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 黄昏にそまるペテンブルクの町角を、ペトレは息せき切って走った。道行く人びとから、けげんな視線を投げつけられるのもかまわずに。


 悪い予感は的中していた。町のいたるところに、虫食いのような空き地があった。ほころびはいつからはじまっていたのだろうか? 気がつけば、いくつもの建物が忽然と姿を消していた。美術館や銀行、礼拝堂。そして、シアーシャとふたりでバレエを観たあの劇場も。


 ふしぎなことに、ペテンブルクの住民たちは、町にあらわれた不自然な空白をまったく気にとめていなかった。


「すみません、ちょっとお尋ねしたいんですが」


 ペトレは通りがかった婦人をつかまえて、たずねた。


「ここに劇場があったのをご存知ですか? ほら、入り口に、羽の生えた馬の彫刻があったでしょう? どうしておぼえていないんですか? もぎりのダニーはどこに行ってしまったんです?」


 早口でまくしたてるペトレにおびえて、婦人は彼の手をふりはらった。


「なんですか、あなたは? 警官を呼びますよ!」


 部屋に帰ったペトレは、ベッドに座って頭を抱えた。


(なんてことだ!)


 ペテンブルクは、ペトレの心がつくった町だ。彼自身が町を去るか、実在をうたがわないかぎり、いつまでも不滅のはずだった。それが、こんなかたちで壊れるなんて、いったいどうして予想できただろう?


 ペトレは、はげしく苦悩した。


(ぼくがシアーシャと出会ったことで、この町の歯車は狂ってしまった。もう、彼女とは会わないほうがいいんだろうか?)


 だがその選択は、彼自身のみならず、シアーシャをも深く傷つけることになるだろう。ふたりには来週の約束も、再来週の約束も、そのまた先の約束もあった。ぺトレがとつぜん別れを告げれば、彼女は裏切られたと感じるに違いない。


 幸せな気持ちから発せられた「信じられない!」という言葉ですら、町にとっては毒となり、その存在をむしばんだのだ。シアーシャが心からペトレにうたがいの言葉を放てば、町がどうなってしまうのかは、火を見るよりも明らかだった。


(どうすればいいんだ……どうすれば)


 夜を徹して悩みの迷宮をさまよったペトレは、重くのしかかる闇の底で、ひとつのアイデアを拾いあげた。

 彼は発見した。シアーシャを悲しませずにこの町の崩壊を食い止める、たったひとつの方法を。


 そのためなら――


 もう一度だけ、どんな嘘でもついてやろうと決意して、ペトレは唇を噛んだ。



   *



 翌朝、青白い顔で工房にあらわれたペトレは、親方に深々と頭をさげて、一週間の暇がほしいと願いでた。


「わがままばかりいって、ほんとうに申し訳ありません。七日たったら、かならずここに帰ってきます」


「そうか」


 親方はペトレを一瞥しただけで、すぐに机にかがみこみ、懐中時計の修理に戻った。


「七日もほったらかしにすりゃあ、掃除も洗濯も、さぞやりがいがあるだろう」


 口の中でそうぼやいたきり、彼はもう背後に立つペトレのことなどすっかり忘れてしまったようだった。

 だが、ペトレが別れの言葉を言って工房を出ていこうとすると、親方はおもむろに立ち上がり、店の外まで見送りについてきた。年老いた時計技師は、はじめて出会った日と同じように、ペトレの顔を穴があくほど眺めたあとで、こういった。


「戻ってこようと思っているやつは、ふつうそんな目をしない」


 ペトレが言葉を返せずにいると、親方は眉間に寄せた深いしわを、ほんのわずかにゆるめて、いった。


「だが、まあ……、疑っちゃいないよ。おまえは嘘つきって柄じゃないしな」


 人目につかない隠れ家をもとめて、ペトレは町はずれの廃屋に忍びこんだ。その屋敷は、彼自身、つくったことをほとんど忘れかけていた場所にあった。長いあいだ想像の光が当たらなかった屋敷の中は、見るも無惨に荒れ果てていた。大広間の床には、かつては粛々と時を刻んでいたであろう壁掛け時計が、打ち捨てられて、永遠の眠りについていた。


(時間を忘れて嘘をつくには、おあつらえむきのところじゃないか)


 と、ペトレは皮肉な気分でひとりごちた。


 部屋の中央に立ち、肺いっぱいに息を吸いこむ。そうして固くまぶたを閉じて、ペトレは嘘をつきはじめた。最初はゆっくり、だんだんテンポを速めながら、言葉の糸を編んでゆく。まるで宙に見えないタペストリーを織り上げるように、彼は緻密に嘘をつむいだ。


 ペトレの嘘は、六日六晩つづいた。


 七日目の朝、彼がそっと口をつぐみ、閉じた目をひらくと、そこにはもうひとりの自分が立っていた。


 ペトレはやつれた口もとに満足げな微笑みを浮かべ、新しいペトレにたずねた。


「やあ、ペトレ。気分はどうだい?」


 ペトレは、ペトレにこたえた。


「最高だよ! 当然じゃないか。これから大好きなシアーシャと会うんだからね」


 嘘から生まれた新しいペトレは、ぱりっとした服を着て、左手に真っ赤なバラの花束を、右手に青い指輪を持っていた。ほんもののペトレに見送られ、彼は意気揚々とシアーシャの待つ塔へと出かけていった。彼は今日、シアーシャにプロポーズをするだろう。シアーシャは目を丸くして、「嘘みたい!」とさけぶだろうが、もう世界が壊れる心配はない。


(これでよし)


 ほっと胸をなでおろす。


 ペトレは渾身の嘘をついて、ペテンブルクの町をあざむいた。今なら、自分が町を去っても、世界は気がつかないだろう。ほころびかけていた嘘の輪は、原因であるペトレ自身が出ていくことで、ふたたび完全なものになる。都市は営みをつづけるだろう。


 ほんとうの主人がいなくなったことに気がつかないまま、いつまでも。



   *



 ペトレは、嘘の町を創造したとき、いちばん最初にまっ赤な門を建築した。


 赤は嘘をあらわす色だ。ペトレの瞳も、生まれつきルビーのようにうつくしい赤だった。


 街門は、朝日をあびて堂々とした姿を誇っていたが、あたりには人の姿はほとんどなかった。門を守る衛兵すらいない。それもそのはず、ペテンブルクの歴史上、出ていった住民や、入ってきた旅人は、ただのひとりもいなかったからだ。唯一の例外である、ペトレ自身をのぞいては。


 ペテンブルクの境界に立つ門は、決して閉じられていたわけではない。門はいつでも開け放たれていた。では、そもそも、どうして門は必要だったのだろうか?


(そのほうが、入るときに気分が出ると思ったんだけど)


 と、ペトレは胸の中でつぶやいた。


(もしかしたら、心のどこかで、出ていくときのことを考えていたのかもしれない)


 今となっては、自分自身の真意さえ、もうわからない。


(ふたしかな世界をこわがって、たしかな嘘で自分のまわりを囲んだのに、結局、ぼくはふたしかから逃げられなかった。当然だ。ぼく自身が、どうしようもなくふたしかだったんだから)


 ペトレの体のまんなかでは、シアーシャへの恋心が、聖火のように燃えていた。たしかにそこに存在するのに、触れることも、消すこともできない、青い炎だ。


 今ごろ、彼女はどうしているだろう?


 もうひとりのペトレが差しだした指輪を、笑顔で受けとってくれただろうか?


 とめどなくあふれる思いをふりきって、ペトレは門へと歩きだした。


「待って」


 ペトレの腕を、固くてあたたかい手がつかんだ。


「人をだまして、ごめんなさいも言わずにどこかへ行ってしまうつもり?」


 と、シアーシャはいった。必死で走ってきたのだろう。きゃしゃな肩は上下し、つくりものの薄い胸板は、荒い呼吸でめいっぱいにふくらんでいた。


 不意をつかれたペトレは、しぼりだすような声でいった。


「そんな――。もうひとりのぼくは?」


 シアーシャはペトレにぐいと詰めよって、大げさに顔をしかめた。


「びっくりしたわ。あなただれ? って問いつめたら、いきなり砂になるんだもの」


「きみがはじめてだ」


 つっかえつっかえ、ペトレはいった。


「ぼくの嘘を、みやぶった人は」


 赤い目をした若者と、青い目をしたからくり人形。見つめあい、立ちすくむふたりのあいだを、黄色い砂まじりの風が吹き抜けてゆく。


 先に口火を切ったのはシアーシャだった。


「ペトレ、きいて。わたし、あなたにずっと言いたかったことがあるの」


 まっすぐにペトレの目を見て、シアーシャはいった。


「わたしの中に宿ったいのちは、もとはあなたのものなんじゃないかって思うの。なぜかはわからないけど、そんな気がするのよ。だからわたしは、どんなときも、あなたのそばにいようと決めたの。離れ離れになったら、いのちが欠けてしまうみたいで、なんだか気持ちわるいもの」


 そういうと、シアーシャは胸の小さな扉を開けて、心臓のあたりから、真鍮の歯車をひとつ外した。彼女はそれを、ペトレの薬指にはめた。


「あなたがだれでも、これからどこに行くつもりでも、わたしはへいき。だから、いっしょに行きましょう?」


 人形の白い指先が、ペトレの前に差しだされた。


「ああ……そうだね。そうしてほしい」


 ペトレはうなずき、シアーシャの手をにぎりかえした。


 シアーシャはいった。


「ほんとうに? もう勝手にわたしをおいていったりしない?」


「もちろんだよ」


 ペトレはこたえた。


「一度でも、ぼくがきみをだましたことがあった?」


「ついさっき」


 目に涙をため、シアーシャは微笑んだ。ふたりは寄りそい、歩調をあわせて歩きはじめた。


 ペトレの足が一歩ペテンブルクの外に出たとたん、緋色に塗られた街門も、町いちばんの時計塔も、左手の先の恋人も、すべてが砂になって消えた。


 ペトレはふりかえらなかった。どんな嘘よりもうつくしいほんとうをみつけた彼は、まっすぐに地平線をめざして歩いた。


 足跡はすぐに砂が隠してしまった。

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