこんなに関心を持つとは思わなかった。
「でも、ちょっと説明不足だったかも」
階段を上りながら、絵李の言う「相手」について、もっと詳しく話して聞かせた。
「ええっ! じゃあ、ずぅっと会ってへんの?」
「うん」
「どこにおんのかも、連絡先もわからへん?」
「うん。あ、ううん。人づてに、北米大陸のどこかにいるって聞いたよ」
「ほくべえ……」
絵李は続く言葉が見つからないようだった。
なかば唖然としている級友を見て、陸は思う。あのとき自分もこんな顔をしていたのかもしれない、と。
海外へ行く、とカレンから聞かされたときのことだ。
その時点で、彼女は気持ちの整理がついていたのだろう。感情の高波が去ったあとの凪いだ海のような眼をして、こう言ったのをおぼえている。
「わたし、お勉強に行ってきます。知りたいことが、たくさん、あるから……。いろんなことを学んで、きっと、きっと、立派なひとになってみせます」
カレンの落ち着いた態度が陸にはまたショックだった。離ればなれになってもカレンは平気なんだ、さびしいのは自分だけなんだと思いもした。
大間違いだった。
別れが迫ったある日、カレンは不意に「平気」の仮面をとって、大泣きした。あまりに泣くので、陸はしばらく声をかけられないほど驚き、また見惚れもした。夕陽を浴びた泣き顔がとてもきれいだったのだ。
あれから――もう八年がたったなんて信じられない。
「太刀花さん」
陸はまばたきして、眼の焦点を合わせた。シャーペンの先が文字を書く途中で止まっている。
「むつかしいよね、この問題」
隣の席の女子――名前がとっさに出てこない――が苦笑をこちらに向けている。
「うん」と陸も同じ表情をしてごまかした。「あ、でもここならわかるよ」
「えー、どうやるの」
「おれも聞いていいか」前の席の男子が振り向いて言った。
うんと答えた陸は、眼の端にまだ赤い髪がちらつくようなのを無視した。
カレンの面影を感じるのはこれがはじめてではない。だが最近ではあまり意識しないようにしている。
忘れたことはない。忘れられるはずがないのだ。けれど、いたずらに振り返るのはよそうと決めた。
陸はこの八年で学んだのだ。約束……おもいで……それが何であろうと、あてにしすぎてはいけないということを。自分でコントロールできないものは特に。
授業が終わった。活気を取り戻していく教室のなか、ふと窓の外に目をやると、見飽きた青空が広がっていた。