4. 魔術師の国
ナッツは薄暗いところにいた。
テーブルの下だ、と気づくのに少しかかったが、屋外なのはすぐにわかった。足元の芝生がずっと向こうまで続き、曇り空特有の灰色の日差しが広がっている。
四方から聞こえる人声は、他愛ないおしゃべりのようだ。
「‥‥‥」
転送術式の負荷が去り、肉球やひげの感覚が戻ってくると、黒猫は芝生を踏みしめ日向に出た。
夜の大阪よりも冷え込んでいるが、どこかのどかな空気が漂う。
乾いた風が落ち葉のにおいを運び、それに混じって紅茶と焼菓子の香りが鼻をくすぐった。
「ここは……」
カフェ、だろうか。六角形の柿色屋根、白壁と格子窓の上品ぶった建物が見える。
秋模様の庭にテーブルが並び、そのうちのひとつにナッツは注文取りのバイトみたいに呼び出された。そういうことらしいが、肝心のところがわからない。
ここは、どこだ。
「グリニッジ」
ついさっきも聞いた声がして、ナッツの耳が、正確にはナッツが間借りしている獣の耳が、反射的に動いた。
「あの《天文台》があるところ」
黒猫は椅子に飛び乗り、首を伸ばしてテーブルの上に顔を出した。
バロンは――本物の、と付するべきか――先ほど寄越してきた分身と同じ装いだったが、帽子はテーブルの上に置いていた。微笑を含んだ青白い細面、そして黒い眼隠しが見えている。
眼隠しの布は、伊達や酔狂ではない、いつも身に着けているものだ。
「それはまた……」とナッツはカフェのそばを横切る園内道路に眼を走らせた。
ほとんど裸になった並木の向こうに、人類史に残る有名な建物がある。だがバロンの言う《天文台》とは、あの赤煉瓦の史跡を指すのではないと確信し、嫌な顔になった。
「……物騒であるな」
「ええ。だからあんたを呼んだの」
お茶に誘っただけというような口を利き、バロンはミルクたっぷりの紅茶をひとくち飲んだ。
おかしなことに、まわりの客も同じタイミングでそれぞれの喉をうるおした。
英国人は本当にミルクティーが好きだ。
あるいは、誰にとっても格別なものかもしれない――名跡の数々や自然美のなかで過ごす午後のひとときというのは。そういうものを人間はありがたがる。
テムズの河岸から丘を登って平原へと続く広大な自然公園は、どんな生命にとっても居心地が良いようだ。
栗やオークといった木々の下でリスが遊び、その頭上で鳥が自由なさえずりを奏でている。蝶が舞う草花の陰で、冬支度をしている虫のかすかな息づかいまで聞こえてきそうだ。
そこへ、並木道の向こうから黒い車がやってきた。
カフェの前で停まり、助手席からひとり降りてくる。
魔術師のおでましよ、とバロンはささやいた。
まっすぐこちらを目指してくるその男を、ナッツは三十前後の若造と見た。均整のとれた体躯をシックなマーリンジャケットと色違いのスラックスで包み、両耳に光るピアス。勝ち気そうな碧眼は成熟しつつある。
だが、バロンと相対するにはまだまだ青い。
「ごきげんよう、シリウス」
眼隠ししたバロンにぴたりと顔を向けられ、男はぎくりと身体を強張らせた。
「噂の新星に出迎えられるなんて光栄だわ」
男はぐっと表情を抑え込んだ。
「レディ・バロン……あなたひとりですか」
「いいえ。この毛むくじゃらもいっしょ」
男とナッツの眼が合った。
「冗談はよしてください」
男は語気を強めた。瞳の奥で燃える炎を隠し切れなくなったようだ。
「どこです、あなたの〝太陽〟は」
まばたきひとつぶんの間を置いて、「〝息子〟じゃないわ。娘よ」とバロンは言った。
「あたしだって知りたいわ。あの子がいま、どこにいるのか」
沈黙ののち、男は苦い顔で言った。「これでは話が違います」
「それはお互い様ではないかしら」
かさこそと枯れ葉が居心地悪そうに場所を変え、そのあと不意に静寂が訪れた。
まわりから声がしなくなっている。
「面倒なことに……」男は小声で吐き捨てた。
無音の警報器が作動したかのようだった。
店内やほかのテーブルの客のみならず、遊歩道や芝生広場にいた人間までもが一斉に動き出す。
道路に車列が押し寄せ、次々に増援を吐き出し、ナッツたちのまわりを取り囲む。
あっという間に――バロンが紅茶を飲んでいるあいだに――バウムクーヘン状の包囲ができあがっていた。
「歓迎されたな、バロン」
ふんと鼻を鳴らし、ナッツは役者の一味を見まわした。全員が揃いの半仮面をつけて頬から上を隠している。
「この数……海蛇座の星座団ね」
バロンは相手方の人数をきっちり把握しているような顔で言う。
「でもシリウス、大犬座のあなたに彼らを率いる権限はないのでは?」
「そのとおり」
返事は人垣のなかから聞こえた。
「権限は私にある」
列を割って最初に現れたのは、ドローンだった。洗練さもロマンもない、工業的デザインの飛翔体が空中でぴたりと静止する。その真下に光の粒が集まってきた。
魔素立体映像(M‐ホログラム)が、中年の男の姿を描き出した。
男はお役人じみたネクタイ締めの装いで、仮面もつけていない。一見してこの場にそぐわないような雰囲気だが、ほかの誰より大きな顔をしている。
「巨蟹卿……」
はははとドローンから笑い声が響き、映像の男は大口を開けた。
「驚いたか、バロン!」
たしかに一興のスピーカーシステムではあったが、バロンはいささか拍子抜けした様子だ。
相手はなるほど、卿と呼ばれるにふさわしい鷹揚な態度だが、威嚇的な太眉の奥の眼は笑っていない。
「〝十二座〟たるこの私が動いている――その意味はわかるだろうな? ん?」
「そうねえ……ほかの十一人は動いてない、とか?」
「残念だが」と男は言った。「我々は余力を惜しまない‥‥‥。《天文台》八十八星座団の総力をもって、貴様に最高のもてなしを約束しよう」
バロンは笑みを漂わせた。「ちょっと不足かもね」
「試してみるか?」と卿はぎょろ眼を剥いた。
「そうしましょう」バロンは無造作に指を一本立てた。
すると包囲した連中は身を硬くし、緊張が前列から後列へ電流のように伝わった。
「あー!」
ひとりが仮面をはずし、いきなり大声を上げた。
「こんなところにレディ・バロンがいるぞー!」
「ほんとだー!」
「すごい!」
「こっちよ、みなさーん!」
呼応する声が続く。仮面をはずした彼らはたちまち一般人にまぎれこんでしまう。
好奇心に満ちたざわめきが寄せてきた。
史跡の観光客や公園の散歩者――〝本当の〟ふつうの人々――が集まってきたようだ。
いっそう厄介な連中も湧いて出た。
BBCをはじめとした各局の報道中継車が乗り込んできて、ブレーキによる砂埃のなかからリポーターとカメラマンが飛び出してくる。
タブロイドの嗅ぎまわり屋、そしてパパラッチも身ひとつで突撃だ。
たちまちそこは、卑しい詮索好きのるつぼと化した。
「レディ・バロン! なぜここに?」
「《天文台》に復帰するという噂は本当ですか」
魔女狩りの火のように焚かれるフラッシュ。フラッシュ。フラッシュ。
「どうした、バロン!」
愉快そうなカンケル卿の声が響いた。投影映像は消えており、ドローンがぶんぶんとハエのようにテーブルのパラソルの上を飛んでいる。
「何かしようとしていたのではないか? ん? ……んんんんんんんん!?」
卿はようやく気づいたようだ。
「――魔女め! どこに行った!?」
路肩に止まった黒塗りの車の後部座席で、ナッツはため息をついて腰をおろした。
「バロンよ、おまえの人望には嫉妬する」
「照れるわね」
バロンはぶぜんとした様子で、懐から煙草入れを取り出した。
「ここはおとなしくしておくわ」
助手席のドアがひらき、男が乗り込んできた。
シリウス。全天一の輝星の名を冠する魔術師。
冷や汗まみれで固まっていた運転手にとっては救い主だろう。
「喫ってもいいかしら?」とバロンは言った。
シリウスは少し首を動かしたが、振り向かずに声だけ寄越した。
「あなたは自分の立場を考えたほうがいい」
「お手柔らかに」
紫煙が立ちのぼり、車が動き出した。
「レディ・バロン、世界一の魔術師!」
「ふたつの海の救世主!」
スモークガラスの向こうで声を上げているのは、ほんの一部ではあったが、仮面の者たちだった。プラカードまで用意している。
バロンが〝リベルタニア動乱〟において地中海沿岸を、〝世界災厄〟においては太平洋沿岸を救ったというまことしやかな「噂」――それに熱狂する者たちがまだいるというのは驚きだ。
それはバロンが十代だったころの古い話で、国連やら《天文台》やら当時ことに当たっていた大きな機関がいずれも否定し、バロン本人でさえ認めていないという、不確か極まりない話なのだが。
通り過ぎる窓の外の景色は、ますます混沌としてきた。
まじめな仮面の連中が警備員よろしく野次馬たちを御そうとしているが、ふまじめな仮面の者たちは観光客と記念撮影に興じている。
遠巻きの見物人たちはバッキンガムの衛兵交代式を見守るがごとく。犬をつれた地元の人間は素通りだ。
「やれやれ……」
ナッツはかぶりを振り、あきらめ顔で車道の先を見つめた。テムズ河向きの観光名所のほうではない。その反対側だ。
裏グリニッジとでもいうべき場所。王室の森として何世紀も保護されてきた大規模な緑地に、荘厳とも奇怪ともとれる建造物が重なり合ってそびえている。
「天国への階段」、「望遠鏡」、「バベル」……そんな異名を持つ巨塔や楼閣の密集地。
あれが《天文台》。
魔術師の総本山。