8.月夜の調べに歌うのは…(終)
どさり、と。
巨体のわりに存外軽い音を立てて、影は落ちてきた。
「終わった、のか」
「いいや」
職人の言葉に先生は首を振る。
四人が見つめるなか、影は次第ににしぼむように縮んでいく。
そこには、身を丸めるようにして眠る黒猫がいた。
各々が見つめるなか、
「この子……!」
女性が声をあげた。
駆け寄ってその寝顔をまじまじと見つめて、絞り出すように、
「うちの、子よ」
どこからか現れた白猫がその顔をなめると、黒猫はやおら目を覚ます。
鳴いて、二匹は顔を擦り合わせた。
「だが、その猫はもう……」
「ええ、死んじゃったわ」
それでも、ごろごろとのどを鳴らし喜ぶような二匹に、おのずと二人はほっと息を吐いた。
そして黒猫は、しばし宙に視線を漂わせると、職人を見つめる。
「この子、あなたも三味線も好きだったからねぇ」
ほら、と女性は黒猫を差し出す。
桐箱を代わりに預けると、職人は恐る恐る受けた。
黒猫は身じろぎすると、職人に顔をすり付ける。
「ほら、こんなに嬉しそう」
「まったく、何がそこまで好きなんだろうな」
「でも好きなのよ。だから最期はあなたに託して……ね」
やがて、にわかに黒猫の体は光り、薄くなってくる。
言わずとも、二人は理解した。もう別れの時だと。
「その箱、開けてくれないか」
その言葉にしたがって、女性は箱を開けた。
薄手の桐箱の中には、折り畳まれた革。
うっすらと見える傷に、女性は見覚えがあった。
「ねぇ……やっぱり、これって」
「この子の皮から作った。この革で三味線をこさえるつもりだったんだが、今日になってようやく来たんだ」
その革を、黒猫はじっと見つめていた。
「三味線、習うんだろう。この子の三味線、使ってくれないか」
──はい、と。
女性が答えると、黒猫も一つ、鳴く。
そしてふぅ、と溶けるように黒猫は姿を消した。
月明かりに照らされて、ほのかに革が輝いたように見えた。
◆ ◇ ◆
後のことである。
職人は三味線を完成させた。黒猫のものも、依頼のものも。
その作業中に何者かに襲われたり、妨害されるなど問題はなかった。
すべてを完成させるなりぶっ倒れたこと以外は。
女性は送られた三味線をもって、早速演奏をならい始めた。
弾き手が師となる。なぜかそこには職人の姿もあったが。
鳴らせるだけじゃダメ、もっと深く知らなくてはとは職人の言である。
そして三人の授業と相成った。
もっとも、最初は弾き手と職人が首ったけで女性に”いろは”から教えなくてはならなかったが。
二人につきそわれ恐る恐る爪弾いては、笑顔が弾けるその姿はとても暖かなものだった。
月明かりに照らされた夜道に、遠く三味線の音が響く。
それにしても、と少女が口を開いた。
「猫革を仕舞った箱がああも傷つけられたのはなんだったんでしょう」
「まあ、確実なことは言えないがね、おおむね見当はつく」
月を見上げながら、先生は意地悪そうに笑って、
「嫉妬すれば爪を剥く」
「ええ、と。次は私よ、いいやアタシ……ということですか」
何てことだ、と少女は頭を抱える。
「そんなことで化けて出るわしてたんですか……?」
「大事じゃないかい?」
そうですかねぇ、と少女は首をかしげる。
「順番はすぐに回ってくるのに」
聞いて、先生は腹を抱えた。
わしわしと少女の頭を乱暴に撫でる。
「な、なんですか。やめてくださいよぉ」
「いい子だ、お前は」
やがてその手は優しいものになる。息を吐いて、
「まあ覚えときな。私たちにもよくあることさ。『私が一番よ』ってのはね」
気づけば三味線の音は、調べに変わっていた。
旋律が一つ。ぎこちない流れのわりに、実直で勇ましい音がよく響く。
旋律、二つ。つたなく、おぼつかなくとも、懸命に紡いでいく。
旋律、三つ。二つの音に寄り添い、つまづく足をそっと支え導いていく。
──おや。
気づけば、音色に厚みが増していた。
旋律が、四つ。
五つ、六つ、そしてたくさん。
三味線だけではない。鼓に箏、笛の音も。
どこから響いてくるのか。
「おお、囃子だ」
先生はからから笑い、にぎやかな音色に耳を寄せる。
少女も、楽しげな調べに耳を傾けている。
調べにのって、猫の声が聞こえた。
歌うような、軽やかな声だった。