3. 魔術師と弟子
それからひと悶着もふた悶着もあったが、なんとか追手をまくことができた。
そのあとの陸の足取りを夜警連中が知ったら、やつら大いに面目を失うだろう。
月下に黒々とそびえるいかめしい建物は都警本部。その眼と鼻の先、木立とお堀に囲まれた都市公園に、陸はいた。
「あ~~~疲れたあ……。もう警察なんて大っ嫌い!」
グチを言いながら、段々になった緑青瓦の屋根をよじ登る。不規則な横風が身体を揺すり、乱れがちな吐息は白くなる間もなく吹き飛んでいく。
そんな状況の陸に、ナッツはさらに冷や水を浴びせるのだ。「このようなことをしておるから、悪いのである」と言って。
むう、と陸は返答に詰まってしまう。
そりゃ、閉館後の大阪城に忍び入るのは犯罪だ。いわんや、外壁を登ってもいけない。それくらい陸だってわかっている。常識だ。
けれど、法に背いてでもその命に背いてはならない相手がいる。これは摂理だ。
「しょーがないじゃんっ。バロン様がここって決めたんだから……」
「毎度あやつの言いなり。それでよいのかの」
「いいのっ!」
陸はつっぱねた。ひとのフードのなかでぬくぬくと丸まっている四本足風情に偉そうなことを言われたくはない。
「さようか」
ナッツはごそごそ身じろぎした。
「それならいっそ、ひとっとびに上まで行けぬのか」
「もうそんな元気ない~っ!」
ひぃひぃ言いながら軒先にしがみつき、どうにかこうにか天守のてっぺんまでたどり着いた。
「バロン様……? どこですか」
本当は声をかけるまでもなかった。瓦屋根の上には一目瞭然、誰もいない。金鯱のペアがつめたく硬く光っているのみだ。
「ド、ドタキャンっ?」
「いや……」
ナッツが頭の上に登ってきて、その重みで陸は首を反らした。
見上げた夜の天井は遥か高く、星はひとつも見当たらず、満月が暈を広げて輝いている。その白々とした光のなかに、ぽつんと黒いものが見えた。
人影だ。
髪や服が風にあおられているのに、その人影は風船のような穏やかさで降りてきた。
肩にかけたファー付きのマーリンコートが目立ち、タイトな詰め襟のローブ・モンタントは闇にとけている。
距離が近づくにつれ、そのほっそりした身体つきがあらわになり、上品なパンプスのつま先が着地に備えて軽く伸びる様もかいま見えた。
そのとき、陸の足元から銅色の光が湧き上がった。
二重円環、芒星、ルーンの文呪を組み合わせた象徴的な図像が、瓦屋根の表面に浮かび上がっている。
(――魔導円陣……っ!)
瞠目した陸の前で、そのサインの構成線が、ぱっとほどけて屋根全体に散った。
途端、屋根の建材が息を吹き込まれたようにうごめき、かたちを変え、組み替わる。
瞬く間に、玉座と足場ができあがった。
そこに、かの人影がふわりと降り立ち、金鯱の素材を使った背高の椅子にゆったりと腰かけた。
「久しぶりね、陸」
つば広のキャペリンハットの下、のぞいた口元がかたち良く微笑んだ。
その声、その笑みは冷ややかで硬質。
だがその内にあたたかい血が通っていることを陸は知っている。だからふっと緊張がほぐれ、風に強張った頬がやわらかくほころんだ。
「お久しぶりです、バロン様っ。最後にお会いしたのは年明けでしたよね? お元気でしたかっ?」
急き込んだ言い方になってしまった。それだけこの人に会いたかったし、何か月も音沙汰がないのを心配してもいたのだ。
そんな陸の気持ちを知ってか知らずか、バロンはすぐに返事をしなかった。彼女の眼元は帽子のつばに隠れているが、品定めするような気配を陸は一身に感じている。
「立ち話もなんだから、あんたも椅子をつくりなさい」とバロンは言った。
えっ、と陸は固まった。
そこで気づく。
バロンがこの場所を指定したのは、ちょっとした〝試験〟のためなのだと。
「どうしたの」
「いやあのう」
泳いだ眼で足元をちらっと見る。
「さっきから念じてはいるんですけどお……何にも起こらないんです」
えへ、と笑ってごまかそうとした。
しかし一秒が一時間に感じるような恐ろしい沈黙を受けて、陸は早々と屈した。
「だ、だってっ、こんな情念のこもった場に干渉するなんて、ふつうのエレメンティアには無理っていうかっ、さ、最新の防魔装置も入ってるしっ、むずかしいんじゃないかなぁ~って……」
冷や汗が止まらない。しゃべっている途中から、バロンの表情がどんどん醒めたものになっていくのだ。ついにはその微笑が消え、陸の師たる魔術師は気だるげに頬杖をついた。
「変わってないわねえ、悪い意味で」
はう。陸は刺されたみたいに胸を押さえた。
「あんたは異能体質者としては優秀よ。けど、もっと〝術〟を磨かないと――」
バロンの軽く伸ばした指先に、ちいさなサインが現れる。
「――あたしの〝弟子〟は名乗れないわね」
魔力で描かれた印が、流星のように瓦屋根に吸い込まれていく。その一瞬あと、足元の建材が震えた。
かと思うと、屋根がぐにゃりと変形し、陸の足にからみついてきた。
「わ、わ、何ですかこれ?!」
「あたしを待たせた罰」
バロンが罪状を告げる間に、粘土のモンスターのようにうごめく屋根によって、陸はうつぶせに引き倒され、背後から襲ってきた金鯱に肩まで呑み込まれた。
しゃちほこポーズでがっちり固定され、動けない。
「そのままで聞きなさい」
「嫌ぁですっ!」
出してっ、とわめく陸の頭をナッツがそばから見下ろしている。自分だけ逃げたのだ。
「あんた、あたしの〝太陽〟がどこ行ったか知らない?」
「たいよー……?」
まばたきしたのち、陸はうーんと考え込んだ。〝あたしの〟とは?
「しょうがない子……」
バロンは懐からシガレットケースを取り出したが、煙草を一本つまんだところで手を止め、思い直したようにしまいなおした。
「とにかく、見かけたらすぐ知らせなさい」
「や、あのっ、そもそも何ですか〝太陽〟って?」
「あら、忘れたの? 子どもの約束なんて儚いものね」
約束――その二文字は陸の脳裏に染み込み、かたちを変えて再び浮かび上がってきた――契約。
「それって……もしかして」
陸は不意にあふれ出した思いを抑えるように、慎重な声音で言った。
「カレンちゃんのことですかっ?」
「違うわ」
「えぇ‥‥‥っ⁉︎」
「そう思ってもいいけど」
「意味わかんないですっ! なぞなぞですかっ?」
「そうかもね……」
バロンはふと、彼方の方角を向いた。
「バロン様?」
「……そろそろ行くわ。時間だし」
陸は眼を見張った。
玉座にあるバロンの身体が、衣服も含め、土くれに変わってぽろぽろ崩れ出している。
「これ……塵傀儡っ!?」
「ただのそれではない」
とナッツは言った。
「遊魂の術式を組み合わせてアバター化しておる。手練の業ではあるが……」
じろ、と陸に視線を刺した。
「仮にも〝弟子〟というなら、勘づいてほしいものだのう」
ぐうの音。バロン相手に化かされても恥ではない、と自分を慰める陸だ。
「でも……分身を使うなんて、バロン様、本当はどこに……?」
む、と黒猫が下を向いた。
足元から光がもれている。
六芒星の――使い魔への命令を示す――魔導円陣がそこに現れていた。
「ナッツも行っちゃうのっ?」
「仕方あるまい。我が身は契約に縛られる……」
湧き上がる光でナッツの姿はだんだん見えなくなっていく。
陸は、あっと思った。「待って! ぼく、このままなの!?」
「術者が場を離れておる。そのうち元に――」
発光がおさまった。
あとには黒猫の影もかたちもない。
バロンの分身も塵土と化して風にさらわれていった。そして秋の夜長の静けさが戻ってきた。
「そのうち、って、いつ……?」
大阪城。日に数千人が訪れる名所も名所。その屋根にくっついた人間を待ち受ける不吉な運命に、陸は震えあがった。
「誰かぁあ!! 助けてええええええええええええぇぇぇ――」