29. 影と光
我が目的は……ほぼ達した――とシリウス卿は述べた。
うつし身である犬の姿が、水のなかの墨のようにゆらめいた。
お面の紳士はうなずき、手にしたちいさな杖を見た。
ほかの共鳴杖と違い、それは巻きつけられた植物の先に大きな蕾がふくらんでいる。それは内に秘めた力を示すかのように、開花しかけた隙間から蒼い光が洩れている。
あとは《天文台》の好きにしろ――シリウス卿はそう言い残して消えた。
◆
外灯がぽつりぽつりと燈る倉庫街。
夜空は雲がちで、地上の光と影はぼやけている。
ほこりっぽいコンテナの隙間にときおり、からっ風が吹いて、向かい合った男たちの上着の裾をはためかせた。
「いまさら〝おりろ〟とはな」
道化男は言った。
「説明してもらおうか」
「ただビジネスが終わったというだけさ」
お面の紳士は答えた。
「君の働きのわりには充分な報酬だったと思うがね?」
アルレッキオは赤鼻にしわを寄せた。不服そうでもあるし、不審に感じてもいるようだ。
「さ。どこへなりとも消えたまえ」
だがアルレッキオは動かず、ちらと白い歯を見せた。
「つれないこと言うなよ。金はいい。俺にも一枚かませろ」
「悪いが君の手は要らない」
事実だった。ことここに及んでは、失って困る人材はいない。
ちんけな小犯罪者を雇うメリットはそこにある。集めるのも捨てるのも楽なのだ。
雇用側の冷情を察したか、アルレッキオは眼の色を変えて食い下がった。
「ターゲットのあの娘……ただものじゃないんだろう? 事情だけでも教えろよ」
「なんだ、〝おみやげ〟にするつもりかね? ほかの子どもたちといっしょに……」
「知ってたのか」
アルレッキオは、くすぐったそうに眉根を寄せた。
「あれは個人的な事業だよ。迷い子たちを導いてやるのさ」
紳士は肩をすくめた。
「エレメンティア資源の誘拐、売買は厳しく見張られている。危ない橋だ」
「ご忠告どうも。だがもう買い手がついてるんだ」
JBは笑みを洩らし、幸運を祈る言葉を口にした。「狼の口に気をつけろ(ボッカアッルーポ)」
そして吹いてきた風に乗るようにして踵を返し、立ち去ろうとした。
「話は終わってないぜ、JB」
機械の声が呼び止めた。
「なぁ、こっちを向けよ」
振り向きざま、紳士は銃の引金を引いた。
アルレッキオの手首から腕時計型のデバイスが飛び、地面に落ちはねる。
道化は自分の腕をつかみ、身を竦ませてわなわなと震えた。そして急に平静を失ったように、くそがぁと叫んでJBに向かっていった。
だがその拳は空を泳ぎ、反対に革靴を腹に叩き込まれて、色男はあえなく地に伏せた。
「痛い、ヒィ……!」
「愚かな。君はもう少しわきまえていると――」
「マンマァー!」
アルレッキオは叫び、逃げ出した。
乱れた金髪が闇に消え、嗚咽も遠のいたかと思われたそのとき、道端から不意に悲鳴があがった。
「aッ卑ぃ~」
スピーカーを通した声だ。
JBが銃を向けて振り向くと、地面にぽうっと光るものがある。
アルレッキオが落とした腕時計型のデバイスに、魔素が集まっている。
その光の粒がとろりと粘着質に溶け、鎖状の文字の連なりと星の図像を描いた。
六芒星の魔導円陣――暗闇にひらいたその孔は、ひとつにとどまらなかった。同じサインが周囲に次々と出現した。
大小サイズ違いの魔導円陣それぞれから、震えとうめきとともに異様な気配が漂ってくる。それはいまにも這い出ようとしている。
まさか……JBはにじり下がり、銃を構えた。
もはやどこから聞こえているのかもわからない道化の声は、いつのまにか、狂った哄笑へと変じている。
空虚な銃声が散発的に響いたあとも、笑い声はやまなかった。
月は素知らぬ顔で雲に隠れていた。
********************
まどろみのもやが晴れ、見えてきたのは、知らない天井。
訝しむ気持ちと、思うように開かないまぶたへのいらつきで、カルアは眉をしかめた。
布団にひじをつき、ゆっくりと身を起こす。
ドレッドヘアが枕の上を荒っぽく這い、寝間着のなかでたっぷりと場所をとった乳房の重心がやわく動くのを感じた。
まだ――この身体は自分と結びついている。そう実感する。
しかしそのことについて何ひとつ考える気にならなかった。カレンのことも。
なんだか、こころが痺れている。
薄明りと畳のにおいに満ちた部屋でぼんやりしていると、ひらきっぱなしのドアのところで、あっと声がした。
陸だ、と見なくてもわかったが、実際眼にするとやつは少し感じが違っていた。
シャワーを浴びたらしく、髪が濡れている。だけでなく表情が湿っぽい。血色の悪い眼元と唇に、きゅっと切なげにしわが寄った。
雨のなか主人の帰りを待っていた犬みたいだった。
「本当にだいじょうぶなの~?」
寝床を出てぴんぴんしているところを見せたのに、陸はしつこくカルアの具合を気にした。朝飯を食う段になってもだ。台所からひっきりなしに振り返る視線が煩わしい。
「ああ。何回も言わせんな」
黙って飯だけつくってろと思いながら、カルアはトーストした食パンにベーコンエッグをのせ、ジャムとチョコソースをたっぷりかけてかじりついた。
陸が味噌スープを持ってきて、気を取り直すような微々笑をよこした。
「君の体調次第だけど、あとでスーパー行かない? お昼は好きなのつくったげる」
「いや、おめえガッコー行けよ」
「学校?」
陸は眼を丸くした。
「いいよ休むから」
「よかねえよ」
カルアは口のなかのものをのみこんだ。
「ちょっとひとりにさせろ」
「だめだよ、そんなの。バロン様とナッツとも連絡つかないのに……」
陸は心細げな顔をしたが、カルアはあまり気にしなかった。放っておかれるのには慣れている。
「あの女の手下を呼ぶ。それでいいだろ」
陸にその案をはねつける考えはなさそうだった。わかった、と不承不承に言い、ようやく腰を上げ、奥の部屋に引っ込んだ。
と思ったら、カルアが次のひとくちに行く前に慌ただしく戻ってきた。
「ねえねえ、どっちがいいと思うっ?」
これと、これ、と陸は言い、両手にそれぞれ持ったハンガーかけの服を示した。
どっちも同じブレザーに見えたが、よく見ると下が違う。スラックスとスカートだ。
「オレちゃんに訊くな」
めんどくせえ、というのが本音だ。
え~、と陸は口をとがらせた。
「でも君の意見聞きたーい。ね? 教えて?」
軽い調子の裏に、何か切実なものを感じて、カルアはうかつな口をきけなくなった。食事に戻るふりをして、ちょっと考える。
「……いままではどうしてたんだよ?」
「んー、いまの学校では、ずっとこっち」
男子の制服を持ち上げた。
「でも正直、ぼくはどっちでもいいんだ。気にするのは他人だから。〝じゃあみんなが決めてよ〟って思ったりするけど……言えないもんね、そんなこと」
その言い草と苦笑いが、カルアは気に食わなかった。なんか違うんじゃねえか、という思いが胸に湧く。でもどう言葉にしたらいいのかわからない。
「じゃあ、オレちゃんもどっちでもいい」
陸の期待していた答えではなかったようだ。
「そっか……」
「でもよ」とカルアはそっけなく言った。「あいつなら――カレンなら、たぶん、こう言うぜ。〝てめえは、てめえらしく〟ってな」
ひるがえって、自分はらしくないことをしてるんじゃないかとカルアは思った。変なことを言ったんじゃないか、と耳が熱くなる。
陸の反応をちらちらうかがっていると――この野郎――最初はあほづらしてたくせに、だんだん眼を輝かせた。
「うんっ!」と良い返事が返ってきた。
◆
運動場に砂埃が上がる。朝の空気は肌寒いけれど、みんな額に汗を浮かべ、ボールを追いかける。制服のままだ。
陸もスラックスの裾をまくっていた。
「陸!」
滝内からのパスを受け、ドリブルで相手ゴールに近づく。大柄なディフェンスふたりが立ちはだかったが、勢いに任せて振り切った。
前が開いたところで、右足を振り抜く。
決まった。
あまりにできすぎなゴールだった。自分でもびっくりしている陸のもとに、みんながわっと集まってきた。
「やるじゃん、太刀花!」
「おまえ素人ちゃうやろ!?」
えへ、と陸ははにかんだ。
「ぼくサッカー好きなんだ」
「えーっ、隠しとったん」
「悪いで、こいつー!」
みんな笑っていたが、滝内は口をとがらせた。
「じゃあなんで、いままで断ってたんだよ? 誘ったのに」
冗談らしかったが、陸は同じ調子では返せなかった。
「……自信なかったんだ。みんなと、ふつうに、やっていけるかどうか……」
ぼくはフツウじゃないから――そんな言葉がのどまでせり上がった。
すると滝内が、おもむろに陸の胸に拳を置いた。どん、とけっこう荒っぽく。
「何、気にしてんだよ」と滝内は笑った。
「そう、そうだぜ」
「ふつーに絡めやー、白眼剥いてー」
「それヤバイやつやん」
まわりの明るい声に、陸は胸の奥が照らされるようだった。悪い想像が洗い流されていく。そんなものをためこんでいたことが気恥ずかしく思えた。
一歩踏み出すように、陸は口を開きかけた。
しかしそこで、不意の声が届いた。
「陸ちゃーん!」
男子のなかに分け入ってきたのは、絵李だった。
「ちょ、ちょお来てっ!」
見たことがないほど緊迫した様子で、絵李は陸の手を引き、そこから連れ出した。
校舎に入ると、絵李はやっと手を離して振り返った。
「陸ちゃん、あの話聞いてる?」
「何の話?」
「今朝うちのクラスの子ぉが、よその学校のやつらに、怪我させられたんやて」
えっ、と声が出た。「その子、大丈夫だったのっ?」
「うん。たいしたことないって。すぐにまわりの人が助けてくれたんやって」
けどやばいんよ、と絵李は深刻な顔をした。
「相手の輩たちな、押さえられても暴れて……そんで、叫んでたんやって……陸ちゃんの名前」
絵李の顔色が、陸にも移った。
「ぼくの?」
「それだけやないねん。〝緋色の髪〟――赤い髪のことやろうけど――〝そいつ、つれてこい〟言うてたって」
陸ははっとした。絵里も同じドレッドヘアを思い浮かべているようだった。
「やっぱり、カルアちゃんのことやんな……? なんかあったん?」
「絵李ちゃん、その相手の学校どこかわかる?」
陸は問いを返した。
「それが……ほかにもな、絡んできた連中がおるらしいんよ。夏香の聞いた話やと、そっちは大人やったって……」
陸は奥歯を噛んだ。起きないと思っていたことが起きた。
無関係のひとが巻き込まれるなんて――すべての可能性を再検討しなければ。でも、考えがまとまらない。
「なぁ」と絵李は陸の腕を揺すった。「警察に相談したほうがええんちゃう? ふたり、大丈夫なん?」
「……うん。だいじょうぶ」
陸は顔を上げた。うまく笑ったつもりだが、絵李の不安を払うには至らなかったようだ。
それでも「安心して」と言うしかなかった。
「もう迷惑はかけないから……絵李ちゃんにも、学校のみんなにも」
駆け出した。絵李が呼ぶ声を振り切って。
廊下や階段ですれ違う生徒の視線がチクチクと棘のように感じる。
「ねえ、聞いた? 太刀花さんが――」
教室に入ると同時にそんな会話が聞こえた。話しだそうとしていた子が、陸に気づいてあっと言葉をなくした。
困惑した顔と不思議そうな顔が並んでこっちを見ていた。
「あの、太刀花さん……」
誰が声をかけてきたかも確かめず、陸は携帯端末の入った自分の荷物をとり、うつむいたまま立ち去った。
校門を出て走りながら〝彼女〟に電話をかける。
つながらない。
竜三にかけた。数分前の着信が残っていたからだ。しかし一向に出ない。
「なんで……っ」
焦燥が募る。脚をどんなに速めても、早鐘をうつ鼓動には追いつかない気がした。
自分のアパートに戻ったとき、陸はほとんど動転しかけた。
なかに異様な気配がある。〝彼女〟のものではない。
引き抜くように玄関ドアを開けた。
「――よう。どうしたんだ、あわてて?」
赤いドレッドヘアが見えた。
サングラスをかけた大男だ。
かつらをかぶったイスマイルが、食卓の椅子から立ち上がって身をくねらせた。
「OREちゃん、びっくりしちゃったZE~!」
陸はカバンを投げつけた。




