5. 暗躍
彼は走る。逃げている。
少年だ。
まだ十代の前半だろう。線が細く、尻もちいさい。すべすべの頬、黒毛のない口元が引きつっている。
ひ、ひ、と洩れる吐息には恐怖の色が濃い。
血走った眼を忙しなく動かしているが、すぐそこにある家々の灯がまるで見えないかのように、彼の足どりは暗いほう暗いほうへと向かっていく。
ふらつきながら駐車場に入っていった少年は、ワゴン車の陰になった一台分のスペースに身を潜めた。
膝に手をつき、苦しげに喘ぐ。
その背後に、長々と伸びる影が忍び寄った。
彼女は微笑む。歩いてくる。
少女だ。
どう見ても十代、しかしそれにしては蠱惑的な雰囲気がある。ひざまで届きそうなツインテール、肩やふとももを出した衣装は愛らしい。
だが奇異としかいいようがないのは、漆黒の水中マスクで眼元を覆っているところだ。
それはレンズまで黒塗りで、光を反射していた。はっと振り向いた少年の顔が、一瞬にして絶望に染まる様もくっきりと映った。
「く、来るな」
少女は声もたてずに笑う。少年の怯えようを面白がっている。
夜空にかかった円月が、剥き出しのまなこのようにぎらぎらと光った。
どれくらい経ったろうか。
遠くでクラクションが鳴り響き、やがて止んだ。
薄暗い駐車場では、眼を伏せて沈黙している車列に囲まれて、二人分の影が溶けあっている。
「おチつイタ?」
「うん」
「モウにゲナイデ」
「うん」
少年はただうなずくだけ。精気をなくした様子でひざ立ちになり、少女の手に抱き寄せられるまま、彼女のたおやかな腹部に頭を預けている。
「イイこ……」
少女はささやく。その口元は微笑したまま微動もしない。
声がするとき、その唇の先から数センチ離れたところに波紋が生じた。あたかも空間に水が張ってあるかのように。それが彼女の発声法のようだ。
そこへ砂利を踏む靴音が近づき、金髪痩身の男が現れた。
「これはこれは。お楽しみ中、失礼」
芝居がかった口調で言い、サングラスをはずす。月明かりに浮かんだ顔は美形だが、珍奇でもある。鼻と口に道化じみた赤塗りを施している。
「アルレッキノ……」
振り向いた少女は微笑を消し、口元に波紋を生じさせて言った。
すると男の眼がうっとりと細まった。
花形道化という呼び名を気に入っているらしい。
「お人形さん……邪魔するつもりはないがね、今夜はやめにしないか」
少女は首を傾げる。なぜ、と。
「例の子どもさ。監視の連中が見失った」
アルレッキノは気取った仕草で嘆いた。
「われらが結社主はご立腹だ……。このタイミングで――」
意味ありげな視線を送る。
「それ……がバレたら、まずいだろう?」
少女は歯を剥いて笑った。「おタガいサマ」
アルレッキオは肩をすくめた。少女の発した日本語がわからないというふうにも、少女の挑発的な態度の理由がわからないというふうにも見えた。
「かわいくないな」
結局のところ、それが言いたかったようだ。
「集会に遅れるなよ」
道化男が立ち去ると、少女はひざをついて少年と眼を合わせた。
といっても、少年の瞳に光はなく、その視界に何を映しているのかすら定かでない。
「マタあイマショウ」
「うん」
「ちかエル?」
「うん」
「イイこ……」
少女は少年の首に腕をまわし、引き寄せる。
唇が薄くひらき、差し出された舌がぬるりと光った。