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 ペトレが町にやってきて、ひと月ほどが過ぎた。


 はじめのうち、親方はペトレに、身のまわりの世話だけをいいつけた。男やもめの親方は、技師としては一流だったが、家事の腕はからきしだった。


 ペトレを待ちかまえていた仕事は、文字どおり山のようにあった。洗濯物の山、汚れた皿の山、ゴミの山……。ペトレは毎日朝から晩まで、掃除、洗濯、料理、買い出しと、家政夫のような日々に明け暮れた。


 親方は、ペトレがすぐに音をあげ、逃げ出すものと踏んでいた。ところが、この身元不明の若者は、存外粘りづよかった。彼はひとことの愚痴もこぼさなかった。


 そればかりか、最初の言葉どおり、いっさいの嘘やごまかしをよしとせず身を粉にして働いたので、ひねくれものの親方も、ついには折れて彼の弟子入りを認めた。


 作業場への出入りを許されるやいなや、ペトレは時計技師として目ざましい成長をみせた。


 この若者は、とりたてて器用ではなかったものの、人並みはずれた記憶力と、想像力をもっていた。


 彼は、時計の中につまった小さな部品のひとつひとつがどこにあり、どのように動くのか、ひと目見ただけで完璧に記憶することができた。

 そして、図面もひかずに新しい仕掛けを考えついては、たびたび親方をうならせた。


 ある朝、親方はペトレを呼びつけていった。


「広場の大きな時計塔は、おまえも見たことがあるだろう。この町ができたころから立っている、いわば巨大な骨董品だ。週に一度は、技師が塔のうえに登って、機械の調子を整えてやらないといけない。

 おまけに、人形が踊るからくりがついていて、そっちの仕掛けもとびきり複雑ときた。ほかにまかせられる職人もいないから、もう何十年ものあいだ、おれがひとりで面倒をみてきた」


 ペトレはうなずき、親方の言葉を待った。


「だが、不愉快なことに、おれのほうにもとうとうガタがきはじめたみたいでな。最近じゃ、足が痛くて階段を登るのもつらいんだ」


 そういうと、親方は懐から古びた鍵を取り出して、ペトレにぽんと放り投げた。


「今日からはおまえにまかせる。間違いのないようにやってくれ」



   *



 塔はペテンブルクのシンボルだ。


 持ち運びのできる時計はとても高価で、買えるのはほんの一握りの人間だけだったので、ペテンブルクで暮らす人びとの多くは、今が何時か知るために、日に何度も時計塔を見上げた。


 親方の口ぶりは、まるで子どもにおつかいを頼むような調子だったが、まかされた仕事が決して軽いものでないことは、新参者のペトレにもはっきりとわかった。


 親方からあずかった鍵を使って、ペトレは時計塔の扉をくぐった。


 中はあまり光が差しこまず、日中でも薄暗かった。カンテラで足元を照らしながら、人ひとりがやっと通れる幅のらせん階段を、注意深く登っていく。


 最上階にたどり着いたとき、巨大な振り子や歯車のあいだから、ふいに鈴の音のような声がひびいた。


「こんにちは! わたしはシアーシャ。あなたはだあれ?」


 おどろきのあまり、ペトレは短い悲鳴をあげて、床に尻もちをついてしまった。長い時間をかけて降り積もったほこりが、粉雪のように宙に舞う。


 シアーシャと名乗った声の主は、あわててこう言い足した。


「おどろかないで! わたしはふつうのからくり人形よ。ただ、ちょっと、生きているだけなの」


「そんなばかな! 生きているからくり人形なんて、いるわけがない!」


 動揺のあまり、目を白黒させながら、ペトレはさけんだ。


 声の主は、口をとがらせていいかえした。


「しかたがないじゃない。いるわけないっていわれても、わたしはここにいるんだもの」


「でも! まさかーー」

 そのとき、飾り窓から一条の光がさしこんで、シアーシャの姿を照らした。


 ペトレは思わず息をのんだ。


 陶器のような白い肌。上等の馬毛でつくられた艶やかなまつ毛。すらりとした踊り子のいでたちは、まるで冷たい機械のすきまに咲いた一輪の花のよう。



 彼女はうつくしかった。この世のものとは思えないくらいに。



 塵がきらきらと光る部屋で、ふたりは言葉を見失い、しばらく互いの目だけを見ていた。


 やがて、ペトレは落ち着きを取り戻すと、立ちあがってこういった。


「大きな声をだしてごめん。ぼくはペトレ、時計技師だ。親方のいいつけで、この塔のメンテナンスをしにやってきたんだ」


 ペトレはシアーシャに歩みると、おそるおそるたずねた。


「もし失礼じゃなければ、きみのことを調べさせてもらってもいいかな? なんていうか……、人形が生きているなんて、すぐには信じられなくて」


「うたぐりぶかい人ね。いいけど。変なところはさわらないでちょうだいね」


 ペトレはシアーシャの体にふれ、そこに宿るいのちの感じや、歯車に接続された足を調べた。


 自分の目で確かめたあとでは、彼女がまぎれもなく命ある存在だと、認めざるをえなかった。


「なんてことだ……。きみはほんとうに生きている。いったいどういうことなんだ」


「わたしもずっと考えてたけど、よくわからないのよ。このあいだまでは、ただの人形だったんだけど」


 シアーシャはふかぶかとため息をついた。


「もしかして、神さまが失敗したんじゃないかしら。よく似た部品をつけ間違えるみたいに。ねえ、そんなことってあると思う?」


「そんなへまをやらかす神さまは、職人として失格だろうね」


 なぜかがっくり肩を落として、ペトレはこたえた。



   *



 シアーシャはおしゃべりをしたがったが、ペトレは先に自分の仕事を済ませることにした。


 歯車についた汚れをふいたり、必要な場所に油をさしたり。劣化がみられる部品があれば、くわしく手帳にメモをとった。


「考えてみれば、この塔ぜんたいが、きみをダンスさせるためにつくられているようなものだね」


 感心したように、ペトレはいった。


「仕掛けをじろじろ見られるのって、なんだかきまりわるいわ。できれば、踊りだけ見てほしいわね」


 とシアーシャはこたえた。


「ぼくにはこっちもおもしろいけど」


 ひととおりの作業を終えると、ペトレはシアーシャのそばに腰をおろした。


「よし、できた。なんとかお昼には間にあったよ」


 ペトレが鞄からパンを取りだしてかじるのを、シアーシャはさも興味深そうに眺めていた。


「それで、きみのことだけど」


 とペトレはいった。


「いったい、いつから生きているの?」


「一か月くらい前よ。でも、ほんとうはもっと前から、いのちを持っていたのかもしれない。

 踊っていたら、とつぜん朝目が覚めたみたいに、生きているって気づいたの」


 シアーシャはペトレに問いかけた。


「あなたはこの町に住んでいるんでしょう? 外はどんなところなの?」


「ペテンブルクはいい町だよ。住人はみんなまじめで、心根のやさしい人ばかりだ。

 レストランも、公園も、劇場も、必要なものはなんでもそろっている」


「町の外にはなにがあるの?」


「町の外にはなにもないよ」


 ペトレはそっけなくこたえた。


「すてきなものは、なにも」


 シアーシャがさらに質問をしようとしたそのとき、正午の鐘が鳴り響き、青銅の扉がパタンとひらいた。


「あら! 踊らなくちゃいけない時間だわ」


 からくり人形たちをのせた舞台は、がたごと音を立てながら、レールに運ばれ扉の外へと出ていった。


 シアーシャはいつものダンスを踊ろうと片足をあげて、体の軽さにおどろいた。ペトレがさした油のおかげだ。


 五分後、踊りを終えたシアーシャは、上機嫌でペトレにいった。


「見てくれた? いつもよりずっと上手に踊れたわ! まるでそよ風になったみたいに!」


 ペトレは返事をしなかった。彼はあいまいな表情を浮かべて、シアーシャの姿を、見るともなしにぼんやりと見ていた。


「どうしたの? 浮かない顔をして」


 なんでもないとこたえたら、嘘をつくことになってしまうから、ペトレは返事をしなかった。


 彼は、もう二度と嘘をつかないと自分自身に誓ったのだ。



 この町の門をくぐった、あのときに。

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