絶体絶命
たらりと首筋を汗が伝うのを感じた。
本来ゴブリンはある程度経験を積んでから戦うべき魔物であり、とてもじゃないがダンジョン初日で挑む相手じゃない。
ギョロギョロと、何が楽しいのか不気味な嗤い声を上げながらこちらを観察していたゴブリンだが、不意に姿勢が低くなり太い足の筋肉が隆起する。
咄嗟にジスは短剣を構えるが、目の前にいるカレンは呆然と立ち尽くしたままだった。
「くそっカレン!」
咄嗟にジスはカレンの腕を思い切り引っ張って、自身の後ろへ追いやる。
どさっという音が聞こえたが、そちらを振り返る余裕はない。
そんな事をすれば、さっきの女の子と同じ未来を辿ることは明白だった。
ゴブリンが地面を蹴り飛ばし緑の弾丸と化す。
高速で振り下ろされる棍棒に対し、ジスは逆手に構えた短剣で迎え撃った。
ガィィィンッッ!!と互いの得物が接触する。
ゴブリンの身長はジスの胸程であったが、筋肉達磨という言葉がぴったりの肉体から放たれる一撃は果てしなく重かった。
「ぐッッッ!!?」
刃が接触した刹那危険を感じたジスは、瞬時に後ろへ飛んで衝撃をいなす。
ビリビリと痺れる腕に軽く顔を顰めた。
もしまともに受け止めていたら確実に腕が使い物にならなくなっただろう。
眼前の敵の強大さに思わず頰が引きつる。
だが、もうすぐ……
「カレン、ジス!!」
待っていた声が聞こえた。
先行していた二人にグレンとティア、そしてサレナが追いついてきた。
サレナならゴブリンなど敵ではないだろう。
ジスの目的は時間稼ぎであり、サレナがこの場に到着した時点でジスの目的は達せられた。
ジスは内心ほっと安堵のため息をつく。
しかし、次のサレナの一言は衝撃的だった。
「……逃げるぞ」
油断なくゴブリンと睨み合っていたジスだったが、その言葉に思わず振り向く。
「何でですか!?サレナ先生ならゴブリンの一匹ぐらいどうとでも────」
「一匹じゃない」
サレナがジスの後ろを指差す。
ギョッとして再度ゴブリンの方を見る。正確にはその奥を。
暗がりに薄らと浮かび上がるシルエット。
十匹、二十匹……じゃない。
下手をすれば桁が一つ変わるほどのゴブリンの大軍が背後へ控えていた。
「まさか………まさか【大量発生】か!!?」
数年に一度、いずれかの階層で魔物が大量に発生するという事が起きる。
ダンジョンが減少した魔物を補充しているだとか、いろいろな説があるが、今はそんなことはどうでも良い。
問題なのは、溢れかえった魔物が階層を移動する事があるということだ。
「くそッ!!何でこのタイミングなんだよ!!」
何で一層にゴブリンがいるのか、そして今すぐ逃げなければならないことは理解した。
流石にこの数をこの面子だけで倒せるわけがない。
ジスはくるりと踵を返し、早口で話す。
「カレン、サレナ先生!前陣にいるゴブリンに向かって魔法を放って!ゴブリンの身体でゴブリンを足止めします!」
単純な追いかけっこではゴブリンに分があり、何とかして足止めをする必要があった。
ジスはこの状況をどうにかしようと頭をフル回転させる。
「わ、分かったわ!炎の嵐よ、吹き荒れろ!業火嵐ッッ!!!」
「分かった。雷の槍よ、敵を穿て!雷電槍!!」
幸いなことにカレンも既に混乱から抜け出しており、二人ともオーダー通り手前のゴブリンに向かって魔法をぶっ放した。
その結果、手前にいた数体のゴブリンが瀕死の傷を受けて倒れる。
どうやら運はジスの味方をしたらしい。
予想以上に多くのゴブリンが戦闘不能になったようだ。
倒しきらない事でゴブリンの足止めとなっている。
奥のゴブリン達は細い通路で邪魔になった味方のゴブリンを乗り越えるのに苦戦していた。
「今だ、逃げるぞ!」
強力な魔法を放って疲労したカレンに手を貸しながら、ジスは入り口に向かって走り出す。
行ける。
逃げ切れる。
見えた希望は、背後で鳴ったドシンッ!!という爆音によって儚く消え去った。
恐る恐るジスは振り返る。
先ほどのゴブリンよりも一回り大きいゴブリンが手にした棍棒を振りかぶっていた。
「ジスッッ!!!」
「うおぉぉぉぉぉぉッッッッ!!!」
ゴブリンとカレンの間に身体を割り込ませ辛うじて短剣で受ける。
先程の反省を踏まえ、受け流しを試みるが無理な体勢で受けたこと、そして何より棍棒の破壊力が先程と段違いであり、ミシミシッとジスの体は嫌な音を立てて、カレンごと大きく吹っ飛ばされた。
「があぁぁぁぁッッ!!?」
腕を灼く壮絶な痛みにジスは咆哮する。
右腕の肘から先が変な方向に曲がり全く動かない。
しかしいつまでも寝ているわけにはいかず、ジスは噛み砕くかという程に歯を食いしばり何とか立ち上がる。
「ギッギッギ」
ニタァと口が裂けるような残忍な笑みを浮かべてゴブリンがゆっくりと近づいてくる。
恐怖を与えるように。
その顔は愉悦に歪んでいる。
それは弱者を甚振る者の目だった。
「ハイゴブリンだと……!?」
サレナが驚きを隠せないといった様子で呟く。
ハイゴブリンは二十層相当の魔物である。
なるほど、通りで出鱈目な力を持っているわけだ。
現実逃避気味にジスはそんな事を考えた。
どうする?
どうすればこの状況を変えられる!?
「お前達は逃げろ」
ジス達を庇うようにサレナがハイゴブリンとの間に立つ。
そして、ハイゴブリンに向かって杖を突きつけた。
「先生……でも……」
「いいから行け、ハイゴブリンなら倒した経験がある。安心しろ。私も後で追いつく」
「……ジス、逃げよう」
「カレン!?」
一番反対しそうなカレンがサレナの指示を聞いた事にジスは驚き、カレンの方を向く。
唇を噛みしめすぎたのか、口から血が垂れている。
顔は悔しそうに歪み、その目はジスに向けられていた。
(そうか、この場で一番足手まといなのは……僕だ)
カレンはこのままサレナを置いて逃げたくなど決して無いのだろう。
しかし、負傷したジスをこのままにする訳にはいかない。
その葛藤の中で彼女は選択した。
ジスを助ける事を。
あるいはサレナならこの状況でも、生き残れるかもしれないという淡い希望もあっただろうか。
「……分かった。……先生、必ず助けを呼んできます。それまで持ちこたえてください」
「ふっ、なるべく早く頼むぞ。まあお前らが戻ってきた時には、全て片付いてしまっているかもしれんがな」
サレナの軽口に、強張った顔が少し弛緩する。
ジスはサレナに向かって一つ頷いた。
「……カレン、行こう」
サレナに背中を向けた、その時だった。
ギエッギエッ
ギャギャギャッ
「……畜生……そんなのってありかよ……」
思わずジスの顔がぐしゃりと歪む。
ハイゴブリンの背後からゆらりと現れた二つの影。
さらに二体のハイゴブリン。
「お前達、早く逃げろ!私が少しでも時間を稼ぐ!雷の嵐よ、焼き焦がせ!迅雷嵐ッッ!!!」
サレナを起点に生み出された雷の群勢がハイゴブリンを襲った。
乱舞する雷を前にハイゴブリン達は蹈鞴を踏むが、一匹のハイゴブリンがダメージを無視してサレナに肉薄する。
横殴りに振られた棍棒をサレナは咄嗟に杖で防御するものの、決して防御力が高いわけではない魔法使いのサレナは洞窟の壁に叩きつけられ、ぐったりと動かなくなった。
ハイゴブリン達の勝ち誇ったような醜悪な嗤い声が洞窟内に反響する。
頼りになる存在であったサレナが一瞬にしてやられてしまった現実を直視し、カレン、グレン、ティアは呆然と立ち尽くす。
そして、ジスは諦めた。
「カレン……ごめん」
ジスは残った左手で短剣を握り、傍にいたカレンを抱き寄せるとその切っ先をカレンへ向けた。