2. ウィークエンド・スクランブル
平和だなぁ、と陸はつぶやいた。
黒マスクのなかで声がこもる。マスクをずらし、はぁと白い息を吐いた。
「平和だ……」
オレンジ色の灯りがともる飲み屋街をうろつき、ブルーとパープルに煙るビル群を見上げて川沿いを何往復もしたあと、御堂筋の端にある大きな駅の前にやってきた。
いや。漂着した、と言い替えてもいい。
マウンテンパーカーのポケットに手をつっこみ、壁にもたれた陸の眼の前を、たくさんの靴が横切っていく。たくさんの色違いの声も聞こえてくる。
猫も杓子も浮足立つ土曜日の夜、大阪ミナミはどこもかしこも人だらけだ。
「ねえナッツ、まだ連絡ないの?」
ナッツは毛づくろいに勤しんでいたが、呼ばれて顔を上げた。
この骨太のオスは、眉間を斜めに走る傷痕を除けば、至ってふつうの猫に見える。しかしその宝石めいた瞳の奥にはふしぎな光がある。
その眼が陸を見つめたかと思うと、ぷいと横にそれた。
「陸よ……あまり人前で話しかけるな」
黒猫は声を低めた。
「夜警に眼をつけられると面倒である」
ナッツの視線につられ、陸も歩道の向こうを見た。信号待ちのところに、警官と犬のペアが立っている。
警官の防犯ベストには「大阪都警察」の文字。犬の首元で光る警光灯は、夜眼に沁みるような蒼色だ。
過去の〝世界災厄〟ーーそれによる東京の首都機能喪失、それに続く大混乱。
それらを教訓とした「二都構想」や「魔素技術推進計画」がこの国にもたらしたものはただひとつ――混沌だけだ。
などとのたまったえらい人の名前を、陸は思い出せない。
一方で、頭に浮かぶのは、現状を毛糸玉にたとえた女のことだ。
いわく、その毛糸玉は「セーターをつくるつもりで大失敗した成れの果て」なのだそう。
複雑に絡まりあった糸を一本引っ張ると、向こうにいるような使い魔つきのパトロール警官が出てくるというわけだ。
糸をもう一本引っ張れば、無届けの使い魔をつれた夜歩き中学生が見つかるかもしれない。ナッツはそのことを気にしている。
「じき呼ばれる。おとなしくしているがよい」
「わかってるよ」
陸は口をとがらせ、歩行者信号が青に変わるのを見つめた。
横断歩道に人波が流れ込んでいく。
難波駅西口のスクランブル交差点は、渋谷のそれとは違って、かたちは歪だし華やかでもない。けれどここにもいろんな人がやってきてはすれちがっていく。
いろんな族属、いろんなファッション、いろんな表情。いろんな言語にいろんな性癖趣味指向。あまりにいろんな色がありすぎて、通行人AからZではとても足りない数の交差する人生。
もしこの雑踏のなかに、昔の仲良しがまぎれていたとしても、誰も気づくことはできないのだろう。
なんて思いながら、陸は靴音のオーケストラに耳を澄ませていた。
「お嬢さん(シニョリーナ)……チャオ! シニョリーナ」
陸がちょっと驚いて振り向くと、見知らぬ男が笑いかけてきた。
金髪の外国人だ。しかし一瞬ホストかと思ったほど服も香水も甘ったるい。おまけにちょっとしたピエロメイクを施している。今年のハロウィンはもう終わったのに。
「やっぱりね」
男は日本語を話した。と思ったら腕時計型のデバイスがしゃべっている。
「キミは美しい。その花のような顔を、もっとよく見せてくれないか」
うわあと陸は引いてしまった。これは関わっちゃいけない人だ。フードを目深にしてうつむく。
すると男はきざな仕草で腰を折り、にやつきながら陸の顔をのぞきこんできた。
「……ぼく、十五歳ですよ」
ハハと笑う男。「じゃあ、もう愛を知ってもいいころだね。違う?」
男のデバイスには、上等な翻訳会話AIが搭載されているらしく、本人と同じ声がよどみなくスピーカーから響く。その声に合わせるように、男は笑みを見せたりウィンクを投げたり――さながら道化のパントマイムだが、陸にはあまり楽しいものではなかった。
何も答えず、その場を離れることにする。
ああ、と男は自声で嘆いた。
「姫様! ミ・ディスピアーチェ!」
通行人に指差されたり、笑われたりしても平気らしい。
「呼んでおるぞ」とナッツが言う。
からかっているのだろうか。やめてよ、と陸は眉をひそめた。
「〝女王〟が呼んでおる」
陸は足を止めた。「場所は?」
「天守閣」と黒猫は言った。
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「あー? 知らねえよ。あいつら、〝あの女〟の手下じゃねえのか?」
街角の暗がりから声がしている。
車のヘッドライトがそこに流れてきて、にんじん色のドレッドヘアとだぼだぼのストリートファッションを一瞬照らし出した。
「ま、どうでもいいや」
そのドレッドヘアの人物は携帯で話す合間に、器用にも片手で持ったフライドチキンとソフトクリームにかぶりついた。
「しばらく戻らねえからよ。あの女にもそう言っとけ。じゃあな」
通話が終わったあと、携帯端末はビスケットか何かのようにへし折られ、ぽいと放り捨てられた。
そいつは素手でそれをやってのけた。
そして輝く月に向かって両腕を広げた。まるで祝福の抱擁を求めるかのように。
「――自由だぜ……!」
そのとき、けたたましくバイクをふかす音が聞こえてきた。すぐそこのコンビニの前に単車乗りのグループがいる。
赤いドレッドは単車乗りたちの様子を見ているふうだったが、やがてその口元に嬉々とした笑みを浮かべた。
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陸はふと眼線を上げた。何か聞こえた気がしたのだ。
身体は薄暗い宙空に弧を描いている。
アパートの屋上から跳躍し、建物のあいだにぽっかり開いた谷間を飛び越えようとするところだ。
隣の雑居ビルの屋上に着地した陸の足元に、ぱっと光の粒が飛び散った。
「ねえ」マスクをずり下げる。「何か聞こえなかった?」
よく気づいたのう、と応じる黒猫は、肩車のようなかたちで陸の頭のうしろにしがみついている。この体勢が楽だというが、陸にはちっとも理解できない。
建物から建物へ跳び移る168センチのヒト型の乗り心地なんて、最悪に決まっている。
官憲の使いっぱしりめ、と蔑むように言ったナッツは、陸とは違う方角を見ていた。「?」と陸が首を傾げた途端、甲高い鳴き声が降ってきた。
鴉だ。
野生のものではない。首についた蒼色の警光灯が嫌でも眼に入る。
夜警の使い魔。
やば、と陸は声をもらした。
人を呼ばれたりしたらまずい。あの使い魔とその主人が視覚を共有している場合はもっと厄介だ。監視カメラに追われるようなもの。
陸はあわてて駆け出した。
猫より速く、猿より軽く。屋上から屋上へ。人の道も獣道もない場所をひた走る。
街灯の頭、電柱の先端も踏み台にする。
その最中にも細かなきらめきが足元に現れ、陸の背後に天の川のような余韻を残した。
常人を超えた動きは、魔素の働きによるものだ。
魔素のなかには、処女エネルギーとも呼ばれる〝魔力〟がたくわえられている。それを陸は運動エネルギーに変換し、跳躍している。
一方、着地の際に脚部を襲う衝撃ーー陸にとってはありがたくない負のエネルギーは、逆に魔素に変換して減じる。
世界律方程式「E=mc2乗」のなかを魔素と魔力は好きに泳ぐ。その動きを誘導するのが、エレメンティアの基本的な異能のひとつで、陸がもっとも得意とするものだ。
追手との距離はみるみるひらいていった。しかし鴉は応援を呼んだらしく、別方向から新手の鳴き声が飛んできた。
「あいつら、本気すぎないっ?」
「シニョリ~ナには、ちとつらいかのう」
いちいちからかってくるナッツを、陸はむんずとつかんだ。
「いけえ、黒猫砲弾!」
空中で身をひねり、ジャンピングスロー。
ナッツが頭から飛んでいく。
不意の迎撃に、鴉たちはびっくりしたようにガァガァ鳴いた。
そのすきに陸は屋上から飛び降り、コンクリートジャングルの谷底に身を躍らせた。
圧のこもった空気が下から押し返してくる。風が逆巻き、フードがめくれ、栗色のロングボブの髪がぐしゃぐしゃになったが、気にしている余裕はない。
歩道に着地した瞬間、陸のマウンテンブーツのまわりに魔素のしぶきが散った。
しかしその粒々のきらめきは、もっと強烈な光の照射に飲み込まれた。
「どけえーっ!」
ヘッドライトと爆走音のなか、かすかにそう聞こえた。なぜバイクが歩道を走ってくるのかを考える前に、陸は悲鳴をあげて飛びのいた。
すぐそばをびゅんと一台が通り過ぎたあと、今度は五、六台が一気にやってきた。
「返せや! あほんだらぁ!」と若者たちが怒鳴っている。
謎の追いかけっこは歩道から車道へと移っていった。陸も思わず道に出て、その暴走集団のうしろ姿を呆然と見送った。
「何、あれ……」
またエンジンの音が近づいてきた。
見ると、白バイだ。あたりまえだが車道を走っていて、脇にいた陸が邪魔になることはないはずだが、なぜか眼の前で止まった。
バイクにまたがった警官がじろりと陸を見た。
「君ぃ、学生?」
「えっ!? いやその‥‥‥」
「何しとん、こんな時間に」
塾の帰りだとかウチ未成年ちゃうわとか、そもそもそんなに遅い時間じゃないとか、言い逃れの材料は無数にあった。けれど陸は反射的に遁走した。
「あ、こら!」
白バイが追ってくる気配。
そこへ黒猫がやってきた――鴉の大群を引き連れて。
「ぎゃあ! 来ないでっ!」
陸は叫んだが、ナッツは構うことなく背中に飛び乗ってきた。
「急ぐがよい。待ち合わせに遅れる」
「わかってるよっ、もう!」